VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2008年03月

「友情とは、ふたつの身体の中にあるひとつの魂のことである」    アリストテレス

「運命がわれわれに与えるすべての贈り物のなかで、友情よりも大きな財産はない」エピクロス

「人びとが友情と名付けたものは、単なる付き合い、利益の折り合い、親切のやりとりに過ぎない。
所詮それは、自己愛が常に何か得をしようと目論んでいる取引でしかないのである」
                            ラ・ロシュフコー箴言集83


古今東西多くの偉人によって「愛」とともに「友情」に関するおびただしい箴言や格言、詩が遺されています。


日本でも吉田兼好が『徒然草』で「悪しき友」と「善き友」の定義を具体的に示してくれています。

「友とするに悪しきもの七つあり。
一には高くやんごとなき人、二には若き人、三には病なく身つよき人、四には酒を好む人、五には武く勇める人、六にはそらごとする人、七には慾ふかき人。
善き友三つあり。
一にはものくるる友、二には医師、三には知恵ある友」 

うん、うん、なるほど


アリストテレス、エピクロス、ラ・ロシュフコーの3偉人の「友情」への考察、私的にはエピクロスの描く「友情」に値する人でありたいという気持ちで友人に接しているつもりです。


本日はそんな友人の1人、Mさんからプレゼントされた『ラ・ロシュフコー箴言集』をご紹介したいと思います。

あるボランティア団体で苦楽をともにしたMさんとは団体を離れてからも変わらぬ友情を育み、現在では趣味の読書を仲介にお互い既読の手持ち本を宅急便で交換し合うという関係が長年続いています。

Mさんの読書範囲は非常に広く、ともすれば作家や傾向で選び勝ちな私の偏狭な読書に常に新しい風を送ってくれる人です。

そんなMさんが「するどい人間考察があまりにおもしろい」とプレゼントしてくれたのが本書です。


17世紀フランス屈指の名門貴族出身のラ・ロシュフコーのこの箴言集はフランスモラリスト文学の最高傑作として400年以上の時を経ても生き生きと輝いています。

余談ですが、「モラリスト」とは「フランス文学において人間性と人間の生き方を探求し、これを主として随筆的に書き記した人々」のことを指し、モンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコーらが代表的な作家といわれています。


上述した「友情」に関する箴言を見てもわかるように、世の美しいとされているものの中に潜む利己愛や欲望、偽善を読者に阿ることなく辛辣にあばいています。


本書には504の箴言のほか、箴言より少し長い考察19篇、ラ・ロシュフコー自画像、レ枢機卿によるラ・ロシュフコー公の肖像が収められています。

テーマは多岐にわたっていますが、人間の美醜両面にするどい切込みを入れています。


★「われわれが美徳と思い込んでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない」

★「どれほど念入りに敬虔や貞淑の外見で包み隠しても、情念は必ずその覆い布を通してありありと見えるものである」

★「率直とは心を開くことである。
これはごく少数の人にしか見出せない。
ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない」

★「運命は理性の力では直せない数々の欠点を改めさせる」

★「人は決して自分で思うほど幸福でも不幸でもない」

★「変わらぬ愛とは一種の絶え間ない心変わりである。
つまりわれわれの心が、愛する人の持っているすべての美点に、ある時はここが好き、ある時はあそこが好きというふうに、次々に惚れこんでゆくのである。
だからこの変わらぬ心は、同じ一人の相手に局限され、その人の中だけに閉じこめられた心変わりにほかならないのである」

★「われわれは、自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人とは思
わない」

★「友人に不信をいだくことは、友人に欺かれることよりももっと恥ずべきことだ」

★「人は愛している限り赦す」


時代や国に大きな隔たりがあろうと、人間の感性や情感に大きな差はないんですね。


訳者二宮フサ氏の解説によるとこの箴言集は人々に愛され親しまれる古典というよりも、ジャン=ジャック・ルソーからサルトルにいたるまで、後世の多くの高名な読者に反発、怒り、苛立ちを感じさせ、槍玉にあげられる光栄に浴してきた、あくの強い刺激的な古典だそうです。


