VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2009年09月

だれでも他人から見ると首を傾げるようなこだわりを日常生活に持っているのではないでしょうか。


自分ではこだわりの少ない平均的な性格だと思っている私ですが夫から見るとかなり偏りがあるようです。

時間的なバランスが悪いのがその1つ。


集中力はあるので何かをするときはすごい集中力でやりますが、やり遂げることにこだわりを置くあまり、結果はどうでもよくなることもしばしばです。

手芸に例を挙げれば、気に入ったデザインで手縫いのポーチを作り始めると、ある期間集中していくつも作り、完成品には一切執着なく方々へ進呈し、あるときを境にピタリとやめる・・・という具合。


生涯コツコツと努力を積み重ね、それによって得たものを掌中でずっと慈しむという感覚はなく、資格を取ったとしても取った時点で自分の中でその資格の価値が消滅するという感じなのです。


こんな分析ができるようになったのは年齢を重ねてある程度冷静に自己判断できるようになってからで、若いときは自分にもっと見当外れな幻想を抱いていたような気もします。



「集中してやり遂げる」と書けばとてもすばらしい行為のようですが、畑に例をとるなら長い時間をかけて理想的な土を熟成するという長期的なプロセスを要するものは苦手です。


「完成することに対するこだわり」は概念的で表面的には目立たないので周囲が困ることもなく糾弾の対象にはなりませんが、神経症との境界線上にあるような「こだわり」を持った人もたくさんいます。



医療の対象にはならなくても1日何度も手を洗わずにはいられなかったり、外出前後には異常に火の元や戸締りが気になるのを経験している人も多いと思います。


「妄想」と「正常」の境目の線引きが気になるところですが、私たちを取り巻く「世間」の賛否の割合によって左右されるのではないでしょうか。


自分の考えや行為がまっとうであると思っていても、世間の多数が「否」と認識すればそれは単なる「妄想」や「異常」となってしまうし、逆の場合もあります。


「地球は回っている」と主張したガリレオはその時代の「世間」によって狂人扱いされたことからもわかりますが、ここで書く「世間」の常識は常に流動的で流行に流されます。



私もそんな大勢に流されやすく、そして感傷的な甘さのある「世間」の一員ですが、今回読了した作品への評価は、ググってみたところかなり少数派に属するもののようでした。


天童荒太氏著『悼む人』


先日行った図書館の返却コーナーに横たわっていた本書。

まさか予約なしでこんなに早く手に届くとは!



「この作品は、決して自分一人で書いた作品ではありません。
あとがき代わりの謝辞にもあるとおり、七年という長い歳月のあいだ、本当に多くの人々の力をお借りし、支えてもらって、ようやく書き上げることができた作品です・・・
わたし個人としては、長い年月がかかりましたが、この物語を現在の形に書き上げることができただけで、幸せでした。
本当にここまでの作品になるとは思いもしませんでした。
ここまで深い場所に潜ることができるとは思っていませんでしたし、ここまで高いところに登れるとも思っていませんでした。
今回の作品によって得られた様々な想いや風景を、読者と共有することができて、最も欲しいものはすでに得ている気持ちでいました・・・
そして、この物語の背景には、現実世界での人びとの死という重くて、とても大切な事実が横たわっています。
亡くなられたお一人お一人を、坂築静人のように悼むことはとてもできませんが、あらためてここにご冥福をお祈りいたします。         2009年1月15日 天童荒太」



1986年『白の家族』(栗田教行名義)で第13回野生時代新人文学賞
1994年『孤独の歌声』で第6回日本推理サスペンス大賞優秀作
1995年『家族狩り』で第9回山本周五郎賞
2000年『永遠の仔』で第53回日本推理作家協会賞
2000年『あふれた愛』
2006年『包帯クラブ』
2009年『悼む人』で第140回直木賞をそれぞれ受賞


