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ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2009年05月

永田和宏さんをご存知でしょうか。

朝日歌壇選者の1人として毎週月曜日に日本各地や外国から投稿されたたくさんの短歌からすぐれた歌を選んで寸評を加えている方です。

ご自身も寺山修司短歌賞や若山牧水賞、読売文学賞詩歌俳句賞、日本歌人クラブ賞、斉藤茂吉短歌文学賞などを受賞されたすばらしい歌人ですが、細胞生物学を専門とする京都大学の教授でもあられます。


その永田和宏さんが2008年1月14日の朝日歌壇で第1首目に選んだのが次の歌です。

「『齢をとるということは悲しいことです』と母の便りに認めてあり」 

詠み人は郷隼人氏、次のような永田選者のコメントが添えられていました。

「郷氏の境遇については、朝日歌壇では周知のこと。母親のこのさりげない言葉は身に沁みる。もはや逢うことはないと知りつつ、ただ歳月が過ぎていくのを耐えるしかない母と子母の心情を思いやる子の心が切実である」


ご存知の方も多いと思いますが、郷氏はアメリカで囚われの日々を送っている終身刑の囚人です。


その郷氏が上記の永田選者のコメントについて次のように語っていらっしゃいました。

「何故、上記のコメントが特別に僕の心を打ったのかと言いますと、永田先生自身まだ幼少の頃に、母上が亡くなったということを、何かの本で読んで知っていたからです。彼も母親の愛情というものを知らずに成長されたのかも知れません」

続いて永田選者の歌が紹介されていました。

「背後より触るればあわれてのひらの大きさに乳房は創られたりき」永田和宏


   
さまざまな歌を目にすると数え切れないほどの母子の情愛に遭遇して胸がいっぱいになります。



さて今日のレビューです。

郷隼人氏著『LONESOME・隼人』


「ぬばたまの夜に服役の日数数えてみれば八千七百」

これは2009年3月23日に朝日歌壇に選ばれた歌。


続いて翌週の歌は以前このブログでもご紹介した2首ですが、まるで相聞歌のように寄り添って並んで選ばれています。

「温かき缶コーヒーを抱きて寝て覚めれば冷えしコーヒー啜る」ホームレス公田耕二

「囚人の己が<(ホームレス)公田>想いつつ食むHOTMEALを」郷隼人


そして今年4月の歌。

「花苦菜(マスタード)の見渡す限り咲き誇り鹿児島に咲く菜の花想う」

「監房に<翼をください>唱いおればタイムカプセルの自分が見ゆ」


上でご紹介したのはいまから5年前に刊行された本書には収められてない歌ばかりです。



1984年よりアメリカの刑務所に収監された郷氏の歌人としての原点は1988年にロサンゼルスの日系紙に投稿したのが始まり、その時の選者をされていた方の勧めで朝日歌壇への投稿がスタートしたそうです。


「日本には美しい四季があり、美しい言葉があります。
五、七、五、七、七という三十一音の実に心地よいリズムの短型詩である『短歌』が存在するということに改めて感謝したいのです・・・
思えば、二十年にも及ぶ獄中生活の中で、『短歌』という大黒柱のような心の支えがあったからこそ、気も狂わずに生きてこられたのです・・・
短歌が獄中で人生を矯正し、時には戒めてもくれ、常に正しい方向へと導いてくれたのです・・・ありがとう『短歌』!」


そして本書の印税は自分の犯した深い罪の贖いのほんの一部として「あしなが育英会」とロサンゼルスのリトル・トウキョウにある「小東京サービス・センターの日系ヘルプライン」へ寄付したいと記しています。


「頑なに心の中で抗えど寂しさという敵手強し」

「美化してはならぬ吾が身の現状を戒めながら作歌に励む」

「振り向けばずしりと重き服役の十四万二千九百時間」


本書はこの十四万二千九百時間の悲しみや喜び、絶望のつれづれにソルダッドで詠んだ歌々に加えて、2001年11月からの3ヶ月間大阪朝日新聞に掲載された「歌人の時間」というコラムに載せた10回分のエッセイ、特別資料としてフォーサム・プリズンの写真や身近な鳥や花、ソルダッドで飼っているグッピーなどの著者自身による写生、そして著者たち囚人が狭くて材料のない牢獄でやむにやまれず工夫した発明品が紹介されています。


思いのほか充実した食事のメニューや独房とはいえ2人入居であること、日本ではいつか出獄できる可能性が大である終身刑がアメリカではほぼその名の通りであるという現実、そのかわり日本では厳しい制限がある「自由」が与えられていることなど愁眉のことばかり。


