VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2009年04月

「ハハのアルツ防止に」と子どもたちが買ってくれたニンテンドーDS。

ゲーム大好きな私は暇を見つけて遊びますが、その前に漢字や英単語、熟語、計算などの頭の体操をこなさなければ肝心のゲームに到達できない仕組みになっています。


ということで否応なしに漢字や英単語のトレーニングをするわけですが簡単な10問ほどの漢字を完答することができない毎日です。


読むことは何とかできてもちょっと込み入った漢字を書けといわれると全体の輪郭は浮かぶもののお手上げ状態。


日ごろ変換機能を駆使してワープロで文章を書いているツケがどんどん溜まっているという感じです。


熟語や言い回しに関しても辞書を引くことが面倒で、夫にバカ呼ばわりされるのに耐えながらも聞くことで手軽に済ませる安易な姿勢がこのような結果を招いていることは重々承知しているのですが。



単語や言い回しを自分流に勘違いして公然と使い、恥多い人生を歩んできた経験は麻生総理ならずとも誰にも多少はあるでしょうが、恥を忍んで私のとっておきの特大級をご紹介します


氏素性を表わす「出自=しゅつじ」という言葉をご存知でしょうか?

私は長い間それを「出目=でめ」と勘違いして読み取り、人との会話で何度出したことか・・・考えるだに恥ずかしいので自分の中では「なかったこと」にしています。


あるとき夫と娘の前で「○○は公家の『出目』だから・・・」と言ったときの2人の顔

疑問符いっぱいつけた顔で娘が「公家の特長は目が出ているの?」と聞き返します。

「何言ってるの、○○は公家の出身っていうこと!
『出目』という言葉も知らないの?」とそこまでは強気な私。


それでも2人のあまりに首を傾げる様子に急に不安になって辞書を引きました、もちろん「出目」で。


辞書で目的の「出目」があることを確認して我が意を得た私は意味を確かめもせず2人の前に突き出しました、してやったり顔で!

[出目=目が普通よりつき出ていること(人)]

辞書を見た2人は大笑い! それ以後ますますバカにされ続けていることは言うまでもありません。




さて今日は2001年に亡くなった娯楽小説の大家である山田風太郎氏の異色の著書『人間臨終図鑑�T』をご紹介したいと思います。

古今東西923人の著名人の死に至る様子を国や時代など関係なく死亡時の年齢順に分類した作品です。

15歳の八百屋お七から121歳の泉重千代までを�T巻~�V巻に分けて収録した超級の大作


ここでご紹介する『人間臨終図鑑�T』では15歳~55歳で亡くなった人々の臨終とその前の人生が端的な文章で綴られています。


タイトルから想像するような臨終場面のみを記したものではなく、まるで伝記の核心部分に触れるような記述を通して故人の生き様がしっかり伝わってきます。


十代で死んだ人々、二十代で死んだ人々・・・という分類の頭に付けられた著者による短い補足文や他の書物からの抜粋文が著者の死に対する、または生に対する考え方を際立たせています。


たとえば・・・

「三十代で死んだ人々 ―― 神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」

「三十二歳で死んだ人々 ―― 同じ夜に何千人死のうと、人はただひとりで死んでゆく」

「三十九歳で死んだ人々 ―― 靴ヲ痒隔テテキヲ掻ク。生ヲ隔テテ死ヲ描ク」

「五十三歳で死んだ人々 ―― 最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う」



第�T巻である本文に登場する人々は�U、�V巻に比べて年齢的にも若く、その分不本意な死を迎えた人々が多く胸に迫るものがあります。


★24歳という若さで結核のため早世した樋口一葉は森鴎外や幸田露伴から「たけくらべ」を絶賛されやっと貧しさから救われたと思うまもなくこの世を去るという薄幸の一生を送ったと著者は記しています。

一葉の死を深く悲しみ、葬式に騎馬で棺側に従いたいと申し出た鴎外に対して、妹があまりに貧弱な葬式を恥じて断ったというエピソードが盛り込まれています。


★川端康成が「千万言もつくせぬ哀切」、三島由紀夫が「壮烈な武人の死」とそれぞれ評した円谷幸吉28歳の自死にも触れています。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、モチも美味しゅうございました・・・
幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」


