VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2006年11月

数日前の新聞に「人と野生鳥獣共生事業」を始めた人々の記事が載っていました。

広島県の中国山地に拠点を置く「日本ツキノワグマ研究所」の所長米田一彦さんは大学生のとき初めてクマに出会って以来2500回にわたり、クマと出会われたそうです。

森林の伐採や温暖化の影響で自然の生態系が変化し、森の鳥獣は生活の場を人間の住む集落に移さざるを得ない状況になりました。

一方山村では過疎・高齢化が進み、耕作放棄地が増えたため、クマは人の気配の消えた里山に出没し、ばったりと人と出くわした結果、捕獲し殺処分されるのです。

絶滅の危機に瀕したツキノワグマとの共生の道をさぐって、捕獲したクマに発信機をつけて放獣するという「奥山放獣」作戦や、人里に接する荒れた耕作放棄地の雑木の刈り取り作戦、工作放棄地での農場作りなど、いろいろな試みが展開されているそうです。

「奥山放獣」の前に捕獲したクマに唐辛子スプレーを浴びせて、人間界の怖さを学習させる試みも始まっています。

クマの気持ちになってみれば、住処の森林を縦横無尽に荒らす人間に唐辛子スプレーを浴びせかけ、撃退したいところではないでしょうか。



本日はクマにちなんで、吉村昭氏『羆嵐』をアップしたいと思います。

大正4年、北海道北西部の苫前町で実際に起こった日本の獣害史上最大の獣害を仔細に描いたこの作品は吉村氏の著書の中ではドキュメンタリーに属するものです。

12月の極寒の雪深く貧しい開拓村六線沢で早朝に起こった馬の嘶きによって、この悲劇は始まりました。

冬の間の食糧として軒下に吊るされていたトウキビの大半が羆によって食い荒らされたのです。

冬眠のための穴を確保できなかった羆は気性荒く、「穴持たず」といわれ、雪中に餌を求めて彷徨するといわれて人々から恐れられています。

六線沢から下流の三毛別で史上最大の羆害が起こったのはそれから10日ほど後のことでした。

それからわずか2日の間に男女6人が一頭の羆によって殺害されたのです。

目を覆う残忍な現場でしたが、著者の抑えた筆遣いは冷徹に、しかも淡々として、あくまでも観察者の域を超えない姿勢が、よりこの作品に凄惨味を加えていることは吉村氏ドキュメンタリーの最大の特徴といえると思います。


「羆」という自然の脅威の前で、人間がいかに知恵を絞って抗おうとしても、「集団」の無力さが浮き彫りになるだけ、ということを史実を元に丹念に書き込んでいます。


物語の中盤以降登場したひとりの年老いたクマ撃ち銀四郎によって、百数十名の「無力な集団」にメタファ的役割を与えた筆致は本当に見事です。


難航する羆退治に業を煮やして、荒くれの銀四郎を最後の手段として迎えるまでの住民の葛藤や、極寒の北海道の未開地の厳しさが丹念に描かれていて、後世に残すべきりっぱな資料にもなっているのではないでしょうか。
 
羆の恐ろしさと共に、大自然に対峙する当時の開拓者たちの厳しい生活を垣間見ることができました。

27歳の若さで肺結核で亡くなった石川啄木ですが、友人金田一京助へ捧げた『一握の砂』は啄木の死の3年前に発表されました。

当時東京の朝日新聞社で校正係をしながら、細々と生計を立てていました。

☆友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買いきて妻と親しむ

☆気の変わる人に仕へてつくづくと わが世がいやになりにけるかな

☆いつか是非出さんと思ふ本のこと 表紙のことなど妻に語れる

☆さびしきは色に親しまぬ目のゆゑと 赤き花など買わせけるかな 

☆一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねといのりてしこと

☆こころよく人をほめてみたくなりにけり 利己の心に倦めるさびしさ

ほんとうに幸せ薄い一生でした。



今日ご紹介する本は啄木の歌からの題名『友がみな我よりえらく見える日は』です。

著者上原隆氏はあとがきで、次のように述べておられます。    

「人生には、自分の努力ではどうにもならない苛酷なことがある。
この本で書いたことの多くはそのような問題だ」

この本には市井の片隅で生きる名もない彼や彼女の14の人生が詰まっています。

この14の人生の主役に上原氏が一時期寄り添い、時には行動を共にしながら交わした会話がそのまま書かれています。

昔ベストセラーになった『アメリカン・ビート』の作者ボブ・グリーンの語り口に似て、
感情を交えない簡潔な文で、淡々と交わした会話から、それぞれの重い人生が見えてきます。

「友人が本物の不幸におちいった時、私は友人になにもしてあげられないことに驚き、とまどった。 私にできることといったら、友人が自力で不幸を克服するのを見ていることくらいだった」