「『ICHIRO!』と囚人仲間に呼ばるればまんざら悪い気はせぬぞ俺」


シアトルマリナーズで活躍するイチローが全米で注目され始めた頃の作品ですが、郷氏が「ICHIRO!」と呼ばれるのは若いときの彼がイチローにそっくりで、故郷の母からも活躍するイチローを息子に重ね合わせている旨便りが届いたと記しています。



著者の歌には望郷の歌、母を詠んだ歌がとても多く切なさで胸が締めつけられます。


拙いレビューを読んでいただくよりも、味わっていただきたいいくつかを挙げてみます。


「母さんに『直ぐ帰るから待ってて』と告げて渡米し三十年経ちぬ」

「実名のあいつは死んであの日より虚名の『郷』が生きて歌を詠む」

「『I’ll be home for Christmas』を聴く度に還れぬ己れの心が沈む」

「あの山の向こうに太平洋が在る夕陽の彼方に日本が在る」

「一瞬に人を殺めし罪の手とうた詠むペンを持つ手は同じ」

「人はみなヌード写真を貼り競えり我が独房に桜島山」

「独活三葉山葵筍紫蘇茗荷想いつつ食む獄食スパゲティ」

「我が歌を読みて下さる人々が祖国におわすと想えば温し」

「老い母が独力で書きし封筒の歪んだ英字に感極まりぬ」

「ふる里の正月恋しや朝風呂に屠蘇『春の海』雑煮、田作り」

「忘れいし『帰省』という字を新聞に目にし心の揺らぐ八月」

「『生きるため食う』獄中にいつか死ぬ為生きる我は『籠の鳥』」

「手作りのカードに獄庭の草花を押し花として母に贈りぬ」

「我を待つ母が切り抜き送り来し郷土紙の記事『特攻花咲く』」

「『仮釈放拒絶さる』とは老い母へ手紙に書けずふた月経ちぬ」

「『生きとればいつか逢える』とわが出所信ずる母が不憫でならぬ」

「『生きる』とは如何なることや繰り返し自問せし無期懲役暮し」



郷氏の歌の評価に関しては無知な私に語る言葉はありませんが、彼の歌を通して、私たちがいつも軽々しく口にする「自由」や「罪の贖い」の重さがずしんと心に居座って今の軽佻な自分を見つめています。


「美化してはならぬ・・・」と詠った郷氏の心情を深くこころに留めています。

ETC1000円を利用して瀬戸大橋経由で坂出にある香川県立東山魁夷せとうち美術館に行ってきました。

渋滞を予想していましたが、難なく車は流れ岡山ICから40分ほどで坂出西に到着。

高松の友人と美術館で合流して総勢5名、みんな絵画鑑賞が大好きなメンバーです。

そのうちの1人は名だたる美術展で何度も入賞し、現在は無審査の出品資格を持つ日本画家、ときどき自宅アトリエでミニ作品展をして楽しませてくれる友人。

  東山魁夷 光昏

以前この美術館に来たときはすべて東山魁夷の作品ばかり、魁夷ファンとして堪能しましたが、今回は「東山魁夷をめぐる日本藝術院の作家たち」と題して東山魁夷と関係があった川合玉堂、結城素明、松岡映丘、高山辰雄、杉山寧など巨匠の作品が展示されていました。


讃岐うどんを食べるのも計画のうちだったので、高松在住の友人の先導で11時半前に有名な山越に着いたところすでに長蛇の列、数箇所ある大きな駐車場もすでに満杯で駐車場に止めるだけでも相当かかりそうな様子に諦めて高松まで引き返したも屋に入りました。
 

「たも屋本店」もけっこうな人でしたが、スムーズに流れ、無事食べることができました。

めんは少し太めですが弾力があり、だしがまろやかなのが特長、おいしかったです!