★26歳で貧乏のどん底で結核のためこの世を去った石川啄木一家の悲惨さには目を背けたくなるほど。
啄木とともに妻節子、老母が枕を並べて血を吐きながら寝ている陋屋へ援助の手を差し延べる金田一京助や若山牧水、夏目漱石、森田草平などの交わりにも涙を誘われます。

「死後、日本の若者たちが『啄木歌集』に捧げた印税の百万分の一でも生前に恵んでくれたら、と啄木の亡魂は歯がみしているにちがいない」と著者は結んでいます。


★特高に検挙され凄まじい拷問を受け留置場で絶命した30歳小林多喜二の遺体の思わず目を覆いたくなるほどの描写と多喜二の老母の悲痛な叫びが相まって地獄を見るようです。

「ああっ、いたましい、いたましい・・・よくも人の大事な息子を、こんななぶり殺しにできたものだ・・・おおっ、兄ちゃ、どこがせつなかった?どこが、どこがせつなかった?」


★貧窮の中でただ酒を飲むことと、血を吐くことと、絵をかくことだけが生活のすべてで終生だれにも認められない絵を遺して死んだ36歳モディリアニは死んだ直後に彼が天才であったと人々に気づかせ、棺に多くの画家や作家や女たちが続いたそうです。

それを見たピカソが「見たまえ、かたきはとれたよ」とつぶやいたと記されています。


★東京帝国大学卒でありながら人間界に暮らせない「底のぬけた柄杓」のような異様な性格のため孤独漂白の人生を送った「咳をしてもひとり」などの自由律俳句の尾崎放哉の臨終までの日々も自分が招いたとはいえ苛烈です。

小豆島の寺男として近くの朴訥な猟師の家の老婆に見守られて大正の終わる年、41歳で旅立ちました。

「しかし、彼よりも哀切なのは、彼に捨てられ、紡績工場の女工の寮母となり、放哉の死後三年十ヶ月で、チフスで死んでいった美しい妻の薫であったろう」と著者は結びます。



このように本書は万人に平等に訪れる死でありながら個別性際立ったそれぞれの死の詳細を描くことでその前提である生について深く考える機会を与えてくれます。


そして不謹慎にも私にとって最も興味深いことはそれぞれの時代に生きた著名人同士の交友関係を知ることができることです。

思わぬ交友の中で思わぬ温かい心を示しあう様子を知ることで不遇な死にゆく人への弔いともいえる行為に安堵するのです。

またそれぞれの時代時代の荒い波に呑まれるように旅立っていった人々を通して歴史の重さを知ります。


まだまだご紹介したいエピソードが満載ですが、ぜひ手にとって読んでください。



旅行会社が主催するバスツアーに参加して近場の湯郷温泉に行ってきました。

SNSで親しくしている方々の日記を拝見していると上手なツアー選びで値段をはるかに超えた充実の旅行をしていらっしゃる様子を羨ましく思っていました。


私の旅行といえば家族とでも友人とでもいつも航空券などの交通チケットや宿泊施設を個々にネットで予約するというやり方。


セット旅行だとかなり安価でラクだというので今回夫を誘って2人で参加してきました。


自分たちも年齢に不足はないものの、バスの中は私たちの年齢をゆうに超えた70代80代、さらに90代とも見まがう人たちばかり!

そしてエネルギッシュな様子とおしゃべりには驚くばかり!


到着した宿ははるか昔宿泊したことのあるホテルでしたが、記憶の頃からかなり年数を経ているせいか建物全体がお疲れという感じが否めませんでした。



旅館やホテルに泊まる機会が重なると宿の経営状態ややる気が何となくわかるようになります。


まずお茶などの無料の飲み物の種類と電気ポットかどうか、アメニティグッズが豊かかどうか、冷蔵庫に無料のミネラルドリンクがあるかどうか、畳がイグサかビニール製か、お風呂用のタオルを別に置いてあるかどうか、お風呂のシャワーが自動的に止まるものかどうか、シャワートイレか否かなどなど。