本書の箴言の数々が慰めになるか、苛立ちになるかは一に読者のその日の精神状態にかかっているように思いますが、両目を開いて人間を考察するとき、共感する部分が多いことに驚きます。

余裕をもって一句一句を味わえば思わぬ人生の深遠が見えてきて味わい深い読物となるはず。

1度勇気を出して手に取ってご自分の心と対決なさってはいかがでしょうか。

日本人の活字離れに歯止めをかけるため昨年発足した財団法人文字・活字文化推進機構で会長をされている資生堂名誉会長・福原義春氏がご自身の読書スタイルについて述べておられました。

記事によると、何冊もの本を同時並行で、仕事の合間の小刻みな時間を利用して読書されるそうです。

まずあとがきから読み始め、次にまえがきを読み、それから本文を少し読んだ時点で自分が思っていた印象と食い違う場合は読むのをやめるというのが氏の長く続いた読書スタイルだそうです。

氏にとって本を読むことは朝起きたら顔を洗うのと同じ、日常生活の一部、人類の英知の集積である本を読まないなんてもったいない、と締めくくっていらっしゃいます。


主婦である私の読書内容と第一線で活躍されている氏のそれでは大きな違いがあると思いますが、数冊並行(といっても2冊程度ですが)、あとがきからまえがき、本文へと移行する変則的な読み方はまさに福原氏と同じだ、と意を強くしました。

私の場合日中読書のために時間とることもできますが、中学時代から変わらぬ読書タイムは就寝前の1、2時間のみ。

例外は外出時の待ち時間や乗り物の移動時間、必ずバッグに用意した文庫本を読みますが、家ではどんなに暇でも日中の読書は落ち着かないという理由でしません。


従って読書は必然的に横になって、という行儀の悪いスタイルでの乱読斜読です。

ブログをアップし始めてからは片手にポストイットが定番となり、今までの気楽な読みっぱなしスタイルから少々変化しましたが、基本的にはベッドでの読書タイムが私にとってその日のいちばんの至福のときです。

ということで横になって手で支えるには文庫本が最適、太い単行本は本当に疲れます。



前フリが長くなりましたが、上下巻合わせて1400頁、1頁を2段に分けぎっしり詰めた活字の本 - これが本日ご紹介する宮部みゆき氏『模倣犯』です。


いやはや重くて長かった

これが正直な感想です(-_-;)


宮部氏に関しては先日アップした『火車』のところで簡単な経歴を述べていますので、よかったら読んでください。
                    http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/235

本書は
2001年文春ミステリーベスト10 1位
2001年芸術選奨文部科学大臣賞
2002年度版このミス10 1位
第55回毎日出版文化賞特別賞
第5回司馬遼太郎賞受賞

『火車』『理由』と並ぶ著者の代表作といわれています。


過去に殺人事件で家族を失いひとりだけ生き残ったという過去を持つ高校生真一が公園のゴミ箱から女性の右腕を発見することからこの壮大な物語が始まります。


3章からなる本書の2章部分ではきっかけとなった右腕の女性を含む連続女性殺害事件の犯人からの視点で描かれているという斬新な試みがされています。

1章、3章ではその時点で行方不明女性の祖父有馬義男、右腕発見者塚田真一、事件を追うルポライター前畑滋子を主人公とし、警察、別の被害者などを取り巻く家族を背景にそれぞれ放射線状にどんどん果てしない広がりを見せていきます。


これほどまでに饒舌に物語を構築する著者の文才に驚嘆するばかりですが、それぞれが別方向に広がりを見せながらも時に密接に交わりあい、最後にはかけらがパズルのように収まるべきところに収まってラストを迎える手法には舌を巻きます。


昨今世間を賑わしている理由なき犯罪 ― 快楽殺人 ― をテーマに犯人である病んだ社会の申し子たちとともに事件に関係する人たちのバックグラウンドを丹念に描いていますが、ここまで詳細に広げて描く必然性があるのか、というのが正直な感想です。