続いて高松市美術館で開催されていた「加山又造展」。 

比較的初期の動物画から裸婦像、屏風絵、着物や陶器の絵付けなど常に新しい可能性に挑戦し続けた創作の軌跡が年代を追って展示されていました。


美術館のはしご、堪能しました。





さて本日は「99のなみだシリーズ」から『99のなみだ 風』をご紹介します。

「涙がこころを癒す短篇小説集」


本屋さんの店頭で幼子の泣き顔がクローズアップされた文庫本を目にされた方も多いのではないでしょうか。


私も4つの泣き顔の「99のなみだシリーズ」を見て、何ともかわいい真珠のひとつぶの涙の女の子に魅せられて、思わず手が伸びてしまいました。

なぜならばその女の子が愛孫のあ~ちゃんにそっくりだったから。


このシリーズは現在まで4巻が出版されていますが、8月1日には第5弾『99のなみだ 花』が発売予定。



ところでこれらはニンテンドーDS用のソフトとして開発されたものだそうです。

ストレス解消につながるといわれている「感動して涙を流す行為」に注目した任天堂が新しい試みとして10分程度のショートストーリーで感動の涙を流し、気持ちをすっきりさせるという人への心理的効果を狙った製品というコンセプト。


泣ける感動話は大好きですが、泣かせようと図り、統計学的に涙に迫ったという編集の裏話を読んだへそ曲がりな私はムクムクと反発心が!


計算し尽くされた感動話というものはいかがなものか。


大方の作家さんは「この筋立てだときっと読者は泣くだろうな」と思いながら書くとは思いますが、今回のようにプロジェクトをあげて涙腺の調査までやるというのはどうも。


結果的に読者のこころの琴線に触れるというのが自然の成り行きで、より涙を誘うと思うのですが。。


というようなことを思いながら読んだ12の小さな物語。


どれといって長く深く心に滞留する作品はありませんでしたが、それなりに味気ないこころに小さな温かい灯をそっと灯してくれるような、いいお話がたくさんありました。


心にビタミンがほしいとき手にとってみてはどうでしょうか。

戦後生まれの私は戦争については新聞の記事や本で読むか体験者に聞くかですが、実際に周りの戦争体験がある人はほとんど他界してしまっているという現実があります。

世界は狭くなったとはいえ他国が戦禍の中にあっても新聞記事やテレビでのみ目にする私にとっては遠い国の出来事です。


そんな環境の中、最近立て続けに日本の戦時下での物語やノンフィクションを読む機会があった私は改めて強く強く平和のありがたさを実感しています。



本日はそんな作品の1つをご紹介したいと思います。


大岡昇平氏著『野火』


あまりにも有名な作品なので今更というのと、あまりの内容の厳しさにたどたどしいレビューを書くことにたじろくあまりしばらく遠ざけていたものです。

が、自分自身への記録として拙いのは承知で簡単な読感を書いておきたいと思います。


カニバリズムが主題の一部であるこの作品ですが、カニバリズムといえば猟奇的殺人で話題になったパリ人肉事件を思い出します。


芥川賞受賞作品となった唐十郎氏による『佐川君からの手紙』は当時フランスの刑務所に収監されていた佐川一政氏との手紙のやり取りを通して構築された作品でした。


他にカニバリズムを扱った作品を思い浮かべると案外いくつか挙げられることに我ながら驚きます。


古くは魯迅の『狂人日記』、中島敦『狐憑』、遠藤周作『深い河』、辺見庸『もの食う人びと』、トマス・ハリス『ハンニバル』など。


『ハンニバル』の主人公レクター博士やパリ人肉事件の佐川一政、幼児連続殺害事件の宮崎勤などを代表する嗜好的カニバリズムを別にすれば、世界の各地で風習として、また宗教的な意味合いを含むカニバリズムが存在していたようです。


Wikipediaによれば、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いのある族内食人と、復讐などを込めて敵を食べる族外食人とに大別されるそうです。

これらは人身供養ととるか、葬制の一部ととるかによって意味合いが変わりますが、一応社会的な行為とされています。

加えて野生動物などのタンパク源が不足していた地域では人肉食の風習が芽生え、それに比して豚などの家畜の伝播が遅かったという説もあるようです。 


本書の主題となっているのは「緊急事態下における人肉嗜食」及び「特殊な環境による特殊な心理状態での殺人などに見られる人肉捕食」におけるカニバリズムに相当するものといえるでしょう。



さて、本書は1948年雑誌「文体」に発表されたあと、改稿されたものが1951年に再度雑誌「展望」に掲載されるという経緯のあと一冊にまとめて刊行されたものです。


著者大岡昇平氏は京都帝国大学仏文科卒業後企業勤務を経て1944年召集を受けフィリピン・ミンドロ島に赴いた翌年、米軍の俘虜となりレイテ島収容所に送られるという体験ののち執筆生活に入り、多くの問題作品を残していらっしゃいます。