天童荒太名義での実質的なデビュー作『孤独の歌声』以来、全作品を読んでいますが、本書は最も天童氏を投影した天童氏らしい作品だというのが私の感想です。


主人公は坂築静人・・・ひとことでいうなら・・・人を失う悲しみをあまりにも深く受け止めすぎて社会生活を営めなくなった青年・・・です。


命を落とした人々を悼むために全国放浪の旅を続ける青年・坂築静人を軸に、ふとしたことから彼と行動を共にすることになった夫殺しの過去を持つ奈義倖世、自分とはあまりにもかけ離れた静人の行動に興味を持ったスクープ屋の薪野抗太郎、そして末期の宣告を受けた母・巡子と彼女を取り巻く家族たちの、それぞれの視点で書かれた物語。



最初に挙げた著者の言葉から、本書に対する著者の思い入れの深さと作品が世に出てからの評価に対する満足感など、「死を悼む」という行為そのものが感傷的な面で「世間」に受け入れられるということに疑いの余地を持たない著者の純な心をうかがい知ることができます。


読みながら、ともすれば主人公・静人と著者・天童氏が二重写しになってしまったのは上述したようなことからです。


日本津々浦々で起こった不特定の人々の死を新聞を通して知り、その死の現場でその人が在りし日に誰かを愛し、誰かに愛され、そして死者がどんなことに感謝されたかを胸に刻みながら「悼む」日々を過ごす静人の行為は、他人の死をそのときのものとして自分の中で浄化できないという静人自身の「こだわり」から発したものだと思われますが、それを美しい行為として美化するという概念が著者のスタンスに流れているようで、なかなか共感が難しい作品でした。


極論ですが、「悼む」という行為はたとえ他者を犠牲にしようと崇高で、逆に「恨む」という行為は「醜いこだわり」という「世間」の常識であるという認識を基礎の創作が本書であるという感が拭えませんでした。


最初に書いた「世間」に受け入れられる「こだわり」の部類に入るのが静人の行為だとすると、静人の帰りをひたすら待っている末期がんの母親への息子としての静人の贖罪はどうなるのか。


静人は自らの自殺の代わりに全国の死者を「悼む」旅をしていると答えている箇所がありますが、旅立った母の終末を知れば静人はそれでもなお生へ向かうことはできないのではないか。



ところが宙に浮いたような静人の行為に納得できない読者は案外少なく、現在の混沌とした我勝ちな世の中で、久しぶりに浄化されたすばらしい魂を静人に見て感動したという人が多いのには正直驚きました。


静人ならず、創作のディテールにこだわりを持つ作家であることは『永遠の仔』を書き上げたあと公開された創作ノートで知っていましたが、今回も本書を完成するまでの7年の苦闘の末、450ページにわたる大作を世に出したあとの著書自身の感想は上述したとおりですが、あまりにも著者のさまざまな「こだわり」が感じられ、大勢の読者のようにピュアな主題の作品とはとうてい受け入れられませんでした。 



本書の執筆の発端について著者は「最初に『悼む』というイメージが頭の中に生まれて、それを長く熟成させたら『悼む人』が生まれた」とあるインタビューで答えていらっしゃいましたが、独り歩きした「悼む」という言葉が巨大化した作品といえるのではないでしょうか。


また静人の随行者となった夫殺しの過去を持つ奈義倖世の物語と随行から離れる前の2人の性的な関係も挿話としては理解を超えた夾雑なものでした。



一方、静人の知らないところで闘病する末期がんを病んだ母・巡子とそれを取り巻く静人の父である夫・鷹彦、静人の妹である娘・美汐、そして甥の生活者としての日常にはそこここに胸を打たれる場面があり、巡子の生き様に人間としての理想的な終末を見ることができたことはすばらしい収穫でした。


物語の最後は、去り逝く母と娘であり静人の妹・美汐の宿した子どもの誕生という神秘的ないのちの交換という感動的な場面で終わりますが、著者にはその後の静人をぜひ書いていただきたいと思いました。

昨夜は「キングオブコント2009」を3時間!

