私が現在住んでいる岡山は周囲の市町村の合併が進み、平成21年4月に念願の政令指定都市として出発することになっています。
それに先行してかどうかは別として来年2月より始まる生ゴミの有料化。
並行して今まで焼却ゴミに区分されていたプラスチックなどの分別もより厳しくなるので、市民への啓蒙のため市は今てんやわんやの様子です。
ビンやペットボトルのリサイクルはそれ以前も推進されていましたが、来年からはより厳しいリサイクル化を目指して市民への協力が求められそうです。
『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』でおなじみの武田邦彦氏はペットボトルを例にあげ、リサイクルは焼却するより環境負荷が高くなっていることを次のように挙げていらっしゃいます。
「ペットボトルが、石油からつくられるときのコストは約7.4円なのに、リサイクルするには輸送費などの集荷にまず26円かかります。
それを洗浄、樹脂化、再成形するには1円程度しかかかりませんが、しめて27.4円にもなる。
新品ボトルの3倍以上です。
しかも、輸送の間に、トラックの運転手がお弁当を食べれば、それもゴミになる。かえってゴミが増えてしまう」
また紙をリサイクルするときは、古紙をトラックで回収し、分別後脱墨して漂白するというプロセスで石油などの「枯渇性資源」を大量に使うことを指摘、これら『環ウソ』に対する専門家からの反論も多々あり、市民レベルの私は何を信じていいかわかりませんが、市議会で決まった有料化をきっかけに一足も二足も遅れてゴミについて真剣に考える機会が与えられています。
さて今回は柳田邦夫氏著『石に言葉を教える』をご紹介します。
本書は平成17年に「新潮45」に連載された12のエッセイをまとめて刊行したものです。
「やり直すなら、今しかない! 心と脳が破壊されていく日本人への緊急提言」
「私の頭の中に、このところずっと主題として流れているのは、『言葉』の問題だ。
それは『言葉と心』であったり、『言葉と命』であったりする」
あとがきにある著者の言葉です。
ゲーム機や携帯、パソコンの普及によって青少年の心の形成に深刻なゆがみが生じている危機状態を実際起こった事件などを挙げて指摘、「言葉」を通して人々と触れ合うことで温もりや連帯感を持ってほしい、と書いていらっしゃいます。
表題作でもある冒頭のエッセイ「石に言葉を教える」は机に向かっていた著者の脳裏に突然何の脈絡もなく浮かび、以後頭から消えなくなった情景を描いたものです。
それは東北地方の山間の村の初老の男が渓流の大きな石に向かって13年もの間言葉を教え続けているというもの。
そのうち男は周囲のせせらぎや木々の葉の揺れる音などが自分の語りに調和しているのに気づきます。
それをまた3,4年続けていると、男は石が自分の作り話をちゃんと聞いているような気がしてきます。
さらに進んで石が楽しんだり悲しんだりする反応は自分の感情の変化と連動していることに気づくのです。
上記のような物語が著者の心を占めるようになったある日著者は「もしかして石に言葉を教えることができるのではないか」と固定観念の風穴が少し開くのです。
「もしかして」という可能性を秘めた言葉は著者ならずも万人の胸の底にある希望の光ではないでしょうか。
この冒頭のファンタスティックな発想のエッセイを抜けるとそのあとは種々の日本への提言が溢れています。
「教室の机や柱、校庭の木や彫刻やオブジェなどからどれか一つを、子どもたち一人ひとりに選ばせて、毎月一回くらい、自分の選んだ対象物の前に椅子を置いて座らせ、一時間、対象物に言葉を教える実践教育を行なうのだ。
面白いことに、いつも教えられ覚えさせられるという受け身の授業しか知らない子どもたちが、教える立場にまわると、突然生き生きとしてくるはずだ」
ケイタイやゲーム漬けの日本の子どもたちに言葉を鍛える必要性をこのような形で提言している一方、人を絶望から救い出してくれることもあれば絶望のどん底に投げ込むこともある「言葉」に影響を受け、その後の人生を転換させた人々を登場させていらっしゃいます。
アメリカの医師のある「言葉」によって絶望の淵から生還、ダウン症のわが子とともにその後の生き方を変えたある父親の話。