アパートの5階から墜落して両目を失明した著者の学生時代の友人田島にCDをプレゼントすることしか思いつかない著者。

アルコールが原因で妻子と別れ職も家も失った片山とともにダンボール暮らしをしながら駅のゴミ箱から捨てられた雑誌を拾う仕事につきあう著者。

『オキナワの少年』で第66回芥川賞をとった東峰夫は自分にとって大切なものだけ握りしめ、そのほかのものはすべて捨ててきた人生でした。

「ぼくは、一生懸命でした。裏表なく、自分の信じる方向に向かってまっしぐら。18歳で高校をやめた時から走り続けている」と東。

「私のような普通の人は、途中で走るのをやめたんです」と著者。


そのほか、度々襲ううつ病のため、希望する看護士から挫折した上田。

女優をめざして精一杯努力しても、演出家から可能性を否定される田辺。

それぞれの重い人生が著者の手にかかると、なんだか哀愁を帯びた滑稽さを含んだものになり、読み手にホッと一息つかせてくれる、そんな小説です。

先日、文化審議会国語分科会が敬語に関する指針案を発表しましたね。

それによると、いままで尊敬語、謙譲語、丁寧語と3分類だった敬語を、謙譲語を2つに分け、丁寧語は丁寧語と美化語に分け、5分類にしています。

謙譲語1は自分がへりくだって相手に話す言葉、謙譲語2は自分の動作などを丁重に話す言葉だそうです。
新しい美化語は物事を丁寧に表すもので、「お皿」など「お」をつけて相手を敬います。

それにしても謙譲語1,2と丁寧語の区別はかなり難しく、具体的な例を挙げてもらって理解するというのがわかりやすいように思われます。

指針案では、方言や世代や性別による言葉の多様化、サービス業におけるマニュアル敬語にも幅広く言及していることは時代に即する敬語を考える上でよいことだと思います。

私が未知の人との電話などで度々経験することさらの尊敬語や丁寧語は、相手からの尊敬や自分への丁寧さを感じられるどころか、かえって慇懃で不快な感じを与えるように思われます。

直木賞作家出久根達郎氏も書かれていましたが、敬語は他者への愛からおのずと発せられるもので、思いやりがあれば多少ぎこちない使い方であっても許されるのではないでしょうか。


本日ご紹介する『「人生の答」の出し方』の中の「癒し人は言葉が美しい」という章で、著者柳田邦男氏は医師という職業においての言葉の大切さについて述べておられます。


「医師もまた言葉を使う人である」というソクラテスの言葉は時代を超えた普遍的メッセージとして心ある医師に受け継がれることは医療を受ける側の私たちにとっては祈りにも似た希望です。


聖路加の日野原重明医師を初め、『野の花診療所まえ』などのエッセイでご自身のホスピスでの患者さんとのやり取りを書かれている鳥取の徳永進医師など、患者との会話に命を吹き込んでおられる姿はとてもすばらしいものです。

「人生への答」の章では「いのちと響き合う言葉」を主題に、北條民雄氏の著書『いのちの初夜』に触れられています。

ハンセン病のため全生園に隔離され、世と断絶し、23歳で亡くなった小説家北條民雄氏については以前書いたことがありますが (http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/42)、
氏の命が生み出したともいえる著書『いのちの初夜』によって、人生の方向を見出した1人の障害者藤野高明氏を知ったことを柳田氏に深く感謝します。

藤野氏は7歳のとき、家に持ち帰った小さなパイプ状のものが不発弾とも知らず遊ぶうち、爆発し両目、両手を失ってしまいます。

その後20歳になるまで公的な教育機関から捨て置かれたまま、17年という月日が過ぎます。

開眼手術のため入院した病院でひとりの看護師がベッド脇で読んでくれた『いのちの初夜』によって、唇や舌先を使って点字を読む人がいることを知った藤野青年は点字を習い、ついには32歳で大学を卒業、教員免許を取得後、盲学校高等部の教師として30年勤務します。

藤野氏は手記の中で次のように書かれているそうです。

「継続は力でした。 文字の獲得は光の獲得でした」

V・E・フランクルの言葉「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題である」という言葉ぴったりの藤野氏の歩みでした。

五体満足な私たちこそ最も不自由な精神の世界にいるのではないか、と思いました。

NHK・BSでここ連夜、ヴィスコンティ監督による映画を再放送していますね。

ヴィスコンティファンにとっては嬉しい放映ですね。

「夏の嵐」、「白夜」、「ルードヴィッヒ」と続き、明日は名作「ベニスに死す」。

ドイツを代表するノーベル賞作家トーマス・マン原作の『ヴェニスに死す』を映画化したもので観られた方も多いでしょう。

美少年に魅せられた老作曲家の愛と苦悩を描いて話題になりましたが、トーマス・マン、ヴィスコンティともに同性に対しても恋愛感情を抱くバイセクシュアルであったといわれています。

