VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2009年08月

川崎から帰省して岡山に根を下ろし、徒歩圏内にある1人暮らしの母のもとに通うようになって5年、当初杖でどうにか歩いていた母も寝たきりになって3年になりました。


現在97歳になる母は少し前まではラジオを通して社会の出来事を掌握、低金利やガソリン高騰などを口にして周囲を驚かせていましたが、ここ1年ほどは死への恐怖から精神的な落ち込みが激しくラジオを聴くということも拒否しているので、だんだん思い込みが強くなっています。


週に1度の先生の往診のあと特にひどく、無言で聴診器を当てたといっては「重病を隠している」と疑い、脈をとらなかったら「死期が迫っているので見放された」と取り付く島がないほど。


血圧も安定、血液検査の結果も良好であるという事実を見せても信じず、その対応に私を含めた周囲は振り回されています。


お盆の間付き添っていた娘が東京に帰ってからのメール。


「どんなシチュエーションでも自分の論理を展開し、他者に確固たる自信をもって訴求できる、今のビジネス界、営業力不足が叫ばれているなか、秀逸の人材やわ」


経済不況の直中サラリーマンをしている娘視線の祖母へのぴったりの観察眼には思わず笑ってしまいました。


私たちや孫である娘たちは母の望むことはすべて受け入れるというスタンスを長年とってきているので、今更急に方向転換できないという状態の現在ですが、寝たきりという状態の苦しい母の立場を思いやると、どんなワガママも聞いてあげなければと思ってしまいます。



「彼岸へと入りにくき人の苦しみにコスモスの花窓辺をゆらぐ」


生命科学者でありサイエンスライターとして多くの著書を著していらっしゃる柳澤桂子氏が一昨年老人病院に入院されたとき詠まれたものです。


まるで母のことを詠んだような歌で老年の哀しみが伝わって切なくなります。



長く病名のわからない病気に苦しんで30年、全身に麻痺がおよび、食べることも飲むこともできず中心静脈栄養に頼る生を続ける苦しみに耐えかねてチューブを抜いてほしいという願いを主治医と家族に伝えたところ、同席していた娘さんの動揺の激しさに思いとどまったという経験を通して命は自分だけのものではないと改めて気づかれたそうです。


そんな著者ですが、老人病院で死ぬに死ねない寝たきりの高齢者の本当に苦しむ死を見て死に対するこころが揺らいでいると正直な気持ちをあるインタビューで吐露されていました。



さて本日は柳澤桂子氏著『ふたたびの生』のレビューを。


本書は31歳のときの初めての入院時の1969年から筆を起こし、上述のような究極の苦しみの末、ある1人の精神科医との出会いによって痛みとしびれから開放されるという夢のような奇跡にめぐり合った1999年までを記していらっしゃいます。


奇跡を起こしてからのはじめての外出はお孫さんの七五三のお祝いの席、その1ヵ月後に息子さんたちへのクリスマスプレゼントを買うためにご主人とデパートへ。


「『二人でお茶を飲むなんて、久しぶりだね』と夫がいった。

『ほんとうに久しぶり。お茶だけのためにレストランに入るのなんて、四十年ぶりではないかしら』

店前の噴水の水を見ながら、カフェ・オ・レを楽しんだ」



ただ夫とカフェ・オ・レを飲むというだけなのに、なんと生命感あふれる喜びが伝わってくるのでしょう!


暗闇を体験してこその生への賛歌!