漫才日本一を決める「M‐1グランプリ」に対抗して昨年からスタートした「キング…」はコント日本一を決定するというもの。


「コント」とはフランス語が語源の「軽妙で機知に富んだ短い劇」という意味だそうですが、「漫才」と「コント」の違いは、私の中では簡単な舞台設定の中衣装や小道具の力を借りてする掛け合いが「コント」、ネタの内容とは関係ない服装で掛け合いをするのが「漫才」。


というわけで1回戦2584組から勝ち進んで決勝に残った8組が4分の持ち時間でそれぞれのコントを競いました。


8組の内訳は「東京03」「ジャルジャル」「モンスターエンジン」「ロッチ」「天竺鼠」「しずる」「サンドウィッチマン」「インパルス」で、それぞれ披露した2回のネタの得点合計で優勝が決まります。


「M-1グランプリ」の審査員がお笑い界の大物芸人で占められているのに対し、「キング…」は準決勝進出者100人のお笑い芸人が審査員。


結果は私の予想を大きく裏切って3人トリオの「東京03」が賞金1000万円を獲得。


「M-1グランプリ」でも出来レースとの噂が持ち上がったようですが、「キング…」の審査員が準決勝進出者というのは私情を挟まない公平な審査ができるのでしょうか。


私の感覚では並べて「サンドウィッチマン」が群を抜き、続いて「インパルス」が健闘していましたが、結果は大きく差をつけて「東京03」が優勝したのには驚きを隠せませんでした。


なんだか私自身の笑いのツボに自信がなくなりました



お笑いフリークを自認していましたが、時代遅れなのでしょうか?




さて今回はトルーマン・カポーティ著『誕生日の子どもたち』をご紹介します。


カポーティといえば映画『ティファニーで朝食を』の原作や、実際起こった殺人事件を題材のノンフィクション作品『冷血』を思い浮かべる読者の方々が多いのではないでしょうか。


19歳で欧米の優れた短編小説に与えられるオー・ヘンリー賞を受賞して一躍有名になったあと、長編『遠い声 遠い部屋』、『ティファニーで朝食を』を上梓して作家としての地位を不動のものにしました。


5年の歳月をかけて書き上げた『冷血』への著者の思い入れは特別で、実際に発生した殺人事件の加害者を含む事件の関係者に徹底的にインタビューを繰り返し、加害者の死刑執行に至る過程をこれ以上ない精密さで再現するうち、加害者に対して「少しでも長く生きてほしい」という友情に似た気持ちと、作品を完成させるために「早く死刑を執行してほしい」という相反する感情の葛藤に悩まされたそうです。


著者は自身のインタビューで『冷血』に関して次のように語っていらっしゃいます。

「この経験の結果、私は人生をより悲劇的にとらえるようになった。
もともと私には悲劇的な人生観がある。
そのためかえって私は極端に軽薄に見えてしまう部分を持ってしまう。その軽薄なほうの私 はいつも暗い廊下に立っていて、悲劇や死をあざけっている。
私がシャンパンを愛し、リッツホテルに泊まるのはそのためだ」


2005年に上映された映画「カポーティ」は『冷血』 を取材し書き上げるまでのそんな葛藤に苦しむ著者を忠実に描いていて多数の映画賞を受賞した話題作でした。



さて前置きが長くなりましたが、晩年スキャンダルとアルコールと麻薬に塗れたゲイのカポーティを知る人には一致が難しいほどのイノセントなカポーティに出会うことのできる珠玉の短編集が本書です。


本書には6編の短篇が収録されています。


訳者である村上春樹氏はあとがきでカポーティを評して次のように記していらっしゃいます。

「そこに描かれたイノセンス=無垢さはある場合には純粋で強く美しく、同時にきわめて脆く傷つきやすく、またある場合には毒を含んで残酷である。
誰もが多かれ少なかれ、人生の出だしの時期にそのような過程をくぐり抜けてくるわけだが、中には僅かではあるけれど、成人して歳を重ねてもその無垢なる世界をほとんど手つかずのまま抱え込んでいる人もいる」