ヴィスコンティ特有の暗く重い抑制された描写とマーラーの交響曲第5番とが重なって、ダーク・ボガード演ずる老作曲家が少年を求めて彷徨する姿は人間の救いようのない愛の哀しみを感じさせる映画でしたね。

その時代、バイセクシュアルであることをカミングアウトしていたヴィスコンティでしたが、彼自身その特殊性を認識していたが故、このような題材を取り上げたのではないでしょうか。

時は移り現代の日本でも、おすぎさん、ピーコさんを代表する明るいホモセクシュアルなどの方々が登場し、世の中の見方も大きく変わってきたのはとてもいいことだと私は思っています。



さて今回は、同じBSでお昼に放映されているアニメ「赤毛のアン」の作者モード・モンゴメリの研究家モリー・ギレンが書かれた『赤毛のアンの世界』をご紹介したいと思います。    

モンゴメリが1908年に刊行して以来、いまだに世界中の人々を魅了し続けてている『赤毛のアン』ですが、アンを取り巻く自然や作者モンゴメリの生涯を、美しい写真と共に余すことなく伝えてくれているのがこの本です。

プリンス・エドワード島の四季の写真は本当に美しく、色とりどりの花の乱れ咲く丘の向こうからいまにもアンが駆けてくるようです。


1歳9ヶ月で母を亡くすという人生の厳しいスタートを切ったモンゴメリでしたが、預けられたプリンス・エドワード島の母方の祖母のもとで、自然豊かな暮らしの中で『赤毛のアン』の原風景ともいえる毎日を過ごします。

36歳という遅い結婚で伴侶に選んだ牧師ユーアン・マクドナルドとの間に男の子を2人儲けますが、その結婚生活も夫の繰り返しの鬱病のため決して平穏なものではありませんでした。

『赤毛のアン』で花開いたモンゴメリでしたが、次々にアンの物語の続編を求める出版社に対し、
「この本(注:2作目『アンの青春』)が受ければ、今度はアンの大学生活を書けといわれるでしょう。
考えるだけでうんざりします・・・
アンという馬車の車輪にくくりつけられて残る生涯を送ることにでもなったら、わたしはアンを“創造”した日のことを苦々しい後悔の思いをもって振り返るに違いありません」と書いています。

それでも最終的にはアンを主人公に8冊の物語を書いたのでした。

作者モリー・ギレンの別の著書『運命の紡ぎ車』ではもっと詳しくモンゴメリについて書かれているということですから、興味のある方は読んでみてください。

決して順調な人生ではなかったモンゴメリですが、彼女が紡いだこの物語は今、この日本の地方都市に住む私の心にも今もなおほんのりとしたあたたかい光を灯してくれています。

モンゴメリに感謝のありがとうを言いたいと思います。

1979年以降30年近く1人っ子政策をとっている中国では、小皇帝と揶揄される1人っ子を中心に父母、その祖父母の計6人が取り巻き、子どもにすべてを与えることを第一義とした生活を送っている家庭が多いと聞きます。

教育に関する関心は都市部へ行くほど激化し、就学前から熱心に英才教育に取り組む親も多いというのが現状ということです。

本日の新聞にも広州屈指の名門といわれる公立小学校の様子が紹介されていました。

わが子をこの小学校に入学させるために住居まで移動する親、教育費は家計の半分にまで達する家庭もあるそうです。

始業時間になると、正門前には次々高級外車が横付けされる光景は目を見張るものがあります。

日本を代表する国立東京大学でも入学式には同じような光景が見られる、といいます。

もちろん普通の家庭で塾などの助けなしに入学した学生もたくさんいて、ひと括りにはできませんが、潤沢な家庭とそうでない家庭の教育格差はますます広がっているような気がします。

「学びたい」という心から湧き上がるようなエネルギーを持った子どもを育てるのに逆行している現代教育状況を強く感じてしまいます。


今回アップするのは病気のために学びたくても学べなかったひとりの少女の物語です。

15歳で病気の兆しが見え始め、25歳で亡くなるまでの10年間を力いっぱい生きた少女木藤亜也さんの物語です。

ずっと以前友人から手渡されていたこの本ですが、何だか読む勇気が持てなくてベッドサイドに置いたままでした。

脊髄小脳変性症が正式名である彼女の病気は、厚労省が特定疾患としている難病だそうです。

積極的な治療法もないまま、全身の運動能力が徐々に喪失していく、という病気です。

彼女は信頼する担当医から病気のありのままを告げられますが、泣き、苦しみ、なぜを繰り返し、やがて病気と付随する障害と共に力の限り前向きに歩もうとします。

普通高校から養護学校への転校を、歩くことから這うことを、車椅子から寝たきりを、言葉を発することからただ黙することを、、、、次々余儀なくされるこれらの事実に私はただ茫然とするばかりです。