独断と偏見に満ちた想像ですが、今回の宿は少しかげりがあるよう、不況の折全国どこも大変なのでしょうね。


それはさておきしっかりモトをとらねばと短い滞在の間に計4回も入浴して湯あたりのせいか少々疲れ気味で帰宅しました。




さて本日は伊集院静氏著『受け月』をアップしたいと思います。


先日読んだ著者の短編『冬のはなびら』の読後感が思いのほかよかったので再度短篇にトライ、といっても本箱の隅から見つけ出して今回のバス旅行の行き帰りのお供にしたものです。


第107回直木賞受賞作である表題作「受け月」を含む連作短編集ですが、作品すべてのキーに野球が登場します。


山口県立防府高校時代あと一歩で甲子園を逃した野球少年だった著者は、進学に際して巨人の選手だった義兄高橋明選手の紹介で長嶋茂雄氏に会い、立教大学進学を勧められ進学とともに野球部に入部したという経緯ですが、在学中ひじの故障で退部を余儀なくされたそうです。


著者の野球に対する思い入れの深い眼差しがうなずける経歴です。


その長嶋氏が語られる感想は素朴で核心をついています。

「伊集院さんの作品が語る『野球』の魅力に私は感動しています。
プレーする人も、それを観る人も、ともにその喜びや感動を共有できる『野球』のすばらしさを、伊集院さんが作品を通して後々まで伝える伝道師となってください」


また野球が題材の作品には本書『受け月』のほか、『ぼくのボールが君に届けば』『坂の上のμ』『ヒデキ君に教わったこと 野球で学んだこと』などがあり、そのどれもが単なるスポーツやゲームの枠を超えた野球の姿を描いて見事です。



さて本書には7つの作品が収録されています。


★少年野球を始めた10歳の息子に亡き夫を重ねる由美が息子の監督を通して知った夫の野球に対する深い思いを描いた「夕空晴れて」

「野球ってスポーツはいいだろう。
俺は野球というゲームを考え出したのは人間じゃなくて、人間の中にいる神様のような気がするんだ」


★自分たち親子を捨てて無頼に生きる道を貫く父の都市対抗野球のエースとしての輝かしい過去を知って憎しみと憧憬の入り混じった複雑な思いを抱く息子と、人生の無残な敗北者となりながら過去の栄光を捨てきれない父の明暗を切子皿という触媒を使って描いた「切子皿」


★社会人野球で活躍し、請われて出身高校の監督になったにもかかわらず甲子園への道に届く指導ができない苦悩を抱えた美知男と、親が監督をする高校を拒否して他の有力校へ野球進学した息子との葛藤を描いた「ナイス・キャッチ」


★長い間監督をしていた社会人野球の名門チームからの引退を自ら育てた後輩に告げられた谷川とかつて自分の野球上の教え子だった専務との葛藤を描いた「受け月」

送別会の夜、願い事をすると願い事がこぼれないで叶うという言い伝えがある盃のような受け月を仰ぎながら、人生の大半を野球一筋に歩んできた主人公が家族の健康や野球部の将来を不器用に祈る姿を描くことで読者にしっとりとした余韻を残してくれている作品。



野球というスポーツの魅力は女性の筆ではとうてい描けないほど男の人生と直結した何かがあるように思えます。

ロマンとも哀愁ともいえるそれを描いた物語や映画はたくさんありますが、特に私が好きなひとつを挙げるとすれば高橋三千綱氏による連作短篇集『カムバック』です。


ずっと以前このブログでも簡単なレビューを書いたことがありますのでよかったら読んでください。

      http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/49

昨日はお昼ごろ友人が採れたての筍とミツバ、蕗、ニラを届けてくれました。


そのあと、遠い親戚からまるで宝箱のようなひとつひとつが気持ちのこもった楽しい品々がいっぱい入った荷物が届きました。


今日は何とうれしい日!とふと壁のカレンダーを見ると4月18日。

私たち夫婦の結婚記念日ではありませんか。


飽きるほど長くいる夫婦にとって特別な感慨はないものの、隣の部屋でパソコンをしている夫のところに行き、だまって握手の手を差し伸べると、何が何だかわからないまま手を差し出した夫と無事握手を交わしました。