著者は「おわりに」で不特定の医師に対して次のような切なる願いを書いていらっしゃいます。


「私がこんなに長い期間苦しんだのは、やはり、医学がそこまで至っていなかったためであろう。
あと十年か二十年のうちには、私のような病気の診断法や治療法も確立されて、少なくとも気のせいだといって、患者の性格や日常のおこない、あるいはものの考え方を非難することのないようになってほしい」


上記には医学界に対する大変重要な示唆が含まれていますが、本書の中でもう1つの光があります。


それはどんな処置をしても痛みが止まらない慢性疼痛の患者さんへの一条の光です。


著者の奇跡の原動力となったのはある2種類の抗うつ剤と抗けいれん剤でした。


そのメカニズムを著者は科学者としての目で分析していらっしゃいますので興味と科学的な知識のある方は是非読んでみてください。


慢性疼痛といってもさまざまな原因があり、結果的に著者のように劇的な効果がない方もいらっしゃるとは思いますが、アメリカの文献にもさまざまな成功例が発表されているそうですから、苦しまれている患者さんの助けになればと祈ります。

「昨日ね、寝てるとき地震があったの。
パパが手をつないでくれたから恐くなかったの」


「MM、あのね、今日ね、パパとママとプール行ったらね、せみが死んでたの」(MMはあーちゃんの私への呼び名、両祖父母を彼女の考えた独特の重ね名前で呼んでいます)


「MM、セブンがやっとできたの。
でね、あすかね、オレンジ色の風船もらったの」(マンションの近くに建設中のコンビニが完成、新装開店にママと行って風船をもらって大興奮だそうです)


「花火に行ったの。
ドラえもんの花火もあったよ。
大きなシートだったからトランプだってできたけど持っていくの忘れたの」


岡山から帰って以来、孫のあーちゃんが毎日のように電話をくれます。


お手伝い大好きな年頃の4歳、普段からママのお手伝いをしていて乾いた洗濯物のたたみ方は大人でも太刀打ちできないくらいきちんときれいにできてびっくり。

帰ったあと、あーちゃんに習った下着のたたみ方を実行しているほど。


お手伝いをしたがるあーちゃんにゴーヤの種取りやきゅうりを切ってもらったり、たまねぎやゆで卵の皮むき、お皿洗い、お膳立てなどたくさんのお手伝いをしてもらいました。



川崎に帰ったあーちゃんの気がかり。

「今頃あすかがお手伝いできないから、MM、困っているだろうな」


今しかない幼い純なかわいさを思う存分味わって、と不肖な先輩としてあーちゃんママに言っています。




さて今日のレビューは田辺聖子氏著『中年ちゃらんぽらん』です。


古い作品で再読、なぜこれを選んだかというと・・・

先日行った阿波おどりに関連して思い出したのが一時期著者とご主人、関係者の方々が「カモカ連」を結成して毎年徳島に繰り込んでおられたこと。


本書は「ちゃらんぽらん連」と名称を変えた連が登場、阿波おどりの醍醐味を存分に描いていて秀悦。


30年近く前の作品ですが、戦中戦後と苦労して生き、やっと不肖な子どもたちもどうにか独立した中年の夫婦の悲哀とも安堵ともいえるため息が聞こえるような中年への応援歌、共感できる物語。



当時中年だった田辺氏はあとがきで次のように書いていらっしゃいます。


「あんまり若者ばかりもてはやされる世の中なので、中年の人々のために、私はこれをかきました・・・
われわれ中年は『しぶとく生き』て『お互い、ええ目をみる』ようにしましょう」



主人公は会社では中間管理職にある万年課長・平助とその妻京子。


3人の子どもたちもどうにかこうにか自立、お互い言いたいことはあるものの、切ったはったはいい大人のすることではないという分別を胸に、日々を淡々と過ごす夫婦の上にも時折手前勝手な息子たちが持ち込む嵐に吹き飛ばされそうになりながらどうにか持ちこたえるという日々、どこの家庭にでもありそうな、そんな中年の中流家庭の日常を夫婦の交互の胸のうち語りで描いた物語。