1949年デビュー作『俘虜記』で第1回横光利一賞
1950年『武蔵野夫人』
1952年本書『野火』で読売文学賞
1961年『花影』で毎日出版文化賞、新潮社文学賞
1972年『レイテ戦記』で毎日芸術賞
1974年『中原中也』で野間文芸賞
1978年『事件』で日本推理作家協会賞
1989年『小説家夏目漱石』で読売文学賞受賞



「極限の飢餓状態で、人は人肉を食べることができるか?
そして、人肉を食すことと食さないことの間には一体どんな力が働いているのか――?」


日本軍の敗北が決定的となったフィリッピン戦線で結核に冒され、わずか6本の貧弱な比島の芋と1個の手榴弾を与えられて本隊を追放されてレイテの山中を彷徨った田村一等兵の極限の戦争体験を綴った問題作。


主人公田村一等兵の「私」という目を通して語られる戦争末期の戦場の私たちの想像をはるかに凌駕する悲惨さと主人公の精神のゆらぎを冷徹に描写するもう1つの目―この2つの似て非なる目を物語の全編を通して感じながら、この平和な現代に住む私たちの理解の限界、それも低いハードルにとどまっていることに羞恥を感じながら読み進めました。


戦争という戦いの場においては、もはや己の存在が無用であるという自他の認識の中で手榴弾での死を選ぶよりも極限の生にすがって原野を彷徨う「私」の視線の先々に見える野火がこの作品の暗喩としての役割を果たしているようです。


前述したもう1つの目こそは野火を象徴とした主人公の内なる神の目であるとともに飽食をもたらす人間という個体という相反するものであるというのが私の感じたことです。


「私の行く先々に、私が行くために、野火が起こるということはあり得なかった・・・
私は孤独な歩行者として選んだコースの偶然によって、順々に見たにすぎない・・・
見渡す草原に人影はなかった。誰がこの火をつけたのだろう。これは依然として私が目前の事実からは解決できない疑問であった」


そうして目に見えないものに突き動かされるように、少年時代に惹かれた「神のごとき不合理な存在」にたどり着くために十字架の見える教会に行きますが、ただの偶像と化したものが無残に存在することに絶望を見出すのみです。


そのとき運命のいたずらが負に作用して比島の女を銃殺した結果得た塩で図らずも結果的に生き延びることになった「私」はそのときから内なる自分に向かってこの行為を検証します。


「私自身の任意の行為によって、一つの生命の生きる必然を奪った私にとって、今後私の生活はすべて必然の上に立たねばならないはずであった。
そして私にとって、その必然とは死へ向かっての生活でなければならなかった」


その後1つの屍体に出会うことで彼の内なる神に試される時がやってきます。


「これは既に人間ではない。それは我々が普段何等良心の呵責なく、採り殺している植物や動物と、変わりもないはずである・・・
その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。
私が食べてはいけないものを食べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、私の左手は自然に動いて、私の匙を持つ方の手、つまり右手の手首を、上から握るのである」


こうして極限の飢えを満たすという欲望が敗退する中で彼は「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむる勿れ」という声を聞くのです。

内なるものによってかろうじて人肉を食べることを免れた主人公はその後図らずも猿肉として受け入れたものが人肉であったことを知ります。


このような状況で意図的に人肉を食し、主人公にも呈した仲間を射殺するため銃口を向けたところで「私」の記憶は途切れます。


意識の内では拒否した人肉を意識外に受け入れたという究極の倫理的内省の狭間で、主人公は狂気という繭の中に生きる住処を見出します。


この物語は狂気のために囲われた精神病院で書かれたものという設定になっています。


「銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲すつもりで、実は彼等を食べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった」


限界までの自省の中で書かれたこの手記は狂人による手記として最後にこう締めくくられています。


「神に栄えあれ」


未経験者のあざといレビューなど受け付けない厳しさの前で安易な読感など書くことができなかったというのが正直な私の今回のレビューです。

母のところからの帰り、図書館で本を借りました。

他の県の図書館とだいたい同じく2週間で7冊、だいたい1週間~10日で返却。

あいうえお順に並べられた書庫の本のほかに、直前に返された本が並べられた大きなテーブルを真っ先に見るのがいつもの習慣です。

運がよければ予約の入っていない少し前の人気本が借りられることがあります。


今日はめぼしいものがありませんでした。


私は寝ながらのマナーの悪い本読み人なので重いハードカバーは苦手ですが、比較的最近のを借りようとすればハードでしか出ていないので、今日も仕方なく借りたのはハード5冊です。