傍目には破綻を来たしたようなカポーティの心の中に生涯納得のできない幼年期の傷がそのまま残っていて、信じやすく傷つきやすいピュアな心を包んで危うい綱渡りのような生の核になっている、そんな少年期への郷愁と哀しさの入り混じった心模様が作品のそこここに読み取れてあたたかくも切ない作品となっています。



「感謝祭の客」、「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」は不幸な生い立ちを彷彿とさせるような自伝的色彩の濃い短編ですが、「無頭の鷹」はイノセントな少年をテーマの作品とは大きく隔たった異色の作品、人間の運命のすごさに言葉なく読了した1作です。



どの作品も少年たちの視点で回想的に描かれているエピソードの不思議なあたたかさと同時に不吉な影を感じずにはいられない不幸への暗示のようなものが読み取れますが、幼年期に両親の愛をじゅうぶんに受けることのできなかった著者の愛への希求や欠落感なのでしょうか。


カポーティが生涯抱え続けた二面性のうちの、少年のせつないほどに純な側面を知ることのできるすばらしい作品集・・・表紙からも若く傷つきやすいカポーティをうかがい知ることもできます。


ぜひどうぞ!


夏中楽ませてくれたゴーヤもそろそろ終わりを告げようとしています。


こうしてブログを書いているパソコンから目をあげると目の前にグリーンの葉っぱが広がっていて、その効用は計り知れないほど。


すでに根を抜いて処分した友人もいますが、我が家ではまだ毎日ゴーヤが収穫できています。


最盛期の大きなゴーヤは採れなくなりましたが、半分くらいの小さなものが毎日2,3個収穫でき、サラダやチャンプルーに事欠きません。


昨日のお昼には薄切りしたゴーヤと玉ねぎ、トマト、ソーセージを軽く炒めて塩コショウしたゴーヤスパゲティを作り好評でした。



数年前その苦さに閉口していた夫も今ではすっかり慣れ、違和感なく食べています。


これからホームセンターに石灰を買いに行きます、来年の準備のために。




さて本日は熊谷達也氏著『氷結の森』をご紹介します。


『相剋の森』『邂逅の森』(史上初の山本賞&直木賞ダブル受賞作)に続く「森」シリーズ・マタギ三部作の完結編です。

著者の簡単な経歴とともに前2作をブログでご紹介していますのでよかったら読んでください。

『相剋の森』http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/191

『邂逅の森』http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/181


本書は一応マタギ完結編となってはいますが、前2作とは内容がかなり異なります。

わずかに共通するところは主人公の柴田矢一郎が秋田県阿仁出身のマタギだったという過去があることです。


物語の舞台は樺太とロシア、時代は大正。


日露戦争から生還したあと、妻子を自殺に導いたとして主人公を姉の仇と追い続ける義弟から逃れるためマタギとして根ざしていた故郷・阿仁を捨て、サハリンで鰊漁や樵の仕事を転々とする流浪生活を送る矢一郎の壮大かつ過酷な運命を描く力作です。


追いつ追われつの逃亡劇はこの力作のほんの一部、極寒の樺太での苛酷な労働の様子、間宮海峡横断、ロシアのパルチザンとの闘いなど歴史的にも貴重な足跡に忠実に触れた冒険小説となっています。


特に主人公・矢一郎が他者との交流を拒絶しながらも温かい血潮を秘めた孤高の放浪者として描かれていて、思わず「男前!」と応援したくなるほど生一本の男の中の男として描かれています。


自身の肉体を極限まで酷使することによってのみ自分の生を確認する男の他者・特に弱きものに対する捨て身の思いやりが胸に響きます。


「約束」は必ず果たす、受けた「恩」には必ず報いるというのは人間社会のルールとはいえ、命がけでそのルールを守ろうとするのはまさしく山の神を恐れる真のマタギの精神に基づくものではないでしょうか。



本書は日露戦争のあとの日本のシベリア出兵などを歴史的背景に、当時の日本人の様子や厳しい自然に溶け込む土地の先住民・ニブヒ族の暮らしぶり、北方へ流れ着いた日本人たちの運命に翻弄されながらも抗う切なさや逞しさなど、さまざまな角度から味わえる臨場感溢れる渾身の大作。


ぜひどうぞ!