営々、凡々と築いた生活を子どもといえども心無い言動で乱されたくないという中年夫婦のため息はどんな家庭の子育てを終えた夫婦にも思い当たることばかり。


著者の底力は中年の男と女、どちらの側の心情を描いても言いえて妙といえるようなすばらしい鑑識眼があるということ。


本書の見所は最終章の阿波おどり。


夫の側、妻の側から、それぞれほどほどの人生の味わい方を知った面々が集まり、自然に「連」の輪ができ、それが大きな1つのかたまりとなって「ちゃらんぽらん連」を結成、本場徳島へなだれ込み、俄仕立てのエネルギーを爆発させこころをひとつに踊り込むフィナーレは圧巻です。


「足袋ハダシの軽やかさ。
靴やズボンを蹴り散らして、きりりと股引をはいて毛脛を出して踊るというのは、これこそ日本人に向いた恰好である・・・
田所家の子供の万引も忘れ、鮫島の息子の自殺も忘れ、マアちゃんも忘れ、謙の赤ん坊も忘れ、平助は踊っている」


「あと何十年、夫の平助といられるだろうか。
一緒にいられるあいだは、こうやって毎年、平助と踊りにきたいと、京子は思うのであった」



小さな荒波をくぐりぬけたり横に追いやったりの人生を共に歩んできた戦友のような夫婦をお手本に、小さな楽しみ多い人生を歩いていきたいと思ったことでした。


あまりにも燦々とリビングに降り注ぐ太陽光を和らげる目的で毎夏ベランダに植えているゴーヤが今年はとても勢いがよくグリーンの葉が生い茂り、昼間からリビングに電気をつけることもしばしばの状態となっています。


一応プチシンプル・エコ生活を目指しているものの、これでは逆効果という感じですが、ゴーヤの実のほうはほとんど毎日収穫、いろいろにアレンジして食べています。


ゴーヤはビタミンCの宝庫といわれ、含有量はキャベツの約2倍、トマトの約5倍、キュウリにいたっては約10倍にもなるそうです。


ビタミンCのほかにビタミンE、ビタミンK、カロテン、葉酸、カリウム、カルシウムが含まれていて、高血圧や血糖値を下げる効果があるそう。


クックパットなどを検索するとそれぞれの家庭のゴーヤ料理のアイディアがたくさん出ていますが、我が家のゴーヤの佃煮は次のような簡単レシピです。


ゴーヤ500g しょうゆ80cc、酢60cc、砂糖100gを煮立てた中に入れて、煮汁がなくなる直前でかつおぶしと白ゴマを回しいれて終わり(甘みが足りない場合はみりん追加)。

我が家は白砂糖は置いてないので代わりにオリゴ糖を入れます。

お茶請けや白ごはんによく合うので毎年作って楽しんでいます。


ゴーヤの苦味が苦手という人がたくさんいて、私たちも数年前まではそんな感じでしたが、慣れるとその苦味が癖になるほどおいしく感じられるのが不思議です。




さて本日は上野創氏著『がんと向き合って』をご紹介しましょう。


本書は2000年10月から1年間、朝日新聞の神奈川版に連載された手記を元に加筆したものです。


上野記者はこの手記でファルマシア医学記事賞、単行本になってからは第51回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞されています。


その頃神奈川に居を構えていた私は毎週若い記者のこの手記をはらはらしながら読んでいたもので、9年後の現在文庫本になったのを感慨深く手にとっています。


「4度の手術、3度の職場復帰、2度の再発、そしてたった1度の人生――。
突然、がんを宣告された若き新聞記者が、どのように『生と死』と向き合い、現実を乗り越えてきたのか。
告知からほどなく結婚、二人三脚の長い共闘の日々が始まる。
人はひとりで死んでいくけれど、ひとりで生きることはできない。
再発から7年近くを経た現在の心境とともに綴る」


1971年生まれの著者に悪性の睾丸腫瘍が発見されたのは朝日新聞横浜支社の警察担当としてかけだしの記者だった26歳のときでした。


左睾丸切除の手術を受けた段階でがんはすでに肺に広範囲に転移、5回の化学療法のあとの超大量化学療法の末がん細胞が消えて退院、そして1年を待たず再発、手術と化学療法、そのあとの再々発と治療・・・そして11年の時が経過して現在も元気で記者として活躍されている姿があります。