上述した主人公たちを含む登場人物があまりにも多く、筋書きに没頭するというより、終わりを求めて惰性で読み進めた、という表現がぴったりの小説でした。


ともあれ、以前このブログでも取り上げた雫井脩介氏『犯人に告ぐ』のような「劇場型犯罪」を描いた金字塔であると思いますが、タイトルの意味するものを示唆する最後の犯人の行動自体はあまりにもあっけなく短絡的で、たいへんな違和感が残ってしまったことは残念でした

「なぜ生きる?」という問いに明確に答えられる人がどのくらいいるでしょうか。

少なくとも私はたじろいでしまいます。


以前、答えを求めて精神科医明橋大二さん&哲学者伊藤健太郎さん共著の『なぜ生きる』を読みましたが、読みが浅いせいか私には手ごわく、明確な答えは得られないままでした。

「摂取不捨の幸福」が人生の目的であると説く親鸞聖人の教えを取り上げていましたが、理解の貧しい私はこの絶対的な幸福というものの具体性を現実に描くことが難しいのでした。


「なぜ生きる?」の問いに対しては「人生の真の目的を知れ」というのが端的な答えであろうと思われますが、いまだ人生の真の目的をつかめないまま、右往左往している自分がいます。


そんなことを考えながら新聞を読んでいると、医師に治癒の見込みのないがんを宣告された73歳の島根県在住の田中さんが生活の糧として長年営んできた養鶏業をやめ、妻の協力を得て養鶏場跡地にホースセラピー牧場を開く準備をしている、という記事が出ていました。


昨今傷ついた心身を癒すアニマルセラピーが注目されていますが、ホースセラピー牧場も乗馬を通じて不登校の子どもたちの心身を癒すのを目的にNPO法人により全国8ヶ所で展開しているそうです。


「病気になって初めて、他人のために尽くすことがいかに大切か、人生で何が一番大事かがわかった。
子どもたちに夢や希望を与えたい」と語る田中さんの顔写真が輝いて見えました


人生で大きな困難に直面したとき、初めてその人の真価が問われると思いますが、私も田中さんを知って少なくとも自分に恥じない程度の生き方を暗中模索したいと思ったことでした。



さて、本日は矢口敦子氏著『償い』をご紹介します。

1953年生まれの著者は心臓の病気のため小学校5年で就学猶予になるという経歴を持っていらっしゃいます。

その後小康状態を得て通信教育で大学を卒業

1994年、『家族の行方』で第5回鮎川哲也賞最終候補

1997年『人形になる』で第40回女流新人賞を受賞されています。



「人の肉体を殺したら罰せられるのに、人の心を殺しても罰せられないのですか?」

読書コミュでの評判と上記のフレーズに惹かれて手に取りました。

物語の主人公はひとり息子の病死と妻の自殺により自分に絶望してホームレスの道を選んだ36歳の医師日高。

周りで次々起きる連続殺人事件を軸に、昔誘拐犯の魔手から助けた少年との再会と交流を通して、その少年が事件の真犯人ではないかとの疑いに自分を追い詰める主人公。

「かつて命を救った人間が殺人鬼となったら、助けた人間は罪になるのでしょうか」

自虐が趣味とも思える主人公を設定し、これでもかと心の闇を掘り返し、掘り返したものでまた自分自身を追い詰める、悩みを主題として突き詰めるのか、主題を浮き彫りするために悩みを作るのか、そんな著者の嗜好が時としてうとましく感じられる物語でしたが、終章で主人公の再生を感じることができたのは救いといえるでしょう。


物語の過激度や終わり方は違うものの、以前読んだ浦沢直樹氏のヨーロッパを舞台のサイコミステリーコミック『MONSTER』を彷彿とさせる内容でした。

直木賞作家の熊谷達也さんが月刊誌「小説すばる」に発表した小説に、アフガニスタンなどの紛争地取材で活躍するフォトジャーナリスト長倉洋海さんの著書から表現などを無断で使用していたという記事が出ていました。


同誌昨年12月号に掲載された「聖戦士の谷」について、長倉さんから「自著に依拠して表現を無断使用している個所が複数あり、見逃せない」などと抗議を受け、編集部で精査した結果、著作権侵害に当たる可能性が高いと判断、連載打ち切りを決めたそうです。