ところで館内を見回すと、女性では私のように借りてすぐ帰る人が多いのに比べ、館内に置かれたイスに座って読書しているのは圧倒的に高齢の男性が多いのに気づきます。


リタイアした男性はやはり家庭では手持ち無沙汰なのか、などと想像しながら帰りました。


「雨降れば水槽の底にゐる如く図書館の地下でミステリー読む」

ホームレス歌人公田耕一さんの今週の歌が心に沁みます。


「リサイクル文庫にひっそり黄ばみたる『清唱千首』戀の部を読む」

立場は変われど、読書への共通した想いが伝わってきて切なくなります。




さて本日は乃南アサ氏著『結婚詐欺師』をご紹介したいと思います。


橋口雄一郎こと松川学・プロの結婚詐欺師

43歳・177�p、薄くなった後頭部を特別誂えのカツラ数種で整え、上から下までブランド物に身を包み、緻密なプランを立て女性に近づきます。

犠牲者となった女性は上は60代から下は20代まで。

これはと目をつけた女性を落とすまでのテクニックのスマートさ&すばらしさはモテないと愚痴るその辺の男たちに教えてあげたいほど。


カモの女性たちをクライアントと呼び、次々の新規開拓をもろともせず職業に徹する彼はわずかな先行投資で獲物を落とし、その後は長い経験によって培った巧みな話術や行動テクニックでお金を巻き上げるだけ巻き上げては去っていくという繰り返し。


とにかく西に東にと驚くほどのマメさ!


そんなクライアントのひとりが警察に相談に来たことから結婚詐欺の可能性を視野に入れて橋口の過去と現在を調べ始めた警察。


そのメンバーの1人、東京・小滝橋の刑事阿久津は若き日に自分から去っていった恋人江本美和子が橋口の毒牙にかかろうとしていることを知って動揺します。


事前に美和子に教えるべきか。


内偵が進み、徐々に橋口の周りを固めていく刑事たちの中で阿久津はどんどん浮き上がり、精神的に追い詰められていきます。


阿久津の苦悩が最高潮に達したとき、別の刑事から樋口の疑惑を告げられた美和子は・・・。



物語は主人公ともいうべき橋口と阿久津の目線を通して交互に語られています。


美和子と別れてのち阿久津が手に入れたはずの幸せな家庭の現実と、橋口が女たちに確実に与えた濃密な一瞬の幸せとの対比が巧みに描かれていて見事です。



ついあらすじを書いてしまいましたが、本書にはサスペンス性はほとんどなく、結末への道筋に魅力があるというより、注目はだまされる側の女性の男性観や結婚観、そして樋口雄一郎の口説きテクです。



ということで「まさか私にかぎってだまされるわけはない」というその歯の浮くようなテクニックのいくつかをご紹介して終わりたいと思います。


★小料理屋のママ登与子に
「登与子は、どうして僕がここに、色んな知り合いの女の子を連れてきていたと思ってる?・・・
あなたに、僕を意識して欲しかったからじゃないか・・・
一人で来たときの、僕の気持ちが分かるかい?
あなたが他の男の客と楽しそうに喋ってるところを見ていて、僕がどんな気持ちだったか」

「私のことなんか、何も知らないくせに」と拗ねる登与子に橋口は言います。

「これから、知ればいい・・・
僕は、運命を信じてる。
やっぱり今まで、独りできて、よかった」


★デパートのネクタイ売場の店員曽田理恵に
「この頃無性に、誰かのために生きたい、共に歩んでくれる人と、すべてを分かち合いたいと、そう思うようになってきた・・・
ずっと昔から、君を知ってるような気がする・・・
こうして一緒にいるのが、当たり前みたいな感じがするんだ・・・
来年も、再来年も、この桜を見に来ような」


★「私なんかもう、お婆さんだもの。あなただって、じきに飽きて、若くて綺麗なお嬢さんに目がいくときが―」
と言う還暦を過ぎた宮脇千草に
「何が、婆さんなものか!
これから、まだまだ二十年以上、君には青春が待ってるんだぞ。
その年月を、そっくり僕にくれるって、君、そう言ったじゃないか。これからの人生を二人で分かち合おうって」


★知性も理性もあるはずの阿久津のかつての恋人美和子に
「今だから言うけど、自分でも不思議だったんだ。
どうして、あんなに君のことが気にかかったのか。
神に誓ってもいいが、僕は誰彼構わず、声をかけて回るような男じゃない。
本当を言えば、よくもまあ、あんなに思い切ったことが出来たもんだと、後から冷や汗が出たくらいさ」