その姿にいつも寄り添うのが美佐子夫人。


最初の睾丸摘出手術後のベッドサイドでの美佐子さんからのプロポーズ、翌日の婚姻届と美佐子さんサイドでの結婚話が急展開に決まります。


「どうして結婚しようなどと思い立ったのか、うまく説明できない・・・
彼の母と一緒に医師の病状説明に立ち会った時、自然に『この人と結婚する』という気持ちがわき起こって、その声に従ったというしかない。
家族となり、彼が突然背負い込んだ大きな荷物を一緒に担いたかった。
とことん付き合いたい、と思った。
自分が生まれた理由を初めてみつけられた気がした」


それ以前の美佐子さんは記者として5年にもなるのに満足のいく記事を書くことができず、希望の持てる将来像を思い描くことすらできずうつ状態が続いていたといいます。

「実は彼の病に便乗して、私自身が救われたかったのかもしれない」


厳しい困難に打ち勝って挙げた結婚式の最後の挨拶で彼女は「人はなせ生きるのでしょう。きっと死ぬまで生きるために、生きているのではないかと思うのです」と語ります。


「影あって光きわだつ」

闘病を越えた後の輝くような結婚式の1日を創さんはこのように表現していらっしゃいます。


先日ご紹介した『弱き者の生き方』で語られた五木寛之氏の言葉と重なってこころに響きました。

「ほんとうに明るく生きるためには、暗さを直視する勇気をもたなければいけない、ほんとうのよろこびというものを知る人間は、深く悲しむことを知っている人間なのではないかと思うんです」 -五木氏



「がんの体験は多くのきっかけを与えてくれた。
あの忌まわしいヤツめは、ひどい試練をもたらすと同時に、あらゆる授業をはるかに上回る学びの機会をくれたのだ。
自分や他人の一生について、こんなに真剣に考えたことは今までなかったし、自分の弱さといや応なく向き合わされることもなかった。
鈍感な『強』になっていた自分に気がついたのも、世の中にあふれる幾多の苦しみや悲しみに思いをはせるようになったのも、すべてがんがきっかけだった」



何回りも大きく成長された記者・上野氏の末長い活躍と美佐子夫人との二人三脚の人生を見守れるのはとても嬉しいことです。

夫の勤務の関係で移動が多かったので腰を落ち着けた仕事に就けなかった私はかれこれ30年の間内職を続けてきました。


通信教育会社F社を初めZ社の通信講座の添削を25年ほど、また重なる期間がありますが、現在まで続いていた編集会社M社の中高の学参の作成・校正の仕事を20年ほど。


全国どこに移動しても宅急便で送られてきて、締め切りまでに送り返すというシステムが長く続いた要因でした。


添削員は辞めて5年以上になりますが、校正の仕事は好きだったこともあり現在まで続けていましたが、最近は細かい活字の間違いを正すための視力も心もとなくなり、何より文法やスペルのミスを厳しく見つけてやるぞというモチベーションがダウン、この辺でそろそろという心境になりました。


夫に相談しても自分次第といわれ、長く迷っていましたが何事も引き際が肝心と思い至り、先日仕事の新たなオファーが来たのをきっかけにM社の担当者の方に伝えました。


「今回もせっかくオファーをいただきましたが、この辺で老兵は消えるべく決心しました・・・
今まで長きにわたり本当にお世話になりありがとうございました。
なお遊びについては生涯現役、everytime OKですのでぜひ岡山にお越しの節はご一報を!」


長いお付き合いのある担当者の方には温かい言葉で熱心に引き止めていただき、また脳細胞活性化のために続けるべきとの周囲の声もありますが、ボケ防止に続けるには厳しい仕事内容、仕事に対して失礼だという気持ちがあります。