私の指摘でやっとこ記念日を思い出した夫と同時に言葉にしたこと。

「よくもまあ続いたね」

とはいいながら曲がりなりにも機嫌よく○○年が迎えられたことは当たり前ではなく僥倖だと感謝。



というわけで急いで冷凍室から先日半額で買った牛ヘレのステーキ肉を出し、ピースご飯を仕かけ、ミツバのお浸し、筍と蕗の煮物、ソテー用のにんじんやじゃがいも、ほうれん草を用意し、親戚から送られた夫の郷里の懐かしい名産オイルサーディンを肴に冷酒で乾杯しました。




さて本日は曽野綾子氏著『今日をありがとう』をご紹介します。


「心が闇に閉ざされた夜、人を憎み愛した日、生老病死を見つめた時、一歩も踏み出せない朝…この本を開いてください・・・人生にひるまぬための三六五日の言葉」


多作な著者のさまざまな作品の中から抜粋された365日分の言葉が日めくり形式で書かれています。


早速4月18日の項を開きました。

「人間の証というものは、損ができることなんです。
それに徳というのは触媒のような気がするんです。
それがないと、人生がよく燃えない」(『この国はどこへ行くのか』より抜粋)

なるべく損をしたくないと密かに思っている私に楔を打ち込んでくれるような言葉ですが、徳という触媒はどう考えても持ち合わせていないので人生が思ったようになめらかに燃えないのはそのせいか。


ちなみに本日19日。

「坂谷神父は結婚式が嫌いで、葬式は大好きという神父である。
どうして結婚式が嫌いかと言うと、すぐケンカして別れたいの何のと言うからだそうだが、その点、葬式は完結していてすばらしい、と言われる」(『運命は均される』)

曖昧模糊とした将来の約束に参加するより完結して先がない儀式に参加するほうがすっきり感があるというのも一部うなずけます。


共感したり、示唆を受けた言葉を少しご紹介してみます。


「夫と私は、下らないことで人生を笑い楽しんで来た。
偉大な人やことがらに感動できるのも一つの才能だが、下らないことを楽しめるのも、やはり才能だと思うことにしよう、と決めていたのである」(『自分の顔 相手の顔』)



「私はやはり老いだけじゃなくて、すべてのことは正視するほかないと思っているんです。
まともに見るのが最高ですね。
避けると、どんどん怖くなるから」(『死を問う』)



「年貢の納めどき、という言葉を私は好きだ。
人にもものにも、すべて限度がある。
しかしそれは、自分で決定すべきで、それが自由人の選択である・・・
人間らしさと人間の尊厳は、生だけでなく、死についてもある」(『ほくそ笑む人々』)



「諦めることなのだ。
できることとできないことがある。
体力、気力の限度がある。
諦めて詫びる他はない。
それだけに、一瞬でも、人や家族に尽くせる瞬間があったら、それを喜んで大切にしなければならない。
人間は必ず、どこかで義理を欠いて後悔と共に生きる」(『中年以後』)



「荒っぽい言い方だが、幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。
苦労を知らないと、すべてがよくて当たり前で、少しも幸福感と結びつかない」(『昼寝するお化け』)



「私たちは自分が悪いことをしているつもりがなくても、人に苦しみを与えることがあるんです。
私がいるということだけで、それを嫌う人があっても不思議はないということを、私は信仰から納得できたんです」(『時の止まった赤ん坊』)



「楽をできる所では手を抜く。
自分があんまりよくやっとる、と思うと威張るようになるでな」(『父よ、岡の上の星よ』)

日本中を楽しませてくれたピンクの愛らしい花々もいっせいに瑞々しい新緑に変わる季節。

まさに新緑の候、「木の芽時」「木の芽立ち」の季節がやってきました。


「夜の色に暮れゆく海や木の芽時」  
 
大正時代のホトトギスの歌人・原石鼎の有名な句ですが、木々が芽吹く生命が躍動する希望のときというより深い夜の色に染まりゆく人生を感じさせるような句ですね。


「木の芽時」といえば冬の間活動をゆるやかにしていた生き物が閉じ込めていた生のエネルギーをいっせいに放出する時期ですが、人間の体にはその強烈なエネルギーが負の方向に働くこともあるといわれています。