47歳で多発性硬化症という難病により仕事や前途を断たれ、自暴自棄の生活を送っていたとき、リハビリセンターでサリドマイド薬害被害者のひとりの少女と出会い前向きな人生を取り戻された元企業戦士。
以前このブログでアップしたこともある『僕のホスピス1200日』の著者山崎章郎氏のある患者との約束。
著者自身が翻訳された『エリカ 奇蹟のいのち』に登場するエリカの実話。
どれも心に染み入るような読後感の一冊でした。
それに先行してかどうかは別として来年2月より始まる生ゴミの有料化。
並行して今まで焼却ゴミに区分されていたプラスチックなどの分別もより厳しくなるので、市民への啓蒙のため市は今てんやわんやの様子です。
ビンやペットボトルのリサイクルはそれ以前も推進されていましたが、来年からはより厳しいリサイクル化を目指して市民への協力が求められそうです。
『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』でおなじみの武田邦彦氏はペットボトルを例にあげ、リサイクルは焼却するより環境負荷が高くなっていることを次のように挙げていらっしゃいます。
「ペットボトルが、石油からつくられるときのコストは約7.4円なのに、リサイクルするには輸送費などの集荷にまず26円かかります。
それを洗浄、樹脂化、再成形するには1円程度しかかかりませんが、しめて27.4円にもなる。
新品ボトルの3倍以上です。
しかも、輸送の間に、トラックの運転手がお弁当を食べれば、それもゴミになる。かえってゴミが増えてしまう」
また紙をリサイクルするときは、古紙をトラックで回収し、分別後脱墨して漂白するというプロセスで石油などの「枯渇性資源」を大量に使うことを指摘、これら『環ウソ』に対する専門家からの反論も多々あり、市民レベルの私は何を信じていいかわかりませんが、市議会で決まった有料化をきっかけに一足も二足も遅れてゴミについて真剣に考える機会が与えられています。

本書は平成17年に「新潮45」に連載された12のエッセイをまとめて刊行したものです。
「やり直すなら、今しかない! 心と脳が破壊されていく日本人への緊急提言」
「私の頭の中に、このところずっと主題として流れているのは、『言葉』の問題だ。
それは『言葉と心』であったり、『言葉と命』であったりする」
あとがきにある著者の言葉です。
ゲーム機や携帯、パソコンの普及によって青少年の心の形成に深刻なゆがみが生じている危機状態を実際起こった事件などを挙げて指摘、「言葉」を通して人々と触れ合うことで温もりや連帯感を持ってほしい、と書いていらっしゃいます。
表題作でもある冒頭のエッセイ「石に言葉を教える」は机に向かっていた著者の脳裏に突然何の脈絡もなく浮かび、以後頭から消えなくなった情景を描いたものです。
それは東北地方の山間の村の初老の男が渓流の大きな石に向かって13年もの間言葉を教え続けているというもの。
そのうち男は周囲のせせらぎや木々の葉の揺れる音などが自分の語りに調和しているのに気づきます。
それをまた3,4年続けていると、男は石が自分の作り話をちゃんと聞いているような気がしてきます。
さらに進んで石が楽しんだり悲しんだりする反応は自分の感情の変化と連動していることに気づくのです。
上記のような物語が著者の心を占めるようになったある日著者は「もしかして石に言葉を教えることができるのではないか」と固定観念の風穴が少し開くのです。
「もしかして」という可能性を秘めた言葉は著者ならずも万人の胸の底にある希望の光ではないでしょうか。
この冒頭のファンタスティックな発想のエッセイを抜けるとそのあとは種々の日本への提言が溢れています。
「教室の机や柱、校庭の木や彫刻やオブジェなどからどれか一つを、子どもたち一人ひとりに選ばせて、毎月一回くらい、自分の選んだ対象物の前に椅子を置いて座らせ、一時間、対象物に言葉を教える実践教育を行なうのだ。
面白いことに、いつも教えられ覚えさせられるという受け身の授業しか知らない子どもたちが、教える立場にまわると、突然生き生きとしてくるはずだ」
ケイタイやゲーム漬けの日本の子どもたちに言葉を鍛える必要性をこのような形で提言している一方、人を絶望から救い出してくれることもあれば絶望のどん底に投げ込むこともある「言葉」に影響を受け、その後の人生を転換させた人々を登場させていらっしゃいます。




どれも心に染み入るような読後感の一冊でした。