現状のまま永遠に続くことなどないということを心に留める出来事でした。




さて今回は大塚初重氏&五木寛之氏著『弱き者の生き方』をご紹介します。


日本考古学界の第一人者である大塚氏と作家・五木氏の長い対談記録。


「『人間って、地獄に落とされたとき逆に、笑いがこみ上げてくるものですね』
引き揚げ者の作家・五木寛之と、撃沈された輸送船の生き残り、考古学の泰斗・大塚初重の二人が、時に泣き、時に怒り、そして感動を共有した。
戦後最悪のいま、地獄を見てきた二人が“弱き者”へ贈る、熱く、温かい、生き延びるためのメッセージ」



五木寛之氏によるまえがきより・・・

「私はこれまで、ずいぶん多くの人々と対話を重ねてきた。しかし、今回の大塚初重先生との対話ほど、よく笑い、かつ深く感動した機会はなかったように思う。それは圧倒的な体験だった」


大塚初重氏によるあとがきより・・・

「対談中に私の目が曇り、五木さんの声の震える瞬間があった。私は作家・五木寛之さんの言葉や文章力や考え方に、幼き日からの人間形成の道のりが確かによみとれると思った」



五木氏はほとんどの方がご存知なのでここでは省き、大塚氏の経歴を簡単に記します。


現在明治大学名誉教授で83歳になられる大塚氏は昭和20年海軍一兵曹として乗船した輸送船が2度にわたり撃沈され漂流、文字通り九死に一生を得る体験をして復員後、明治大学夜間部で働きながら苦学し博士課程終了。
日本考古学界の第一人者として、登呂遺跡や綿貫観音山古墳をはじめ、多くの発掘を手がけていらっしゃいます。


東シナ海で撃沈された船底からワイヤーにぶらさがり燃え上がる船底から命がけの脱出中、自分の脚につかまって助けを求めた仲間を自分が助かるために瞬間的に炎の中に蹴落とし脱出したという背負うには重すぎる過去と共に、自分の命は仲間の犠牲の上に生かされているという思いで過ごしていらっしゃる様子が五木氏との対話からひしひしと伝わってきて思わず姿勢を正すほどでした。



また五木氏に関しては以前2度講演を聴いた経験や数多くの著書を読んでイメージしていた姿からは遠い作家五木氏の原点の姿勢が立ち上がってきて改めて真摯な人間性に圧倒される思いでした。


父親の仕事の関係で生後まもなく朝鮮に渡り12歳で終戦を迎える前後、目の前で母親をソ連兵に足蹴にされ、自らの手で死体を荼毘に付すなど言語を絶する12歳の痛々しい体験が五木氏の口から淡々と語られて大塚氏ならずも息を呑むこともしばしば。


できることなら消し去りたかった記憶、封印していた重い過去を、あえて今明かす両氏の思いが胸につきささります。


 「ほんとうに明るく生きるためには、暗さを直視する勇気をもたなければいけない、ほんとうのよろこびというものを知る人間は、深く悲しむことを知っている人間なのではないかと思うんです」 -五木氏


「生きていくってことは苦しいことが多いけど、たまにちょこっといいこともある、そのときは、つきなみなようだけど、生きているっていいなと思いますね」 -大塚氏


長く自分を「病めるもの」「悪人」としてうしろめたい思いを隠して生きてこられたという五木氏が、「微笑みながら夜を往く人」という感の大塚氏との対話を通して大きな光を与えられた、という言葉が印象的でした。

夫も私も本好きで寝る前の読書は欠かしたことがありませんが、そのほかにも移動中の電車や飛行機、いろんな待ち時間に本を携帯するのを忘れたらどうやって時間を潰そうかと焦ることがあります。


先日娘を迎えに空港に行ったときのこと。

到着時間より早く着きすぎた上2人ともうっかり本を忘れたことに気づき、しまったと思っていた矢先、羽田からの到着便が台風の影響で30分から1時間遅れるという館内放送があったため慌ててて空港内ショップに駆け込みました。


