VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2008年01月

読書に関しては多読、乱読、悪食で無節操の私は周囲に呆れられるほどの速読ですが、そのときの心の琴線に触れた本に限っては丁寧に何度も読み返す癖があります。

また頑固にもあとがきから読むというスタイルを若い時から保っています。

夫にいわせると、私のそのスタイルは読書の邪道だということですが、聞いてみるとあとがきから読む人が案外多いのに驚かされます。

夫は手品の種明かしを見たあと、手品を楽しむようなものだといいますが、あとがきを託された同業者である作家や評論家の方々はそのような無粋な種明かしをして読者の楽しみを半減させるようなマナー違反をされる方はほとんどいらっしゃいません。


あとがきにより、よりその作品への期待感が膨らむのを味わう醍醐味を離せないというのが、私のあとがきに対するこだわりです。



今回もそんな魅力的なあとがきに惹かれて一冊の本を選びました。


宮本輝氏が編集された『わかれの船』をご紹介したいと思います。

さまざまな別れをテーマにした14人の作家の小品が選者宮本氏によって選ばれた作品集と銘打ったものです。

★山田詠美氏★伊集院静氏★林真理子氏★吉行淳之介氏★遠藤周作氏★三浦哲郎氏★田辺聖子氏★宮本輝氏★五木寛之氏★中上健次氏★連城三紀彦氏★向田邦子氏★A・チェーホフ氏★水上勉氏


宮本氏の下記のようなあとがきに惹かれて買い求めました。

「これら作品を一作一作味わっていくと、みずから選択したかに見える『別れ』も、生木を裂かれるような『別れ』も、憎しみの果ての『別れ』も、計算された小意気な『別れ』も、流されるままに別れるしかなかった『別れ』も、人間という謎めいた船が暗い水面に残す波に似ていることに気づく」


どんな人生にも必ず巡り来る耐え難く苦しい別れに備えて、心のよりどころになるような別れの教訓を期待して読み進めましたが、どの作品も『わかれの船』というタイトルにはふさわしいような内容とは思えず、選者宮本氏のミスマッチを感じてしまいました。


『わかれの船』に掲載されるのでなければ、それぞれ単独には読み応えのある作品群でしたが、タイトルにこだわる私はとても違和感を覚えてしまいました。


最終的には宮本氏によるあとがきが唯一タイトルにふさわしい情感ある内容だったという感想を抱きました。


本書のレビューから大きく外れて論外だとは思いますが、宮本氏のあとがきに出てくる「釈迦と子どもを亡くした女の逸話」には深く心を動かされました。

ご紹介します。

たったひとりの愛しい子どもを亡くした貧しく卑しい女が、死んだ子どもを生き返らせてほしいという一縷の望みを抱いて釈迦のもとにいきます。

釈迦は女の懇願を聞いて「よし、わかった、その子を生き返らせてあげよう」と深い慈しみをたたえて言います。

「ただし、条件がある。
この町の家々を訪ねて、香辛料を貰ってくることだ。
しかし、香辛料を貰うのは、ひとりも身近な者が死んだことのない家だけに限られる。
夫や妻や恋人や、親や子や兄弟などが、たったひとりでも死んだことのある家の香辛料は役に立たない」と。

女は香辛料が簡単に手に入ると考え、朝から晩まで訪ね歩きますが、一粒の香辛料も手にすることができませんでした。
愛する者と、あるいは身近な者との死別を経験しなかった人間など、ただのひとりもいなかったからです。

やがて日が暮れてきたころ、女は、愛する者との別離に悶え苦しむのは自分ひとりではない、ということを知ります。

生きとしいける者すべては、さまざまな別れから解き放たれることはないということを。

女は自分の赤ん坊を埋葬し、釈迦のもとに帰り、釈迦に帰依しました。


このあと宮本氏は次のように締めくくります。

「どんな言葉を尽くしても(哀しい別れを)表現できないからこそ、人間は『文学』などというものを発明したのだというのが、私の持論だ・・・
読者が、それぞれの別れの思い出の波に、このそれぞれの名篇を流して、それぞれの人生に滋味を沿えて下さるならば幸甚である」