熊谷氏といえば直木賞受賞作家、生まれ故郷東北地方の風土に根ざした題材で多くの読者を魅了する作品を次々上梓している旬の作家です。



受賞作『邂逅の森』を代表とするマタギ三部作や、幻のニホンオオカミの物語など、充実した筆力で精力的に執筆していらっしゃいます。



このブログでも『邂逅の森』と『相剋の森』をアップしています。
    
              http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/181

マタギの生き方に喚起された私はその後同じマタギに材を置く志茂田景樹氏の『黄色い牙』を思い出して再読したのですが、熊谷氏の小説の構成、登場人物があまりにも志茂田氏のそれと似通っていることに驚きを隠せませんでした。

              http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/200

両者は30年の開きを経て上梓された作品ですが、志茂田氏の『黄色い牙』を読まれた熊谷氏が多大な影響を受けられたのではないか、と想像しています。

作家の著作権侵害に関する事件は時々報じられますが、知らず知らずのうちに心酔する作家の文章を模倣してしまうということもあるとは思いますが、今回のことはその枠を大きく外れていたようですね。

『黄色い牙』vs『邂逅の森』に関しては志茂田氏による抗議もなく直木賞受賞作品として世に出ていることから何の問題もないと思いますが、この記事を読んで思い出したのでした。



さて、今日はまたまた古い本から遠藤周作氏『イエスの生涯』をご紹介したいと思います。


著者がカトリック信者だった母方の伯母の影響で11歳でカトリックの洗礼を受けて以来の敬虔な信者であったことは広く知られた事実です。


1955年発表の芥川受賞作品『白い人』を代表として、『黄色い人』『沈黙』『海と毒薬』、『深い河』などキリスト教を主題にした多くの作品を執筆していらっしゃいます。


両親の離婚、度重なる受験の失敗、浪人時代に得た結核などの影響はよくも悪しくも著者の人生に大きな影響を与えました。


これら内面の葛藤をユーモアにかえ、狐狸庵山人という雅号でひたすらぐうたら道を推進するユーモアエッセイは私の大のお気に入りでもあります。


神戸つながりで親しい佐藤愛子氏との掛け合いなど、遠藤氏のユーモアに心癒されている読者も多いのではないでしょうか。


また生涯を通じて苦しめられた肺疾患を通して、弱い患者の立場から医療や医師に対して是正すべき数々の点を言及、先頭に立って展開した「心あたたかな医療」運動は著者亡き後も心ある人々に受け継がれているようです。


しかし、著者の生涯のテーマは一貫してキリスト教でした。


キリスト教を唯一の宗教とする欧米のキリスト教に対する考え方になじめず、一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究し続けた著者の「イエス像」は宗教関係者の間でもよく賛否両論の対象となっています。



本書に登場するイエスは、救い主メシアでも英雄でもなく、徹底的に無力で奇蹟を起こす力とてなく、悲しむ者病める者の傍らにただ寄り添う青年、人々の嘲りの中で弟子たちにすら見捨てられて死んでいった青年として描かれています。


本書の中ほどまで費やして描いたイエスの死までの半生は神の子としてのイエスではなく人間イエスとして、繰り返し繰り返し無力のイエスを描いています。


青年イエスの洗者ヨハネとの宣言の比較もイエスの真実を表すものとして何度も出てきます。


善き果を結ばざる者に対する神の裁き、怒り、罰を暗示する烈しい威嚇を含むヨハネの宣言に対するイエスのそれは福音である、と著者は説きます。


「幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり
幸いなるかな 泣く人 彼等は慰めらるべければなり」



「重荷を負うている すべての人よ
来なさい わたしのもとに
休ませてあげる そのあなたを」



自分を熱狂的に支持した民衆がいったんイエスが奇蹟を起こせないことを知ったあとは幻滅とともに憎しみを抱くということをも知っていたイエスは悲しみの中ですべてを引き受けて十字架を背負います。