唐突ですが私たち夫婦は吉本系です、というより子どもたちを含めて昔から吉本新喜劇風。


何気ない会話の中にジョークを挟もうとみんな必死ですが、万人向けのすべらない会話はかなり難しく、特に夫と私のジョークは子どもたちにはかなり不評です。


「今、たしかに私のジョークで笑ったよね?!」と指摘するとたいてい「あまりのサムさにアワレの苦笑い」と負け惜しみの答えが返ってくることもしばしば。


特に私はテレビではお笑い&クイズ番組しか観ないという徹底ぶり、知性&教養からほど遠い生活をしています。


年齢を重ねるにつれますます漫才、落語に傾倒、 次男がプレゼントしてくれた『やすしきよし漫才大全集』12巻や、友人と義兄嫁が編集してくれた枝雀師匠の落語シリーズのCDが我が家の家宝になっています。


先日の私の誕生日に義兄嫁がメールでプレゼントしてくれた「ビッグ情報」はとっておきです。

23日15時~5時間、NHK hiで枝雀特集があるそうです。

枝雀ファンの方はお見逃しなく!



さて本日は海堂尊氏著『ジーン・ワルツ』をご紹介します。

2007年6月~12月まで「小説新潮」に連載されたものを2008年に単行本として刊行したのが本書です。


『チーム・バチスタの栄光』や『ジェネラル・ルージュ』などに見られるエンターテインメント性が薄く、かわりにメッセージ性が強い異色の作品となっています。


「ジーン・ワルツ」とは「遺伝子(=Gene)のワルツ」の意。

序章でタンパク質からなる合成複合体である人体の遺伝子のDNA配列の仕組みから筆を起こしています。

DNA配列に組み込まれたA、T、G、Cの4文字によるアミノ酸製造法を記載した暗号文。

その4文字の塩基の3つの組み合わせが1種類のアミノ酸を指定して生命を支えているそうです。

つまり生命の基本ビートは3拍子、ワルツ・・・だそうです。



「どこまでが医療で、どこまでが人間に許される行為なのか。強烈なキャラクターが魅せる最先端医療ミステリー!」


物語の舞台は過疎地の病院に勤務していた跡取り息子である産婦人科医が業務上過失致死容疑で逮捕された事件のあおりを受けて閉鎖寸前に追い込まれたマリアクリニック。


主人公は閉院間近なクリニックを支える名門大学病院に勤務する美貌の産婦人科医・曽根崎理恵。


陰で「クール・ウィッチ(冷徹な魔女)」と呼ばれている理恵が閉院間際のクリニックの最後の5人の妊婦の診療に携わることで物語がさまざまな角度に展開していきます。



ブレイクの口火を切った『チーム・パチスタ・・・』などの過去の著者の作品には必ず現役の医師ならではの医療に関するさまざまな提言が見られますが、エンタメ的な要素を含む登場人物を配置して読者を笑いに誘う雰囲気がありましたが、本書は登場人物の口を借りた著者の厚労省官僚に対する直球勝負の糾弾という感じの作品でした。



医療の現場を知らない厚労省の役人が生み出した医療改革の結果の医療崩壊、産婦人科医師不足、医療事故、少子化問題、人工授精、代理母出産など、悲惨な状況に置かれている日本の産科医療の現状についての指摘が全編を網羅しています。