長々書きましたが私はこのあとがきにノックアウトされたのでした。

本日の朝日新聞「惜別」欄に日本を代表する小児科医内藤寿七郎さんの記事が掲載されていました。

昨年暮101歳という大往生で旅立たれた内藤先生は1992年にアメリカの人間行為財団が国際的な社会貢献をした人に贈る「シュバイツァー人間愛賞」を日本人として始めて受賞されました。

1997年には育児の発展に貢献した団体や個人に対して贈られる「内藤寿七郎国際育児賞」を創設されて、生涯子どもたちに優しいまなざしを向けられた人でした。

「子どもだまし」という言葉が嫌いで「信頼を込めて頼めば、2歳児でも約束を守る。子どもをだます必要などありません」と言われていたそうです。

ほおで聴診器を温めてから使い、ひざを床に着けて子どもの目線で診察した、と記事は語っています。

掲載された写真を見ると、記事の内容そのままの柔和な内藤先生が微笑んでいらっしゃいます。

このような心からの笑顔で子どもたちと心を通わせていらっしゃったのでしょうね。

心からご冥福をお祈りいたします。



本日は歌野晶午氏著『葉桜の季節に君を想うということ』をご紹介します。

2004年・第57回日本推理作家協会賞受賞
2004年・第4回本格ミステリー大賞受賞
2004年度このミス第1位

「あらゆるミステリーの賞を総なめにした本書は、必ず二度、三度と読みたくなる究極の徹夜本」


1988年『長い家の殺人』でデビュー

その後、家シリーズの『白い家の殺人』『動く家の殺人』を上梓

他に『ガラス張りの誘拐』『死体を買う男』『さらわれたい女』『ROMMY』などがあります。

2003年に発表された本書『葉桜の季節に君を想うということ』で奇想天外な結末で話題をさらったあと、2005年に発表された『女王様と私』でもその結末が評判を呼んでいるようです。


本書の主人公は「なんでもやってやろう屋」の成瀬将虎、過去に探偵の経験があり、現在はパソコン講師とガードマンの掛け持ちで何とか日々の口を養いながら倦んだ日常を送っている女好きの男があるきっかけから事件がらみの悪徳商法の調査を依頼されることで物語が展開していきます。


最初の章でいきなりハードボイルドと見紛うばかりのセックス描写が現れますが、1回限りの女性関係を余儀なくされている主人公成瀬の真の女性観への伏線的アピールとしてはインパクトのある始まりです。

悪徳商法本拠地への潜入調査や、心を奪われた女性の登場とからみ、その女性の過去、死傷事件の内偵のためやくざ組織への潜り込んだ成瀬の過去の探偵時代のできごとへの悔悟など、用意した何本もの糸を絡ませながら最終章へと突入します。


その最終章での意表返しをしてミステリー賞総なめとなりました。


ここでその意表返しを書くことができませんが、私たちの先入観が導く決めつけと結果とのギャップが大きければ大きいほど、読者が受けとる驚きは大きくなります。


そのギャップを書き始めから見据えて、いたるところに読者の見逃す伏線を張り巡らすテクニックにはやられました。

やられましたが、2度3度と再読したい余韻は残らない作品でした。

新約聖書を宮城県南東部の気仙地方の言葉に訳した方がいらっしゃいます。

『ケセン語訳 新約聖書 マタイによる福音書』

大船渡市で医院を開業していらっしゃる山浦玄嗣氏がその人です。

1940年生まれの山浦氏は東北大学抗酸菌病研究所放射線医学部門助教授をされたあと郷里に戻り山浦医院を開業されました。


仕事の傍ら、故郷の気仙地方の言葉「ケセン語」の研究に没頭され、『ケセン語入門』や詩集『ケセンの詩』、気仙の歴史を書いた『ヒタカミ黄金伝説』、『ケセン語大辞典』などを出版していらっしゃいます。