キオスクなどのショップに置いてある文庫本には私の好みの本がないということもあり、空港ショップでも期待せずざっと見ていて目に留まったのが今日ご紹介する作品です。


原宏一氏著『へんてこ隣人図鑑』

ある情報月刊誌「新刊展望」に1999年から1年間連載したショートショートを1冊にまとめたものが本書です。


先日このブログでもご紹介した『天下り酒場』が私の笑いのツボを見事に刺激してくれたので、わずかな待ち時間の読書にはもってこいの作品と期待しての購入でした。


「奇妙なこだわりに固執する人間に振り回される周囲の戸惑いを描く、シニカルなユーモア溢れるショートショート集。
家の匂いを嗅いで価値を鑑定する“ホムリエ”に惚れられた家の住人、あらゆるものの“以前”が気になる男に詰め寄られる若者、純粋に穴を掘りたくて仕方ない男など、『へんてこ』な人間が引き起こす騒動の顛末とは?
ほか、普段は口に出せないような悪趣味な自慢話を聞く男の悲哀を描く『自慢結社』を収録」


24篇のショートショート+少し長い1篇・最後の「自慢結社」を除いて24篇はすべて文庫本のページにして8~9�nのショートですが、どの小品も見事にシュールな着地で決めています。


☆歩いている道や公共の場でいろんなことを聞かれる男・フミオ。
「おとなしそうだけど無愛想じゃない。丁寧だけどしつこくない。考えてそうで考えちゃいない。そんな顔だ」と友人に指摘される顔の持ち主フミオが新宿駅で遭遇した聞かれラッシュの顛末を描いた「きかれる男」


☆突然自宅に押しかけて家の匂いに対する薀蓄を披露したあげく1万円で鑑定書を発行してもらうはめになった男の話を描いた「ホムリエ」


☆電車のドアと座席の間にある狭い50センチ四方ほどの空間・ドアポケットに立つことを無常の喜びとしていたヤマザキに突きつけられたドアポケット権。

ひょんなことから権利を獲得するための会員権を特級会員の老人から譲り受けることになったヤマザキを襲った顛末を描いた「ドアポケットの老人」


☆バスを待っているときバスの来る方向を見る、レストランで注文の品を待っているとき品が運ばれてくる厨房を見る、ラジオ体操のときラジオに向かって体操する、などの習性を捉えてシュールに決めた一品「見るな」

エレベーターに乗ったとき、乗客が必ずドアの方に向き直る習性に気づいて以来、妙なおかしさを感じていたので共感の作品でした。


☆ある会社・真実の声社が開発した「裸の王様防止システム」を売りつけられた部長職にあるキシモトと営業マンの会話の妙が際立つ「株式会社 真実の声」


紹介すればきりがないほどへんてここだわりてんこもり!


それにしても原氏の頭の中はどういう構造になっているのでしょうね?


高松に住む親友Sさんに誘われて念願の阿波おどりを見に行ってきました。

関東から帰省中のそれぞれの娘とともに母娘2組で。


7月1日全国一斉発売の演舞場のチケット購入から徳島までの車での送迎など、すべてSさんにおんぶに抱っこ、踊り一色の至福の1日を楽しみました。


まず13時から市内に3カ所ある屋内演舞場のうちの1つ市立文化センターで悠久連、殿様連、娯茶連、天水連、水玉連、阿呆連の6つの選抜有名連を観覧、それぞれ趣向を凝らしたダイナミックな鳴り物と踊りに目を奪われました。


続いて市内に4ヵ所ある屋外演舞場の1つ南内町演舞場での観覧、18時から22時まで途中30分の休憩を挟んで1部2部ぶっ通しでの観覧。


屋外演舞場では有名連に加えて地元企業の社員や家族によって結成された連が入り乱れて1年を通しての練習で鍛えた踊りを披露してくれます。


地元徳島銀行のイメージガールをしている島崎和歌子さんが徳島銀行の連の先頭で踊っていたり、三平師匠やドカベンでおなじみの香川元選手も踊り手として参加、場を盛り上げていました。