そして最後に阿久津に向かって投げる美和子の言葉に阿久津は打ちのめされます。
「私、分かったのよ。橋口と知り合って、初めて・・・
あなたと別れた理由―
あなたと一緒に、歳をとりたくなかったの・・・
何となく、楽しい老後は来ないだろうって、思ったのよね・・・
あの人は、いつも夢を見てたわ。
あなたたちは、それが、あの人の手口なんだって言うけど、少なくとも、あの人はその夢を私に信じさせるだけのエネルギーがあった・・・
そういう人となら、一緒に歳をとるのも悪くないって、そう思った・・・
たとえ、だまされてたんだとしても、私、何かをする前に諦めるような人と知り合うよりは、良かったと思うもの」

連日豚インフルエンザの話題でもちきりです。

最近のsmall talk はもっぱらこの話題。


あっという間に広がった阪神の様子を見ると、岡山ももうすぐという感じです。

ウィルス自体は弱毒性ということなので、従来のインフルエンザとあまり変わらないようですが、マスクや食料備蓄品の買出しの様子がテレビで映されたりすると、何だかじっとしてはいられないような心境になってしまいます。


一億総付和雷同!


1970年代に起きた第一次と二次のオイルショックでは日本人のヒステリー体質が露呈、町中の店頭からトイレットペーパーが一瞬にして消えたのは有名な話です。


今回もマスクで同じような現象が起こっているようです。



何でも流行に何歩も遅れる私は、流行の事件、トレンディファッションなどすべて下火になった頃やっと「そういえば・・・」と人に聞いては呆れられるので、今回は・・とネットでマスクだけは注文したのがもう1ヶ月以上も前の話。


そのときはメキシコ、カナダで騒がれていただけなのに、もうすでに生産が追いつかないとかで待たされて待たされてやっと先日届きました。


要介護5の母の元に通っているので、普段でもマイクが必需品です。


私だけではなく多くのヘルパーさんや看護師さん、先生が出入りするので、以前母に箱入りマスクを持参して人と接するときだけ着けるよう頼んだのですが、「こんなもの着けたら息ができないからいや」とのワガママな一言で却下されてしまいました。


出入りする方の中にはかぜを引かれている方もいらっしゃるだろうにと気が揉めますが、なすすべもなくせめて私だけでもとマスク着用で母に接している毎日です。




さて今回は有川浩氏著『ラブコメ今昔』です。


2003年『塩の街』で第10回電撃小説大賞
2004年『空の中』
2004年『海の底』
2006年『図書館戦争』で2007年度本屋大賞第5位
2007年『クジラの彼』
2008年『図書館戦争』シリーズで第39回星雲賞日本長編作品部門賞
2008年『阪急電車』
2008年『ラブコメ今昔』


デビュー作『塩の街』と『空の中』、『海の底』は自衛隊三部作と呼ばれ、陸・海・空自衛隊を舞台にしていますが、次にブレイクした『図書館戦争』シリーズでも「図書隊」と呼ばれる架空軍事組織の活躍を描いて好評を博しています。


このブログでも過去に『阪急電車』を取り上げましたが、これは自衛隊とは無関係の阪急電車に乗り合わせた人々を巧みに描いた連作でした。

         http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/277



さて本書ですが、これも著者お得意の自衛隊を舞台の恋愛ストーリー6編が収録されています。


著者の作品は『阪急電車』に続いて本書で2作目ですが、物語の構成といい、展開といい、うまい作家さんという印象を特に今回感じました。


一話毎に終結するラブストーリーなので若い女性の読者に特に人気があるようですが、筋立てもさることながら、女性作家らしからぬ落語的要素を含んだ男性的な文に私の感性がかなりくすぐられました。



ググってみると「ベタ甘ラブストーリー」との評がほとんど、幸福度合い満点の着地で終わるのでそういう見方ができるのでしょうが、そういうことより自衛隊員のシリアスな日常をとりまぜて描いていて妙といえるエピソードのピックアップの仕方など、かなりの余裕の力量を感じました。



★隊内紙で「自衛官の恋愛と結婚について」というテーマを立ち上げて第一空挺団の今村二佐にインタビューを迫る突っ走り系広報自衛官千尋と逃げ回る今村二佐との顛末を描いた「ラブコメ今昔」