1990年には岩手県地方の言葉の研究と文化の振興により岩手県教育表彰

2002年、大船渡市市政功労者表彰(文化功労)を受賞されています。


クリスチャンの家庭で育った山浦氏は中学生くらいのとき、聖書を深く読むにつれふるさとの誰もがなじんでいる言葉でふるさとの仲間にイエスの教えを伝えたいという夢を抱いたのが原点だそうです。


「聖書」は標準語で書かれているので、頭では理解できても言葉や生活環境のちがう気仙地方で暮らす人々にとってはどこかよそよそしく、せっかくの教えが心に響かないと感じたことから現在に至っていますが、思い立ってからの道のりは平坦ではありませんでした。


大学時代にまずケセン語の収集と研究に努めながら文法を体系化、3万4千語の辞典を作りました。
夢を抱いてから45年近くの歳月が流れていました。

そして60歳でギリシャ語を学ばれました。

はじめ日本語訳の「聖書」をケセン語に置き換えればいいと安易に考えておられた山浦氏は、翻訳と原典の微妙なニュアンスのねじれに悩み、イエスの真実に近づくにはギリシャ語の原典から訳すべきだということに気づかれたそうです。

こうして膨大な時間とたゆまない努力を経てマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が2004年に揃いました。


クリスチャンでもなく、気仙地方の言葉もまったく理解しない私ですが、図書館で目にしてマタイを読んだときの感動は忘れられません。


人々が苦労を重ねて石ころだらけの荒地を耕してできた汗と愛着の結晶である黒々とふっくりとした土で慈しんで育てた言葉がそこにありました。


日本の東北地方の狭い範囲のふるさとの言葉がこんなに生き生きと立ち上がって胸を打つとは!


グローバリゼーションが提唱されて久しいですが、地域性を育むことの大切さに目を見開く思いでした。


都会という画一的で標準的な文化への憧れから地方に対して否定的な若者にしっかり受け止めてほしいと思います。


「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸(すあわ)せだ。神様の懐(ふとごろ)に抱がさんのァその人達(ひだぢ)だ」


「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」

「書物(かぎもの)にァこうある。『人ァ飯(まんま)でばり生ぎるもんでァねァ。神様の口(くぢ)がら出はる、一ぢ一ぢの言葉(こどば)で生ぎる』」

本日は「生きる 生き延びること」という言葉を遺して日本の将棋界を彗星のような速さで駆け抜け、29歳で夭折した棋士・村山聖のノンフィクション物語をご紹介したいと思います。

昨年末、羽生善治棋士がA級順位戦に勝ち、37歳2ヶ月という年少記録1位で公式戦通算1000勝を達成されたことを覚えていらっしゃる方も多いでしょう。

将棋界で永世名人、永世棋聖、永世王将などの称号を保持されている故大山康晴氏はわが郷土岡山の誇りですが、羽生棋士はタイトルの通算獲得数で大山さんに迫ること2位の成績だそうです。


若き日のその羽生棋士と互角に闘った男・・・東の羽生、西の村山と並び称された天才棋士・村山聖・・・幼少期からネフローゼという病と闘い続け、29歳の若さで散った棋士の短くも濃密な青春の物語です。

棋士番号180  356勝201敗  勝率6割3分9厘  A級八段在籍のまま逝去 日本将棋連名により死去翌日九段追贈 

「村山さんはいつも全力をつくして、いい将棋を指したと思います。言葉だけじゃなく、ほんとうに命がけで将棋を指しているといつも感じていました」と羽生棋士。


入院先の病室で薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ「……2七銀」と言ったのが最後の言葉でした。
そして村山棋士は棺の中の竜王戦の対羽生戦の棋譜とともに平成10年8月8日土に還りました。

15歳でプロデビューを果たした棋士番号175の羽生棋士より1歳上、チャイルドブランド(恐るべき10代)と恐れられた俊英たちの一群に顔を並べていた村山棋士は奨励会在籍2年11ヶ月という異例のスピードで四段に昇進しプロ棋士となりました。


著者大崎善生氏と村山棋士の出会いは「将棋世界」の編集長時代だそうです。

亡くなったあと大崎氏によって2000年に上梓された『聖の青春』は第13回新潮学芸賞、将棋ペンクラブ大賞を受賞、2001年には藤原竜也主演のドラマ「聖の青春」も放映されました。