「木の芽時は健康に気をつけて」という古くからの言い伝えを度々耳にしていますが、それを証明するように私の周りでもこの時期体調をくずしている近しい人が何人かいます。


「気をつけて」といわれてもどう気をつければいいかわかりませんが、木々の芽立ちが活発になる様子を目にすると宇宙のエネルギーのすごさに圧倒されてしまいます。


小さなことに気をつけたり、くよくよ気に病んだりしても、あらかじめ組み込まれた私たちの運命はこの宇宙のエネルギーの中でなるようにしかならないのだと思ったり、いや運命に抗うこともできるはずだと思ったり。


まぶしい春の日の中でそんな愚にもつかないことを考える季節でもあります。



 「運命は、誰かに起することは汝にも起すものと覚悟しおくべし、自分の自由にならぬもの(肉体もしかり)については、運命がもたらしたものを平然と受けよ、できるならば自らの意志で望むものの如く、進んで受けよ、とセネカは教う」

上述の文は本日ご紹介する作品の著者中野孝次氏が医師より食道ガンの宣告を受けたときの心の声です。


中野孝次氏著『ガン日記』


1976年『ブリューゲルへの旅』で日本エッセイスト・クラブ賞
1977年『鳥屋の日々』で芥川賞候補
1978年『雪ふる年よ』で芥川賞候補
1979年『麦熟るる日に』で平林たい子文学賞
1987年『ハラスのいた日々』で新田次郎文学賞
1992年『清貧の思想』
2004年『風の良寛』『ローマの哲人セネカの言葉』などで日本芸術院賞・恩賜賞受賞


長く奉職されていた国学院大学を56歳で退いて以後「核戦争の危機を訴える文学者の声明」の呼びかけ人のひとりとなるなど、自己に厳しい倫理観をもって社会活動をされていたことでも有名です。


また空前のバブル景気に湧く1992年に出版され、たちどころにベストセラーとなった『清貧の思想』は物質至上主義に浮かれていた日本人に楔を打ち込んで私たちが見失ってしまった大切なことをもう1度自分自身に問う機会を与えてくれました。


そして中野氏といえば『ハラスのいた日々』

子どものない夫婦のところにやってきた子犬と共に過ごした夫婦の情愛深い歳月を描いた随筆ですが、柴犬を飼ったことのある私は感慨をもって読んだ感動の書。


「私はこの文章が、犬を失った飼主の感傷以外の何物でもないことを承知している。
だが、それが最も愛した相手であったとき、その死に人と犬との差があろうかと開き直る気持ちも私にはある。
人は愛した者のためにしか悼むことはできはしない、とも思うのだ」


今回再読して改めて中野氏の愛情の深さと真摯な正直さに胸がいっぱいになりました。



思わず回り道をしてしまいましたが、本書『ガン日記』の元となった原稿は著者が長年館長を勤められていた神奈川近代文学館で死後催されることになった「中野孝次展」のため中野家で資料整理をしていた編集者によって発見されました。


食道付近の不快感が続き受診を決心した2004年2月8日から始まり、食道ガンの診断が確定され、余命1年の告知を通してさまざまな心情の揺れ動きの後、3月18日に入院するまでの1ヶ月あまりの行きつ戻りつする日々の逡巡を日記形式で記したものです。


「(食道ガンの)通知を平静に聞くを得たるは、一昨年よりずっとセネカ(一世紀頃のローマの哲人)に親しみ、その死に対処する心構えを学んでいたゝめなるべし」


余命1年の告知を受けてのち、病院や治療方法の選択に揺れ動きながらもセネカの思想を土台に泰然とした生を全うしようと模索する姿は崇高です。


「よし、あと一年か、それなら、あと一年しかないと思わず、あと一年みなと別れを告げる余裕を与えられたと思うことにしよう、一年を感謝して生きよう、と要約思定まる」


著者を力づけるのはキリストでもなく仏でもなくセネカや中江兆民、そして兼好法師の「徒然草」の中の言葉である、と著者は記します。

「若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり、今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり」


現代医療の暴力に苦しめられることなく、治療を放棄して従容として自宅で死につく、といったんは定めたものの、周囲の人々からの愛情ある治療法の紹介や妻に対する負担の重さを考えてついに決心して入院するところで筆は終わっています。