娘の勤務している企業も地元の支社とタイアップして毎年連を出しているということでもしやと楽しみに待ちましたが、現れませんでした。


有名連以外の連のスケジュールは事前に明かされることがないということで見たい連に遭遇できるのは運不運によるのでしょうか。


Sさんが取ってくれた席はちょうど放送席の真正面、それぞれの連が一時止まって演舞を披露する最高の場所、堪能しました。


終演後高松に向け出発予定のためフィナーレを待たずに帰りましたが、桟敷から観客も飛び出して共に踊るフィナーレは最高に盛り上がるそう。


阿波おどり一色の徳島市内に期間中一見が宿を取るのは至難の業、ツアーを組んでいる旅行会社や常連さんがほとんど借り占めるというのが実情のようで、私たちも手分けしてトライしたものの歯が立ちませんでした。


来年は徳島泊にチャレンジしたいと思っています。




さて本日は徳岡孝夫氏著『妻の肖像』をご紹介したいと思います。


徳岡氏は大学卒業後毎日新聞社で社会部、サンデー毎日、英文毎日の記者、編集委員、ニューヨーク・タイムズのコラムニストなど歴任

1986年ドナルド・キーンやリー・アイアコッカなどの翻訳活動により第34回菊池寛賞

1991年『横浜・山手の出来事』で第44回日本推理作家協会賞

1997年『五衰の人―三島由紀夫私記』で第10回新潮学芸賞受賞


また文藝春秋の月刊誌『諸君!』の巻頭コラム「紳士と淑女」の匿名コラムニストを30年続けられていました。



「この世でも、私は社会に出て最初に会った女と結婚した。
次の世でも、呆気ないほど簡単に、再び「見初め」をするのに違いない。誰に何と思われようと構わない。
ありったけの声を出して「和子―ォ」と叫ぼう。
いつか必ず、また会う」


夫が先立つのが世のならいといわれ、自らも妻に看取ってもらうと思っていたにもかかわらず、45年と9ヶ月連れ添った妻・和子さんに先立たれた著者が喪失の悲しみのなか、妻恋の思いを綴ったエッセイが本書です。


「この本に書いたのは、私がまばたきした間の記憶。
うつせみの身が、夏の空を飛んですぐに地に墜ちた空蝉を物語るようなものである」


妻との最初の出会い、折々のできごと、夫婦の会話などの気負いのない平易な文章を通して妻への深く謙虚な愛情が伝わってきて温かさに包まれる、そんな味わい深い作品です。



亡き妻を恋うるエッセイといえば「形骸を断ず」という遺書を遺して妻の死後自死を選ばれた江藤淳氏の『妻と私』や、このブログでもご紹介した城山三郎氏『そうか、もう君はいないのか』が思い浮かびますが、それぞれの夫である著者の目を通した夫人の像の中で、本書の和子さんほど私にとって共感をもって受け入れられた方はありませんでした。


夫の有名無名にまったく影響を受けない「分相応の幸福」を大切に、結婚スタート時からの平凡な日常を手掌の中で育んでこられた姿が夫の筆を通してまっすぐ私の胸に伝わってきました。


社会的に成功されたジャーナリストであるにもかかわらず、驕りとは無縁の日常を過ごしてこられたご夫妻の姿と深い絆が文章からにじみ出ている宝珠のエッセイ。


「人間は、この世に生きて何をするのか?
私はまだ終わりきらない自己の人生を顧み、『死者を悼むこと。子を産むこと。それ以外は何も大切なことはない』と感じる・・・
私は時代の要所に立った人を何人も取材し、記事を書き本を書いてきた。
だが和子の二度のお産に比べると、私のしたことはハリウッドの二流映画をなぞる程度のものでしかなかった」

何とすてきな夫なのでしょう!

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