なお、漫画「月下の棋士」作中に登場する棋士「村守聖」のモデルでもあるそうです。



囲碁が趣味の夫の影響でテレビの囲碁対局などはよく目にしますが、将棋に関してはほとんど無知な私が本書と出合ったのが10年ほど前、以後幾度も読み返していますが、その度に胸の奥に広がる感動は深くなるばかりです。


「怪童丸」の異名を持ち、奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」といわれたほどの終盤の読みの深さに定評があった村山棋士は将棋に対する執念ともいうべきあまりに一直線なひたむきさによって周りの人々から深く愛されていましたが、彼の棋士人生を語るのに忘れてはならないのが、師の森信雄棋士です。

村山聖13歳 森信雄30歳
打倒谷川浩司棋士を唯一の目標に奨励会に入ることを熱望した中学1年の少年村山と当時四段の森棋士との運命の出会いは昭和57年初秋関西将棋会館道場ででした。

「この子を弟子にする。森は会っただけで瞬間的にそう決めていたのだった。
それは師と弟子の不思議な、そして運命的な出会いだった」

そして村山棋士が亡くなるまでの16年間、この師の村山に対する深い愛情は終生変わることはありませんでした。


不幸な生い立ちのあと19歳という遅すぎる受験で奨励会に入会が許された森棋士はその後も幾多の困難に打ち勝ってやっと手に入れた棋士生活の苦労を取り戻すがごとくギャンブルにのめりこむ無為の生活をしながらも、そんな遊びの季節にそろそろ終止符を打ちたいと思っていた矢先の時期でした。


「どうして、せっかく生えてくるものを切らなくてはいけないんですか。髪も爪も伸びてくるのにはきっと意味があるんです。それに生きているものを切るのはかわいそうです」

長い入院生活で多くの子どもたちの死を見つめているうちに心に芽生えたやさしさから伸ばし放題の髪を掴んで床屋に連れていくのも、突然高熱を出す弟子を寝ずの看病をするのも、弟子の下着を洗濯するのもすべて師匠の役目になりました。


私が全編を通してもっとも深く心に沁みた場面はそんな師匠と弟子が夜の公園でばったり会うところです。

それをご紹介してあふれる思いをこんな貧しい形でしか伝えられない読後感を閉じたいと思います。


昭和62年のある寒い冬の深夜、森棋士と歩いていた著者は前の方から体を斜めに傾けながら紙袋を下げとぼとぼと青年が歩いくるのに出会います。

「森が飛ぶように、青年に近づいていった。

『飯、ちゃんと食うとるか?風呂は入らなあかんで。爪と髪切や、歯も時々磨き』機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。