東京都知事石原慎太郎氏は本の扉の裏に次のように書かれています。

「生きることに悩んでいるすべての人に この本を読ませたい」

「いじめられ、死のうと思っていたが、生きる決意をした」と書いた高校生。

「この本は僕にとって、暗闇の中の一筋の光だ」と述べているのは13歳の中学生です。


「後十年したら・・・考えるのがとてもこわい。

 でも今を懸命に生きるしかないのだ。

 生きていくことだけで、精いっぱいのわたし」

世話をしてくれる人に「ア・リ・ガ・ト」とだけの短い言葉しか言えない亜也さんはもっともっとたくさんの言葉で嬉しい気持ちを伝わしたい、と望みます。

その小さな望みも叶うことなく亜也さんは25歳の短い命を閉じました。


今生きる道を失っているすべての人に、亜也ちゃんのことを知ってほしいです。

数ヶ月前、『ブリキの太鼓』の作者であり、1999年にノーベル文学賞を受賞されたギュンター・グラス氏が最新作『玉葱の皮を剥きながら』で、第二次世界大戦末期の17歳頃ナチス親衛隊に入隊していたと告白したことで、非難の渦に巻き込まれたことを覚えておられる方も多いでしょう。

波紋は大きく広がり、ポーランドの政府やマスコミなどにより名誉市民の称号の返上やノーベル賞の返還を求める声が上がりました。

一貫して左翼的な立場を貫いているとされるグラス氏にあり得ない過去だとの批判も多くあり、なぜ今になって、と疑問が疑惑に移り、ナチスを題材にした『ブリキの太鼓』の時点で言うべきだったとの批判もあるようです。

「私は少年時代に与えられた苦しい教訓を理解したと言う権利を持つものです。私の作品と私の政治的行動はそれを証明するものです」と氏はインタビューに答えて、親衛隊だった重い過去を背負って78歳の現在まで生きてきたことを告白しています。

騒ぎも沈静化したようですが、若さゆえの過ちを認めているにもかかわらず、60年たった現在も許されないとしたら、人間に更正の道は閉ざされてしまうような気がします。



今日ご紹介する本は、ノーベル賞作家大江健三郎氏がギュンター・グラス氏を含む世界各国の知識人11人と交わした往復書簡『暴力に逆らって書く』です。        
   
1995年から朝日新聞の夕刊に連載していたのを読まれた方もいらっしゃるでしょう。

大江氏はあとがきで次のように語っておられます。

「私がノーベル賞をもらって、正直なところ本当に良かったと思う唯一の結果は、このような企画を長期にわたって続けられた、ということにつきます」とこの往復書簡に応じてくれた11人に感謝の意を著しておられます。

11人の1人エドワード・サイード氏は手紙の中で、「私が勇気づけられ触発されるのは、大江さんがノーベル賞受賞という計り知れない信望の力を、名声や追従をかき集めるためでなく、人間存在の複雑さとしがらみの泥沼に分け入るために動因していることです」と語っておられます。

すべての書簡を通して見えてくるのは、現在の混沌とした世界を正面から見据えて、各自が何ができるかを必死で模索している真摯な姿です。

敬愛するグラス氏との往復書簡はグラス氏告白前のことでありますが、戦後大きくなったドイツの衰退を日本と重ねて大江氏に問いかけます。

「大江さん、私たちはますます年老いながら、いぜんとして焼跡の子どものままです。
あなたと私は、同じようなやり方で、作家として過去を想起する力を頼りに、あなたはあなたの日本を、私は私のドイツを耐えることを学ばねばなりませんでした」

2人は過去を顧みることで、現代における戦争やテロなどの暴力へどのように立ち向かうかを語っています。

11人はそれぞれの育った背景を背負って様々な問題を考察しますが、それはそれぞれの国や時代を超えて普遍的ですらあります。

アメリカの代表的知識人であるスーザン・ソンタグ氏は手紙の中で決心を語ります。

「私がずいぶん前に自分に課したことがあります。 
自分がそれまで知らなかったり、この目で見たことがなかった事柄については、けっしてどんな立場もとってはならないと」

これを受けた大江氏は新作『宙返り』に触れています。

「私が『宙返り』の最後に書いたのは、じつは私の「知らないこと」です。しかも、老年にいたろうとしている私がーそしてエッセイにおいて知らないことを書くのは犯罪にひとしい、と知っている私がー唯一望みをかけることとして、それを小説に書いたのです」と正直に語ります。

対話は夢を語っていても非常にリアリティーに富んでいて、大江氏の苦悩も時として伝わってきます。

書簡の往復が始まった1995年から2002年までの間に起こった書ききれないほどの悲惨な状況に対して、その時々に全力で解決策を模索する11人プラス1人の姿には深く打たれました。

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