「長く生きることを願わず、よく生きるを願うことに心は変わらねど、そのよく生きることの中に初めて治療を受けるもその一つかという考えが入り来たりし也」


2004年に生を閉じられた著者ですが、それに先駆けること2001年に記した「死に際しての処置」という遺言に思しき文章を残していらっしゃいます。

子なき夫婦の後に遺される妻・秀夫人に宛てて書かれたそれは著者の生き方そのものをシンプルに著した感動の文章となっていますので一部をご紹介します。


「予はすでに墓誌に記せる如く、十九歳第五高等学校に遊学以来、文学を愛し、生涯の業とせり。
戦後の窮乏時代には文学を以て生きることははなはだ困難なりしも、素志を貫き、以来ただ文学一筋に生きたり。これを誇りとす。
また成瀬秀と結婚し、先年金婚の祝いをせしまで、共に支えあい、つつがなく生きたることを幸せとす。
顧みて幸福なる生涯なりき。このことを天に感謝す。
わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。
予は喜びも悲しみもすべて文学に托して生きたり。
予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。予に関わりしすべての人に感謝す。さらば」

ここ数年大麻所持で検挙される人がうなぎ上りに増えていますね。

警察庁によると昨年の検挙率は前年2007年度の約20%増だそうです。

全国の大学が緊急に対策を立てるほど。

ヘロインなどの麻薬系や覚せい剤より依存性が少ないというのをうたい文句にちょっとしたアクセサリー的に気軽に手を出すのでしょうか。

麻薬系のみならず安易に精神安定剤などの医薬品に依存する若者も増えているというニュースを読むと前途が恐ろしくなります。


高齢で死の恐怖と闘っている寝たきりの母はかかりつけの医師からブラセボといってもいいほどの軽い安定剤を処方してもらっていますが、元来の不安定な精神的症状が高じてどんどん薬の量が増えています。

若い頃の母はそんなことは考えられないほど理性が勝っていましたが、今はヘルパーさんや看護師さん、私の顔を見れば薬を要求するのでその対応に疲れ果ててしまう毎日です。


心身の依存の恐さをまざまざと見せられています。



昭和16年に一時的に力をつける栄養剤的な感覚で発売されて画期的な売り上げを伸ばしたヒロポンですが、常用すると依存症や幻覚幻聴などの精神病的な症状が出ることがわかり昭和26年に禁止になりました。


市場に出回って安易に購入できたその10年間に工場で長時間労働をする学徒動員の女学生に飴玉などに混ぜて与えられたり、戦場に出向く特攻隊への恐怖克服対策として、また夜間戦闘機の搭乗員に視力向上用としてどんどん配布していたそうです。


手段を選ばない戦いへの模索を想像するだけで恐ろしくなります。



さて本日はその特攻隊第1号に選ばれた関行男大尉を代表とする指揮官たちの軌跡を克明に描いた作品をご紹介したいと思います。


城山三郎氏著『指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく』


先日ご紹介した城山氏の『そうか、もう君はいないのか』が氏の遺作なら、本書は著者在命中に書かれた最後の作品です。


平成13年小説新潮に4回にわたり連載したものを1冊にまとめて刊行するにあたり大幅に加筆したものです。


「戦争を書くのはつらい。
書き残さないのは、もっとつらい・・・
書くべきことはすべて書いた・・・
これがわたしの最後の作品となっても悔いはない」


海軍特別幹部練習生として終戦を迎えた著者はその後経済小説大家として不動の地位を確立しましたが、作家としての原点である自らの戦争体験を後世に書き残すという強い使命感をずっと持ち続けていたそうです。



大東亜戦争末期、戦力が衰退の一途を辿る中、神風特別攻撃隊指揮官第1号に選ばれフィリピン・バタフ沖に散った関行男大尉と、敗戦を知らされないまま天皇陛下の終戦の詔勅放送後に最後の特攻隊員として沖縄へ出撃した中津留達雄大尉の2人の指揮官の生い立ちとその後の人生、そして遺された家族たちの失意と悲しみの軌跡を軸に愚かな戦争の実態を怒りを抑えた筆致で描ききっています。