★主張帰りの新幹線車中で知り合った年下クンの自衛官との遠距離恋愛模様を描いた「軍事とオタクと彼」

★「開かれた自衛隊」をアピールするため提供した某テレビ局制作の自衛隊モノドラマ撮影の現場・横須賀基地護衛艦での会場幕僚広報室スタッフ政屋一尉とテレビ側AD鹿野汐里の恋を描いた「広報官、走る!」

★航空自衛隊の花形・ブルーインパルスの、その中でもルーキーとして女性の間でいちばん人気を誇る相田絋二の妻公恵を悩ます女性ファンとの顛末を描く「青い衝撃」

★ひょんなことから上官水田三佐の愛娘・有季と恋に落ちた手島二尉の上官に告白するまでのじたばたを描いた「秘め事」

★ある駐屯地の自衛隊広報センターで開かれていた写真展で偶然目にして心を奪われた写真の作者とあるカメラ雑誌のグランプリ写真の作者が同一人物だと知り、得意の行動力でその作者・吉敷一馬に猛アタックを開始する千尋を描いた「ダンディ・ライオン~またはラブコメ今昔イマドキ編」


本書は『阪急電車』のような登場人物がどこかで絶妙なつながりを見せる作品ではありませんが、この「ダンディ・・・」の後日談が最初の表題作「ラブコメ今昔」になるという粋な筋立てになっています。



全体を通してかわいい恋物語を中心に展開していますが、ところどころで描かれる自衛官のちょっとした会話や有事に対する考え方などを通して現実の仕事の厳しさが読者にも伝わってきます。



「特にパイロット職の方に伺うと必ず出てくるお話が、『訓練中の事故死は多い。自分の同期はもう半分残っていない』というようなものでした。
それが私と大して年も変わらない(どころか年下だったりする)方から出てくることも再三で。
そうなると、そうしたエピソードも書かなきゃなるまいな、と」


上述のあとがきにあるように、この作品でもエンジントラブルによる事故により一瞬にして命を落としたパイロットの話が巧みに挿入されていて現実の厳しさをさりげなく著しています。


有川氏はすばらしい自衛隊広報官です!

友人にもらって蒔いたルッコラがだいぶ大きくなりました。


少し前から間引くかわりにベビーリーフを摘んでは朝食用のサラダにしていましたが、昨夜はオリーブオイルとレモン汁を加えてミキシングしてルッコラソースを作り、炒めた貝柱と数種類のきのこの上にかけました。

残りのソースはストックしてスパゲティソースにする予定。


食べたあとでデジカメで撮ればよかったと思うのですが、いつも後の祭。

おいしかったです


現在住んでいるマンションは数えて7番目、居住面積としてはいちばん狭いのですがその割にベランダが今まででいちばん広く日当たりがよすぎるほど。

なので毎年日よけ代わりにゴーヤを植えています。


今年もゴーヤの苗を3本植え、ネットも張って準備万端。


キューリ、プチトマト、つるなしインゲン、そしてラディッシュも元気です。  


「楽しみは創り出せるものよ」

昨年94歳で亡くなられたターシャ・テューダーさんの言葉を思い出しました。

ターシャさんに比べたら何万分の1にも満たない小っちゃな我が家の楽しみです。




さて今回はちょっと重いテーマの本です。


栗原美和子氏著『太郎が恋をする頃までには・・・』


新聞の書評や幻冬舎の広告などが目を惹いていて読んでみたいと思っていた作品。


ブログ上で親しく行き来させていただいているトコさんがいち早く読まれて詳しい読感を書かれていたのもプラスして私の読みたい感が増していたところ、思わぬ早くに予約なしで図書館で借りることができました。


とてもいいレビューなのでトコさんの文をそのままご紹介しようかと思いましたが、少し長いのでURLをペーストしますので興味ある方はぜひどうぞ。
      http://ttfuji.exblog.jp/7934690/



出版社などのキャッチコピーでご存知の方も多いでしょうが、被差別部落出身の男性と結婚した女性の物語。



Wikiによると著者栗原美和子氏は「ラブ」「ヒューマン」「ハートフル」を軸に数々の話題作を手がけているフジテレビの辣腕プロデューサー。
今まで恐いものなしの生意気を売りに活躍してこられたそうです。