髪も髭も伸び放題、風呂は入らん、歯も滅多に磨かない師匠は『手出し』と次の命令を下す。

青年はおずおずと森に向けて手を差し伸べた。

その手を森はやさしくさすりはじめた。

そして、『まあまあやなあ』と言った。

すると、青年は何も言わずにもう一方の手を差し出すのだった。

大阪の凍りつくような、真冬の夜の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。

それは、人間のというよりもむしろ犬の親子のような愛情の交歓だった。

理屈も教養も、無駄なものは何もない、純粋で無垢な愛情そのものの姿を見ているようだった。

『この人大崎さんや、ほっぺたさわってもらい』と森は言った。

私は何のためらいもなく手を伸ばした。

そのほっぺたは柔らかくそして温かかった。

『早よ帰って、寝や』と森が言うと『はあ』と消え入るような声で青年は呟いた。

そして体を傾け、とぼとぼと一歩一歩むりやり足を差し出すようにしながら夜の帳の中へ消えていった。

空には降り注ぐような満天の星が輝いていた。

つきさすような冷え切った空気が、星を磨いているようだった。

それを眺めるふりをしながら、私は涙をこらえていた。

なぜだろう、そんな気持ちになったのは生まれてはじめてのことだった。

そこは宇宙の片隅の小さな小さな公園だった」

http://www.shogi.or.jp/syoukai/bukko/murayama-satosi.html  故村山聖棋士の経歴です。よかったらどうぞ。

昨夕から降っていた粉雪が今朝はうっすらと家々の屋根に積もっています。

岡山ではこの冬初めての

いちばん寒さが厳しい季節にまた大学入試センター試験が巡ってきましたね。

毎年センター試験ではいろいろなトラブルが発生しますが、最近では電脳社会ならではのトラブルが相次いでいるようです。

19日に行われた英語リスニングの最中に受験生の鞄の中の携帯電話の着メロが約30秒間鳴り続けたり、やはりリスニング中に照明消し忘れ防止用の自動消灯システムが誤作動し試験会場で約2~30秒間照明が消えたり、リスニング開始前の動作確認の際、不具合深刻などで交換したICプレーヤーが288台にも上ったりと大変だったようですね。



そんなマニュアル化した電脳社会や携帯依存症に警告を発しているのが本日ご紹介する柳田邦男氏著『壊れる日本人- ケータイ・ネット依存症への告別』です。


テレビが日本の家庭にすさまじい勢いで普及してきた頃、大宅壮一氏が日本人の未来の姿を「一億総白痴化」と評していましたが、まさに現在そのテレビに取って代わったのが携帯電話とパソコンです。

柳田氏はそのような携帯・ネットへの依存は効率主義に支配された現代社会の最も象徴的な現象と指摘していらっしゃいます。

相次ぐ企業不祥事や重大事故、残忍な少年犯罪の原因をIT機器への依存に集約して様々な実例を紹介し問題を浮き彫りにしながら、日本の二者択一でなく中間の曖昧な領域を許容する文化を省みて、今こそ曖昧ゆえに豊かだった日本文化を甦らせるべきである、というのがこの本の大要です。


長崎佐世保で起きた小学生による殺人事件などに多くのページを割いて遠因をネット依存に結びつけていますが、様々な問題を取り上げてこられた著者の拘りの視野に今回は少し違和感を覚えてしまいました。


ネットや携帯が及ぼす影響はもう見逃すことのできないところまで来ていることは理解しますが、すべてのコミュニケーション不足や自己中心型の人格形成がそれの原因であるというマイナス要素ばかりの指摘には疑問を感じる箇所が多々ありました。


ただ人間同士の画一的でない心のふれあいや、マニュアル至上主義に走らない判断力を培うことを第一義に、という主旨は大きくうなずけます。 


死を目前にした患者の病室で様々な管に繋がれた患者をそっちのけでモニターを見つめる医療関係者や家族の姿を例にとり、昔からの大事な別れの儀式が忘れ去られ、データの管理下で孤独な最期を迎えることを強いられるという現実への指摘はとても重要です。


周辺の機器に絡めとられない真の知恵を培っていかなければならないと思いました。

2年後にサッカーのワールドカップが開催される予定の南アフリカで電力需要の急増に比して発電所の不足から供給電力不足が発生、計画停電が続いているという小さな記事が出ていました。

停電時には信号が消え、連日大渋滞が起こり、交通事故も相次いでいるそうです。

94年の民主化以来、新しい発電所が建設されないことが主な原因の上、民主化以後家庭内の電化が進んだのが電力不足に拍車をかけているようです。

日本から遠く離れたアフリカの様子はほとんどニュースにならないことが多いので、私たちには現実がわかりにくいですが、2年後のW杯をきっかけに関心が深まることを期待しています。



さて本日はそんな広大なアフリカ大陸の内陸部にある「千の丘の国」と呼ばれる自然豊かなルワンダでの虐殺を題材のドキュメンタリーをご紹介したいと思います。

イマキュレー・イリバギザ著『生かされて』がその本です。

ルワンダ大虐殺に関してはブログで次の2冊をアップしていますので読んでくだされば嬉しいです。


 ★『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著
               http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/127
 ★『哀歌』曽野綾子著
               http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/147


四国の1.4倍ほどの面積2.63万平方キロメートル、人口920万人ののどかな小国で1994年に発生した民族間の対立はまたたく間に100万人の犠牲者が出る大惨事に発展していきました。