長男、1人っ子、妻帯者という侵してはならない兵士たちまでも巻き込むという捨て鉢とも思える戦術の負け戦。


宇佐航空隊で修練を積み、共に23歳という若さで勝ちはないと知りながら散っていった2人の特攻指揮官の死を想うとき、その理不尽さに強い憤りが渦巻きます。 


特に最後の特攻となった中津留大尉は新妻と愛児に心を残しながらも上官の宇垣航空艦隊司令長官との道づれ玉粋を強要されるという目を覆いたくなる痛ましさです。



国に命を捧げた指揮官たちの生きた証をたずねる旅の途上、中津留達雄大尉の故郷である津久見の蜜柑畠への山道の墓の前に立った著者は先の戦争が残した愚かさに無念さが胸いっぱいにあふれます。

「二十歳前後までの人生の幸福とは、花びらのように可愛く、また、はかない。
花びらのような幸福は、花びらより早く散り、枯枝の悲しみだけが永く永く残る。
それが、戦争というものではなかろうか――と。
予科練など少年兵が、花も蕾のまま散って行くのに対し、関、中津留らは、軍隊という窮屈な枠の中で、それぞれ個性的な指揮官としての人生へと踏み出し、また、花開く幸福を知ったにもかかわらず、花びらより早く散って行った。
その男たちの無念さを思うと、こちらはいまも無心に花を仰ぐ気持ちになれないでいる」


九州宇佐航空隊からパール・ハーバーへの第一弾を投下した高橋赫一少佐35歳のエピソードにも胸が詰まります。

ハワイ攻撃途上で生まれた次男が肺炎で危篤状態になったとき、航空隊にあるサルゾールという特効薬を分けてもらうよう促す医師に対して高橋少佐は断ります。

「あれは陛下の将兵のための物、1本たりとも私するわけにはいきません」

次に輸血を促す医師に向かって「私の体のすべては陛下に捧げたもの、血を抜くことで次の日の働きに差し支えができては、申訳ありません」と。



軍人の模範とされた乃木希典大将は司令官として絶対の権力を持っていたにもかかわらずあえて息子を最も危険とされていた戦場へ送り出し若き命を散らせてしまいますが、それこそが国や陛下に対するすばらしい行為と崇められていた時代だったのですね。


国を守るという純粋な意気に燃えて海軍に志願、特別幹部練習生となったあと終戦で任を解かれて帰省した著者は嵐の爪跡の中で新たな思いにかられます。

「勝つか死ぬかしか無いと思っていたのに、負けて生きるということがあったのかと、不思議な気がし、次にはほっとする思いになった」


取り返しのつかないことはたくさんありますが、戦争はその最たるものではないでしょうか。

永久に絶対に戦争をしてはならないとということを次世代に伝えなければなりません。


母の介護への日課の行き帰りに通る小さな川沿いの遊歩道に4本の桜の木があります。

何百本の絢爛に咲いている桜も見事ですが、川面に向かって互いに覆いかぶさるように咲いている桜が澄んだ水面に映ってとてもすてきです。

昨日はすでに新緑の葉がいっせいに芽吹いてまばらな柔らかい桃色を圧倒していました。

その遊歩道は市が中心となって予算を投入し年間を通して整備していて季節ごとの花々が目を楽しませてくれます。

国道を挟んで南北を流れる川沿いの2.4kmの遊歩道にはところどころにベンチが置かれていて市民の憩いの場を提供しています。



母のところで家に持ち帰るにはあまりある小さな心の摩擦があると気持ちを立て直すのによく利用するベンチ。


隅っこのベンチで満艦飾の家財道具を括りつけた自転車を止めて一休みしているホームレスの人を目の端に捉えながら、今の私よりよほどエネルギーがある様子に反省したり、速歩でトレーニングしている力強い高齢者をお手本にしようと思ったり、、自分に照らし合わせていろんな人生を頭で行ったり来たりしています。


桜の季節が過ぎるとまもなく初夏。


国道からすぐのところに作られた「ほたる道」

水草で覆った細く薄暗い水路を作り川の水を引き込んでゲンジボタルの幼虫のえさになるカワニナを放流、6月には羽化し付近を飛び交うそうですが、国道から近いこともあり絶えず流れる車のヘッドライトに人工の光を嫌うホタルには厳しい環境のよう。