「汝達は徴(しるし)と奇蹟を見ざれば信ぜず」

「人間たちはどうして徴を求めるのだろう」

「見ずして信ずる人こそ幸いなのに…」



著者はこのように従来のイエスの奇蹟描写を排除し、現実には奇蹟を起こせないイエス、ひとりの無力な人間としてのイエスを徹底的に描いています。


これらの点がカトリック教会の教導権の教えを否定するような言説として非難を浴びていることも事実です。


「奇蹟」が重要部分をなすキリスト教ですが、私を含め「奇蹟」あるゆえ違和感を覚えている人も多いと思いますが、著者のイエス像は私にあたたかい「寄り添う宗教」のイメージを与えてくれました。


キリスト教徒ではない一読者の私はこの著者の描く嘲りの中で死んでいった無力の青年イエスの方により強く惹かれます。


病苦などよりはるかに深い、すべての人に見捨てられるという苦しみの根源を知っているイエスが貧しき人々に寄り添い共に苦しむ姿を描くことで「奇蹟」よりもはるかに深い「愛」の存在を読むことができるのです。


弱く卑怯な世俗的人間であることを露呈していたイエスの弟子たちがイエスの死後、内部的な変貌をとげて弟子から使徒に変わっていく姿を描きながら、その変貌の謎を求めて自身に問いかけています。


自分たちの卑劣な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応えた師イエスの真の姿こそが弟子たちを変貌させた源であろうというのが著者の推論です。


著者の推論にはいろいろな異論もあるようですが、「事実ではないが真実である」と書かれた著者のこのイエス像によって私は身近なイエスを感じることができたのでした。

いままで読みっぱなしにしていた本の記録を、とメモ代わりに始めたこのブログですが、訪れてくださる方も増え、逆に定期的に読ませていただいているブログもいくつかでき、あたかも友人の家を行き来するような温かいお付き合いが生まれたことは思わぬ喜びとなっています。

そんな中のおひとりに私より少し先輩の方がいらっしゃいます。


郷土史研究会や読書クラブの会員でもあり、料理に水泳にと私よりはるかに充実した生活を送っていらっしゃり、わが身が恥ずかしく、お手本として尊敬しています。


ほとんど毎日綴られる日記形式のブログですが、ときどき読まれた本の的確な感想を載せてくださるので、読むのを楽しみにしています。


本日は彼女が以前アップされていた辻井喬氏著『父の肖像』をご紹介したいと思います。


若かった頃一時期堤清二氏の会社に勤めていらっしゃったという経験を持つ彼女ですが、そのことも含めご自身のブログで本書の簡潔&的を得たレビューを書かれていますのでよろしかったらご訪問くださいね。

             http://ttfuji.exblog.jp/6732314/



本書はセゾングループの元代表であり作家・詩人でもある堤清二氏・本名辻井喬氏が一代で西部王国を築き、政治家としても活躍した亡き父堤康次郎氏を主人公に描いた小説です。


2000年から4年間にわたって雑誌に連載されていたのを2004年に単行本にしたものですが、時を同じくして奇しくも異母弟堤義明氏の西武鉄道有価証券報告書虚偽記載とインサイダー取引容疑が明るみに出ました。

そういった経過を踏まえて改めて本書を読むと、康次郎氏の築きあげた堅牢な西武グループのそこここに崩壊の兆しのようなものが見え隠れしているのが読み取れて読者としては興味深い本となっています。


本書では康次郎氏のモデルである楠次郎の生き様を二男の恭次が語るという形式で物語が展開していきます。


経営者としてはさておき、著者の文学者としての簡単な経歴をご紹介します。

1961年詩集『異邦人』で室生犀星賞

1984年『いつもと同じ春』で平林たい子文学賞

1990年『ようなき人の』で地球賞

1993年詩集『群青、わが黙示』で高見順賞

1994年『虹の岬』で谷崎潤一郎賞

2000年『沈める城』で親鸞賞、『風の生涯』で芸術選奨文部科学大臣賞

2000年詩集三部作『群青、わが黙示』『南冥・旅の終わり』『わたつみ・しあわせな日日』で藤村記念歴程賞

2004年『父の肖像』で野間文芸賞

2006年『鷲がいて』現代花椿賞&読売文学賞受賞・・というすばらしい経歴です。


本書でも東大入学後、共産党入党、スパイ容疑で除名、父への絶縁宣言、結核発症、療養を経て衆議院議長秘書・・・と繊細な青年期の運命が二転三転する様子が淡々とした筆致で描かれていて、ともすれば父親よりもその二男に共感を覚えてしまった読者も多いのではないでしょうか。