私自身も3人の子どもたちの母となっていますが、この物語を通して妊娠や出産が世間で認められているほど簡単なものではなく、子どもが健康体で生まれるということがどんなに奇跡的なことであるかを改めて感じました。


物語の詳細については読者に委ねますが、「因果律はすべての事象が明らかになった時にはあるべき場所に還っていく」という主人公・理恵の一見正論と見紛う行為への私自身の疑問は大いなる形で残ったままで読了しました。


この物語の核になる行為の「因果律」は本書の前の作品『医学のたまご』に前もって用意されていると思うのは穿った見方でしょうか。


本書の14年後の状況が『医学のたまご』の内容なので、合わせて読むとまた違った興味深さが見えてくるかもしれませんね。

岡山の県北には美作3湯と呼ばれる3つの温泉-湯郷・奥津・湯原温泉-があります。


湯原温泉は3湯のうちでいちばん規模が大きく昭和29年からスタートした国民保養温泉地の指定を31年に早々と受けた温泉として有名です。


15の泉源がありその総噴出量は、調査済みの泉源だけで毎分3982リットル、1日に湧く湯量は5736トン、家庭のお風呂(200リットル)にすると2万8千684人分に当たるという泉源豊かな温泉。



その湯原温泉に友人と3人で気晴らし・おしゃべり温泉小旅行に行ってきました。


友人の運転で蒜山高原まで北上し、蒜山蕎麦や蒜山牛乳でできたアイスクリームを賞味してホテルにチェックイン。


温泉郷から少し離れた静かな環境の森のホテル。   


バーベキューの夕食のあとの久しぶりのカラオケ、音痴の私も歌いまくって2時間があっという間に経過。



翌日は48作目にして最後の作品「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」での1シーンの舞台となった勝山へ直行。


昭和60年に「町並み保存地区」に指定された山あいの二百数十件の城下町。


昔ながらの酒蔵、旧家、武家屋敷、工房などが軒を連ね、それぞれの建物に趣向を凝らしたのれんがかかっていることやお雛様の町としても有名です。


行ってみたい歩いてみたい日本の百ヶ所「遊歩百選の町」にも選ばれているそうです。


個々の民家や店の特長を生かした図柄を草木で染め抜いたのれんの数々がとてもすてきで見とれながら歩きました。     


「ひのき草木染織工房」はそんな町並みの中にあり、女性の店主・加納さんがのれんを制作されている作家さん。


店内には様々な草木染のすてきな製品があり、ほしいものばかりでしたが、手がかかっているだけに躊躇する値段、残念ながら見るだけ。

明日への活力が充電できた充実した2日間でした。




さて今回はジャクリーン・ミチャード著『きみを想う瞬間』をご紹介します。


著者ジャクリーン・ミチャードは小説化としての処女作『ディープエンド・オブ・オーシャン』(邦題『青く深く沈んで』)がミシェル・ファイファー主演で映画化され全米ベストセラーとなりました。


最初のご主人をガンで亡くされた後再婚、米ウィスコンシン州マディソンに7人の子どもたちと暮らしていらっしゃいます。


本書の原題は『Christmas,Present』。


「きみを失うなんて考えたこともなかった。
子どもたちと一緒になって逆立ちや宙返りをするきみ。いつかふたりでパリに旅行しようと楽しそうに語っていたきみ。
そんなきみが脳出血で12時間後に亡くなるなんて、突然言われても信じられるだろうか。
最後のクリスマス・イブ、ぼくはきみに何を伝えればよいのだろう。
そして、最後に遺されたきみからのプレゼントとは…」


結婚記念日の12月23日のデートの帰りに脳内出血し、あと12時間の命と宣告された妻ローラと夫エリオットと3人の娘たちのクリスマス・イブの物語。


瞬間に途切れることはあるものの意識は鮮明なまま、あと12時間の命と宣告されるという状況の中、主人公である妻、夫、娘たち、母親、兄弟姉妹たちがこの残酷な事実に立ち向かい、そして受け入れる様子が死に逝く人と遺される人との相互視点で描かれています。