2003年エッセイ集『せきららら』
2007年『おとなり婚』
2008年『うつ恋』
2008年『太郎が恋をする頃までには・・・』


本書を読むまで栗原美和子氏を知らなかったのでいろいろネット検索してみました。


42歳で猿回し芸人村崎太郎氏と電撃結婚されてからの悪戦苦闘の生活がユーモアたっぷりに綴られているご自身の料理ブログを見つけました。

題して「偏食女王パラダイス 新婚晩婚わがままクッキング」

            http://www.0510food.com/kurihara/essay/01/01.html



さて本書に移ります。


「結婚したときから、2人のことを書くことは目標にしていましたが、20年くらい先を想定していました」

著者がインタビューで語られていた言葉です。


そんな著者の勇気ある出版を後押ししたのが結婚式に列席された辣腕編集者として有名な幻冬舎の見城徹社長だったそうです。


出版に関するいきさつは本書にも書かれていて、見城氏は新垣氏という名前で登場しています。


ということで本書はある部分はノンフィクションであり、全体的には小説という形を取っていますが、カテゴリー的には「私小説」です。


ハードカバーの写真はまぎれもなく実在の村崎太郎氏と栗原美和子氏の正装ツーショットが使われているにもかかわらず、物語の主人公である五十嵐今日子の「私」という一人称語りで物語が進行します。



カバー写真を見たあと、数ページ読み進んだあたりから最後まで私はある違和感というか疑問にとらわれています。

それは「なぜノンフィクションにしなかったか」という疑問。


あまりにも深く重いテーマを柱にするにあたって傷つくであろう人々を最小限に留めたいという配慮があったのでしょうか。


それにしてはこの作品を著者の空想上の作品だと読む読者はいないのではないでしょうか。


あまりにも作品の登場人物と著者を含む関係者が等身大であるがゆえに疑問を最後まで解決できずに読了しました。


そんな違和感はさておき、とても考えさせられる物語でした。


まず著者の勇気ある出版に敬意を表したいと思います。


安易な感想を拒絶するような壮絶な苦しみの渦中にいた、そして今からも時として遭遇するであろう現実のお2人に幸多かれと祈るしかない自分がいます。



この物語読んでいる間中、「もし自分だったら」と何度も何度も置き換えてみましたが、確固たる答えを出すことができませんでした。


人は部外者、傍観者であればとてもりっぱな解説者&理解者になれるということは自分もいろんな場面でたくさん体験しています。


この差別問題に関してはまさにそれがいえます。


著者である栗原氏もそのご家族も村崎氏と知り合うまでは傍観者として、差別とは無縁なところで暮らしていたはずです。


そのような傍観者の1人である私ですが、高校時代に島崎藤村氏の『破壊』や住井すえ氏の『橋のない川』を読んでいわれなき差別に悲しみともそのようなものを生み出した日本人への怒りとも区別できないものを感じて現在に至っています。


この小説の見開きに書かれている有名な水平社宣言である「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」はその当時の多感な私の胸に深く刻まれた言葉でもあります。


これら大正時代末に出された高らかな宣言やそれに至る人々の壮絶な闘いの末の表面的な結果とは裏腹に、深く潜行したところでの差別は営々と続いていることも確かです。


この小説で最も著したかったことは、理論上ではとっくに決済されたことでも、世間の「意識」が決済を許さないということに尽きるのではないでしょうか。

こう考えるとき、関係者となった自分がそんな世間の枠を確実に越えると断言できる自信がないことを告白しなければなりません。


さて、この物語は多くの部分では実際の著者が歩んでいる行程とリンクしますが、ただ1つ、物語の結末に大きな違いがあります。


第2の疑問は、著者は「どうしてこのような結末で物語を終えたのか」ということです。


姿が見えないほどに深く深く潜行している問題の大きさを読者という世間に対して思いきったインパクトを与える必要を感じたのでしょうか。


作品内で著者は主人公の父親の言葉を借りて世間の決着できない「意識」について語っています。

「キョンちゃん。
人間にはね、理屈では説明できない、どうしようもない感情というものがあるんだよ。
ママは、そのどうしようもない感情を消し去ることはできないんだ、きっと」

今までいちばんの理解者だと思っていたママの壮絶な反対に遭って錯乱する主人公に向かって差し出されたパパの言葉。


関係者以外のすべての人々に共通する感情をずばりと言い当てていて、思わず目を逸らしたくなります。


作品内で主人公に伴走する夫・海地ハジメの語る数々の差別に関する体験や考え方が安易な文章では表現できない重さとなって私の心に積み重なっています。


差別という意識を拭い去ることのできない潜行した世間の存在をより明らかにして世間に問うという形ではなく、できれば著者自身が現実に立ち向かっているとおりの納得できる結末で終わってほしかったこの物語。

どうぞ実際に手にとって読んでください。

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