本書執筆の動機を著者は次のように語っていらっしゃいます。

「自分自身を知るために、自分にとって父は何だったかをはっきりさせることが大切で、そのために父親について客観的に検証することが必要だった」


明治後半から大正、昭和へかけての現代史さながらの波乱に満ちた創始者康次郎氏の事業拡大の経緯、激動の政治史が細かく描かれているところも魅力的です。

また、康次郎氏の女性蔑視は別にして、「家」という集合体や「事業」に対する命がけの執着こそが「堤家」という王国を築く土台になっていた点を考えると、現代の日本のよくも悪くもこだわりの薄くなった「家」を守るということに対する無関心と対比して見習うべきところはあるのではないでしょうか。


「今なら彼のような人間は存在できない。
しかし、そういう人間が世俗的な成功を収めた時代があった。
その時代と、今よりはるかに情の濃かった当時の日本人を、父の像を通じて描きたかった」

著者の描きたかった意図をはるかに超えた日本の貴重な現代史の一部になったのではないでしょうか。


友人たちと鞆の浦に行ってきました。

広島県の東、岡山に近い福山市の南、瀬戸内海に面した小さな港町です。

日本最古の歌集「万葉集」にも登場するという鞆の浦は瀬戸内の潮待ちの港として古くから栄えた町だそうです。

瀬戸内海ではその特徴ある地形と潮の満干が原因で潮流の逆転現象が起こるそうです。

鞆の浦はその潮が出合い別れる場所にあり、そこで潮の流れが変るのを待つことを「潮待ち」といったそうです。


江戸時代には朝鮮通信使が寄港し,国内ばかりでなく遠く大陸からの賓客をも持て成す迎賓都市でした。

現在も歴史ある町並みや港の風景を残した風情ある町として年間100万人以上の観光客が訪れる観光地となっています。

ちょうど町ぐるみで商店や民家の軒下に雛人形を展示していて楽しむことができました。


友人たちと鞆の浦で1泊、尾道の千光寺まで足を延ばしてきました。


桜のシーズンにはまだ早い千光寺でしたが、おしゃべりに花を咲かせながらゆっくりと石畳を散策してゆったりとした時を過ごすことができました!(^^)!



さて、今回は田辺聖子氏著『おせいさんの落語』をご紹介したいと思います。

1974年初版ということで、今から30年以上も前に出版されたものですが、著者の創作落語11篇は何度読んでも抱腹絶倒本です。


1964年『感傷旅行』で第50回芥川賞

1987年杉田久女を題材の『花衣ぬぐやまつわる…』で第26回女流文学賞

1993年『ひねくれ一茶』で第27回吉川英治文学賞など数多くの賞を受賞していらっしゃいます。


大阪弁がやわらかさを醸し出す独特のペイソス溢れる男心女心を描いた小説や2002年に亡くなられた夫君川野純夫氏を題材にした「カモカ」シリーズ、歴史小説や聖子流解釈で描かれた源氏物語などの古典など、広範囲な著書は膨大な数になります。


私はといえば、両肩に仕事と家族を乗せたため息まじりの中年男の悲哀を描いた小説のファンなのです。


このブログでも

★『姥シリーズ』 http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/60
★『残花亭日歴』 yaplog.jp/ashy_ashy/archive/149 をアップしていますのでよかったら見てくださいね。

さて文壇デビューして10年後というファイトが充満していた書き盛りの本書ですが、かねてから新作落語を手がけてみたいとの抱負を実現した形になっています。

できあがりは特定の落語家用の台本ではなく、「読む落語」となっていて、落語の口吻を取り入れた1つの短篇形式として読者に気楽に楽しんでいただきたい、というのが著者の意向です。


女房のお尻に敷かれっぱなしの不甲斐ない男や、家出した女房の後釜にすずめを据えた男の話、家族泣かせの老春期のしたい放題の不良老人の話、妄想好きの男の話など、どれをとっても笑いの中に男の悲哀を滲ませていて秀作です。

落語好きな方は手に取ってみてください。

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