本書はこの凄惨なルワンダ大虐殺を奇跡的に生き延びたツチ族の女性イマキュレーの手記です。

敬虔なカトリック一家の唯一の女の子であるイマキュレーは愛する両親や兄弟を惨殺され、自身は祈りとともに狭いトイレに91日間もの間隠れ続けて奇跡的に殺戮者の手から逃れることができたのでした。


単にフツ族とツチ族の対立といってしまえば簡単ですが、この悲劇の原因を理解するにはルワンダの歩んできた歴史を知る必要があります。


ルワンダに関する何冊かの本を読んで、憎しみの連鎖のすさまじさ、人間の根源にある憎悪とはかくも醜いものかを感じるとともに、決して無知な民衆だけが付和雷同によって暴走の渦に巻き込まれるのではないということが身にしみました。

相手を誹謗する流言 ―― 例えばヒットラーのユダヤ人に対する憎しみの連鎖など ーー は知識人の間でもまたたく間に大きく広がったのは過去の世界の歴史を見れば一目瞭然です。


身近に襲いかかる殺戮者たちへの恐怖から逃れるため、一日の大半を神と対話しながら真摯に神の声に耳を傾け、希望を失わなかった著者の信仰は、命が助かったときその幸運への感謝に留まらず、両親や兄弟の殺戮者に対する許しへと高められました。


「私は、これから神様がどんな人生を私のために用意しているにしても、人が誰かを許すことを助けることこそが、私の人生の仕事の大きな意味なのだと気づきました」


刑務所で肉親を惨殺した殺人者に対面したとき、「あなたを許します」と心から告げることのできたイマキュレーは本当に偉大です。


本書は彼女が自分自身の心をいかにして憎しみの連鎖から解放していったかを示したすばらしい教示の本ともいえるのではないでしょうか。


現在の彼女はニューヨーク在住、アメリカ人の夫と2人の愛児に囲まれて幸せな家庭生活を営みながら、国連で働き、虐殺や戦争の後遺症に苦しむ人々のための「イリバギザ基金」を設置することに尽力していらっしゃいます。

2006年11月には外務省やユニセフ協会などの招きでに来日し、慶應義塾大学三田キャンパスで講演されて話題になりましたね。

鋼のような信仰心で大虐殺を生き抜いた彼女はこれからも多くの人々の支えになると思います。


最後に外務省が掲載しているルワンダの歴史のほんの一部を転載しますので、興味ある方は読んでください。

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1962年の独立以前より、フツ族(全人口の85%)とツチ族(同14%)の抗争が繰り返されていたが、独立後多数派のフツ族が政権を掌握し、少数派のツチ族を迫害する事件が度々発生していた。

1990年に独立前後からウガンダに避難していたツチ族が主体のルワンダ愛国戦線がルワンダに武力侵攻し、フツ族政権との間で内戦が勃発した。

1993年8月にアルーシャ和平合意が成立し、右合意を受け、国連は停戦監視を任務とする「国連ルワンダ支援団(UNAMIR)」を派遣したが、1994年4月のハビヤリマナ大統領暗殺を契機に、フツ族過激派によるツチ族及びフツ族穏健派の大虐殺が始まり、同年6月までの3ヶ月間に犠牲者は80~100万人に達した。

1994年7月、ルワンダ愛国戦線がフツ族過激派を武力で打倒すると、ビジムング大統領(フツ族)、カガメ副大統領による新政権が成立。同政権は大虐殺の爪痕を乗り越えようと、出身部族を示す身分証明書の廃止(1994年)、遺産相続制度改革(女性の遺産相続を許可)(1999年)、国民和解委員会及び国民事件委員会の設置(1999年)等、国民融和・和解のための努力を行っている。

1999年3月には、1994年の虐殺以降初めての選挙となる地区レベル選挙(市町村レベルより下位)を実施、2001年3月には市町村レベル選挙を実施、2003年8月には大統領選挙が実施されカガメ大統領が当選。政治の民主化が進展している。

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