死の直前、ローラと医師との間で交わされた会話は胸を打ちます。

「わたし、やり残していることはないでしょうか?」

医師は黙って考え込んだ。

「これまでたくさんの死を見てきました。・・・経験からいって、いちばんつらい死は、自分の人生を愛せなかった人の死です」

「私は自分の人生を愛しています。ささやかな人生だけど」

「それでも申し分のない人生ですよ。完結したとはいえなくても、生ききったという意味で。・・・わたしもそんなふうに強くありたいものです」



「もし自分がローラの立場だったら」という置き換えなしには読めない物語。


主人公を自分のこととしてみると、あまりにもローラの冷静さと物事の進め方に作話らしい物語性が感じられて共感が少し困難でした。


受け入れられないところは娘たちが将来読むカードを用意するところ。

長く喪失感を植えつけることは去り逝く者の自己満足だと思うからです。

遺される人に自分の思いを伝え長く記憶にとどめたいというのはこの世を去るすべての人の願いだと思いますが、遺される人にとっては新たな出発がとても困難になるのではないでしょうか。


反面その後3年の間に起こったエリオットの娘たちへの悪戦苦闘には実体感があり、遺された者たちの未来が美しいままではなく、起こりうる現実として描いていてとても効果的でした。


そして最後に新しい未来を暗示するような出会いを用意して著者はこの悲しい物語の幕を下ろします。

最後にすてきなプレゼントを読者に用意したという感じのエンディングでした。

先日スーパーで買い物をしてポイントカードを出そうと財布を捜せど見当たりません。


不必要なときにはいつも目につくのに、必要なときに限ってその店のカードが見当たらないのはどういうことか。


私に敵愾心を燃やすコロボックルが財布の中身を自由に操っているとしか思えません。


ポイントに惑わされても大した得点はないのについついポイントにこだわり損をした気持ち。


ということで、帰ってポイントカードの整理をしていたら隅っこからドナーカードが出てきました。   


以前のカードは例えば腎臓とかの単体に有効だったような気がしますが、最近のカードでは○を囲むことですべての臓器を提供できるようになっています。


臓器提供の意思表示は3つのカテゴリーに分かれています。


�@私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。
 心臓・肺・肝臓・腎臓・脾臓・小腸・眼球・その他(  )

�A私は、心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。
 腎臓・脾臓・眼球・その他(  )

�B私は、臓器を提供しません。


曽野綾子氏がどこかで書いていらっしゃいましたが、ある提供者が生前�@を○で囲んだものの「その他(  )」が空欄だったため死後眼球提供を拒否されたという例を読んでいたので、私は念を入れ、�@をで囲み、羅列した臓器をすべてで囲み、その他の(  )に「全部」と書いてで囲んでいます。


杓子定規な法律解釈は当事者の責任回避の術でしょうが、もっと人間的な柔軟さを持って解釈してほしいと思います。



臓器提供については夫は反対で私と意見を異にしていますが、カードには家族書名欄は「可能であれば」と但し書きがついているのだけなので、生きているうち社会でほとんど貢献できていない自分に与えられた最後のすばらしいチャンスなので、夫が反対してもどうしても実行してほしいと娘には頼んでいます。




さて本日のレビューは吉村昭氏著『死顔』です。


「生と死を凝視しつづけた作家が、兄の死を題材に自らの死生観を凝縮し、死の直前まで推敲を続けた短編。
死の静謐を期し、延命措置への違和が表明されている。
著者の最期とも符合する表題作のほか、全5編の遺作小説集。
著者の闘病と原稿への執念、最期の刻を、夫人の津村節子氏が哀切につづる「遺作について」を併録」