はるか昔、幼い頃父に連れられて夕涼みがてらこの川の欄干にもたれてほたるの乱舞を見たのを思い出します。

あの頃は6月になると市中でもほたるが飛び交う環境だったことを懐かしく思います。




さて本日は佐野洋子氏著『シズコさん』です。

「ずっと母親を好きではなかった娘が、はじめて書いた母との愛憎」


本書は2006年から2007年にかけて「波」の掲載されたものを1冊にまとめたものです。

1976年『わたしのぼうし』で講談社出版文化賞絵本賞
1977年『100万回生きたねこ』
1982年『わたしが妹だったとき』で新美南吉児童文学賞
2003年『神も仏もありませぬ』で小林秀雄賞をそれぞれ受賞
2008年本書『シズコさん』(※表紙の装画は著者作)


著者は絵本作家として有名な方ですが、著者の作品は私にとってどれも未読。


本書は結婚後北京で暮らし、終戦後引揚げの間に3人の幼子を亡くし、夫亡き後著者を含む4人の子どもを女手ひとつでりっぱに育てた女丈夫ともいえるお母さんの波瀾の人生とそれを見てきた著者との親子の間の確執を赤裸々に綴ったものです。


過去と現在が何の前触れもなく交差するという、しかもかなり大胆かつ計算のないかにみえる構成になかなか馴染むことができませんでしたが、このように溢れるようにあらんかぎりの母親にまつわる思いのたけを書きなぐることで母親に対する著者の特別な思いが伝わってきます。


自己弁護で糊塗したような装飾を排除した潔さがこの作品のいちばんの特徴といえるのではないでしょうか。


幼い頃より母を1度も好きだったことがないと明言する著者。


抱きしめられたり手をつながれたという記憶もない、母の口から「ありがとう」と「ごめんなさい」を聞いたこともないという母娘関係。


そんなお母さんが溺愛していた弟夫婦から追われる形で長女である著者の家に同居したあたりから母娘関係が逆転、時折卑屈さを見せる母親にますます疎ましさを募らせる著者は目の回るほどの高額のお金をひとりで負担して高級老人介護施設に入れることで母を捨てた自責との帳尻を合わせようとします。


介護施設で痴呆が進んだ母親に思いきって触れてみた著者は自らの気持ちのやわらぎに驚きます。

「母さんに触れる様になった事はすごい事だった。
呆け果てた母さんが、本当の母さんだったのだろうか・・・
私は『あ―疲れた』と母さんと同じふとんに入った。
母は、『ほら、ほら、こっちに入りなさい』と自分でふとんをめくった・・・
何だ、何でもないじゃないか、くさいわけでも汚いわけでもない」


そして著者は子守唄を歌いながら予期せぬ涙を溢れさせます。

「ごめんね、母さん、ごめんね」

「私の方こそごめんなさい。あんたが悪いんじゃないのよ」

「母さん、呆けてくれて、ありがとう。 神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」


母であって母でない人は今まで決して口にしなかった一生分の「ありがとう」と「ごめんなさい」を「バケツでぶちまける様に」ばらまきながら仏のように柔和になるのです。


そして長い間自分の中でこりかたまっていた嫌悪感が氷山にお湯をぶっかけたように氷解するというすばらしい贈り物をもらった娘は先にあの世へ旅立った母親に向かってこう語りかけることで物語を結んでいます。


「静かで、懐かしいそちら側に、私も行く。ありがとう。すぐ行くからね」



外見がどのように仲がよい親子でも「母親」に対しては特別な葛藤を私たちは抱いているのではないでしょうか。


自分を振り返っても母との間に著者のような特筆べき親子関係はなく、むしろ平凡に愛されていたことを疑わない私ですが、そんな関係の中でも長じるに従って批判する気持ちの芽生えが日々の介護の妨げになったりすることもあります。


母には知らせるべくもないそんな小さな葛藤が時には自分への戒めの材料になったりしながら、母への恩返しの気持ちと自分に後悔を許したくないという2点に支えられながら日々を成り立たせている自分がいます。


母と自分を振り返るきっかけを提供してくれた作品でした。

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