著者の死生観はさまざまな著書で知ることができますが、若き時代に罹った結核により末期と診断されたことが核になっていると思います。


死を待つばかりだった著者がその頃アメリカから導入されたばかりの危険が伴う胸郭成形手術を受けたすさまじい体験は種々の著書で言及されていますが、その体験によって再び新しい命を手にしたという強烈な蘇生観がその後の文学作品に大きく投入されています。


手術によって5本の肋骨を失った体験は初期の作品『青い骨』に、またご自身以外の多くの肉親の死 - 特に闘病生活を支えてくれた弟の死は『冷たい夏、熱い夏』に、それぞれ見事に投影されています。


本書『死顔』には5つの短篇が収録されていますが、そのうちの「二人」「死顔」は著者の次兄の死を題材にしたものです。


9男1女の8男として生を受けた著者ですが、死の床にいる次兄をもう1人の生き残りの兄とともの見舞うところから筆を起こし、遡る過去の思い出、自らの死生観などを淡々と描いています。



入院中の病み衰えた病人の見舞いへの躊躇、柩に納められた死顔を見ることに対する躊躇は共に病人や死者に対する礼儀だという思いは自らも長く死へと続く床についていた著者ならではの配慮だといつも共感を覚える箇所です。


「死顔」ではそういった柩の中の死者の顔に目礼する習慣に対する抵抗を通して自分の死後に言及、夫人との死後の申し合わせが述べられています。


「死は安息の刻であり、それを少しも乱されたくはない。
自分の死顔を会うことの少ない親族はもとより、一般会葬者の眼にふれられることは避け、二人の子とそのつれ合い、孫たちのみに限りたい。
そのためには、死後出来るだけ早く焼骨してもらい、死顔は、死とともに消滅し、遺影だけが残される」


かねてより窓のない柩を望んでいる私には深く共感できるところです。


5つの短篇のひとつ、冒頭の「ひとすじの煙」は著者と思しき療養中の青年の目を通して映ったある若夫婦の悲惨な運命を淡々と描いていて胸に迫る1作。

頼るべきただ1人の人間である夫の鈍感さが妻をも絶望の淵から死に追いやる強烈な刃ともなるという強いメッセージを著者独特の諦念感のある淡々とした筆遣いで描かれていて心に響きます。


その他、「クレイスロック号遭難」は史実に基づいた作品で未完のままのものということでしたが、1889年明治憲法発布の年、ロシア公使から日本外務省宛に届けられた宗谷海峡付近で消息を絶った運送船・クレイスロック号の捜索依頼により日本が全力を挙げて遺体の発見・検視・埋葬にいたるまで誠実に対処した様子がしっかり描かれています。

国家間の友好の礎を築くにはお互いの利害関係や力関係ではなく誠意でつながった信頼関係こそ不可欠であるという控えめなメッセージが全体を貫いている著者らしい作品です。


また夫人の津村節子氏による「遺作について-後書きに代えて」で更に詳しく知ることのできる著者の死の前後の文章は胸を打ちます。


舌癌とそれに続く膵臓全摘の手術の前に自ら書かれたという克明な遺書。

「延命治療は望まない。
自分の死は三日間伏せ、遺体はすぐ骨にするように。
葬式は私と長男長女一家のみの家族葬で、親戚にも死顔を見せぬよう・・・
『弔花御弔問ノ儀ハ故人ノ遺志ニヨリ御辞退申シ上ゲマス 吉村家』と書き、門と裏木戸に貼るように・・・
香奠はいただかぬよう」


旅立つ数日前夫人に所望したほんの一口の酒とコーヒーをじっくり味わった以後すべてを断った著者。


自ら点滴の管のつなぎ目をはずし、さらに首の下に埋め込んでいるカテーテルポートの針も引きぬき、娘に「もう死ぬ」と言って父や兄と同じように干潮時に無の世界に旅立たれました。


もう2度と新しい作品に触れることができないと思うととても淋しいですが、尊敬寸分も違わない著者らしい最期、ご冥福を心からお祈りします。

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