VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

PVアクセスランキング にほんブログ村

2013年10月

高松の友人宅に長逗留していてブログがお留守になっていました。923b2ef8.jpg


5泊6日

途中愛媛・松山の道後温泉に一泊。


ちょうど台風ツインズの襲来の只中だったので行きのフェリーが不安でしたが揺れも感じないまま難なく到着。


一泊二日の道後温泉行きでは往復とも台風の影響で小雨が続いていて、特に帰りは一部の高速道路が遮断されて地道を5時間も走ったのが予想外でした。



道後ではセキ美術館と正岡子規記念博物館を訪れました。


夫の油彩画仲間の方に図録を見せていただいてから機会があれば訪れたいと思っていたセキ美術館

思ったより小規模でやや贅沢な民家といった門構え。


地元の美術愛好家である関宏成氏によって平成9年に開館、明治から昭和の巨匠による近現代日本の日本画・洋画、そしてロダンの大理石彫刻「ファウナ(森の妖精)」を核にした版画作品等のコレクションが収蔵されていて季節ごとに展示替えが行われているそうです。

私たちが来館したときは「愛媛ゆかりの画家たち展」が開かれていて16人の著名な画家の作品が展示されていました。


そして大きな期待を持って来館した正岡子規記念博物館


先日逝去された天野祐吉氏が名誉館長をされていたところです。


館内に天野氏の追悼展示のようなものがあるかなと期待して見回しましたが全くなし。


正岡子規の幼少から死去までの歴史が細かく展示されていて、その中にはあった夏目漱石や秋山真之との地元での交流、河東碧梧桐や高浜虚子、伊藤左千夫や長塚節など俳句や短歌を通しての交流などが詳しく記され、子規の生涯を知ることができる工夫がありとても興味深く見て回りました。

     2bc95e9e.jpg


29b20bec.jpg
     fdad285e.jpg


0e55f40a.jpg


5ef68f01.jpg
     222f29e7.jpg


93b2a796.jpg
     021fbba2.jpg


da134c0a.jpg
     cea30767.jpg


5cfbc53c.jpg



命日を「へちま忌」と呼ばれる元となった3句。

亡くなる数時間前に詠まれたものだそうです。

糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな

痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず

をととひの へちまの水も 取らざりき



「陰暦8月15日の満月の夜にヘチマからとった水を飲むと痰が切れる」という言い伝えにヒントを得たといわれています。


34歳と11ヶ月、短いけれど凝縮した生涯だったのですね。





さて本日はyom yom編集部編『作家の放課後』のご紹介です。


「人間だから、得手不得手はある。
出来ない、やりたくないと決め付けて、今まで目を背けてきたこともある。
大人になった今だからこそ、勇気を出してチャレンジしてみようじゃない! 
現代を代表する人気作家が、時に及び腰になりながらも、持ち前の情熱と根性で登山や断食など未経験の分野に挑む。
その貴重な体験を克明に記した、雑誌『yom yom』連載の爆笑エッセイアンソロジー」


「小説新潮」の別冊yom yomに企画連載されたもので、著名な作家が様々なことにチャレンジしてそれを自らレポートするという前代未聞の爆笑企画となっています。


新分野に挑まれた作家さんたちは22名。

畠中恵、酒井順子、西加奈子、万城目学、辛酸なめ子、有吉玉青、山本文緒、中島京子、谷村志穂、角田光代、森絵都、森見登美彦、斎藤由香、及川賢治、小池昌代、大森望、辻村深月、豊崎由美、乃南アサ、青山七恵、朝井リョウ、岸本佐知子(敬称省略)


そして挑んだ対象は次の通り。

「今様お江戸散歩」(畠中恵):落語家・柳家三三による江戸案内と寄席体験
「初めての古書店街」(酒井順子):南陀楼綾繁さんの案内による早稲田・神保町の古書店巡り体験
「占いいかがでしょう」(西加奈子):三人の占い師による占い体験
「高みをめざす」(万城目学):ロッククライミング体験
「お茶会女修業」(辛酸なめ子):お茶席体験
「本は有機的工芸品だった」(有吉玉青):自分の本の革装丁体験
「一週間で瘦せなきゃ日記」(山本文緒):淡路島の日本で唯一の医学的断食療法の断食同情体験
「ハリとルーシーとトリパラータイラ」(中島京子):鍼灸、ルーシーダットン、アーユルヴェーダ体験
「もってのほか、おもいのほか」(谷村志穂):割烹道の師範コース体験
「そなえよつねに。」(角田光代):ボーイスカウト体験
「タイル工場の謎」(森絵都):多治見市のタイル工場見学体験
「この文章を読んでも富士山に登りたくなりません」(森見登美彦):富士登山体験
「マカと坐禅の不思議な関係」(斎藤由香):玄侑宗久先生のもとで座禅体験
「本はどこからやってくる?」(及川賢治・100%ORANGE):製本工場見学と製本制作体験
「まど・みちおさんの大きな耳」(小池昌代):まどみちおさんへのインタビュー体験
「〈一箱古本市〉雇われ店長体験記」(大森望):不忍ブックストリート・一箱古本市出店体験
「メンクイのすゝめ」(辻村深月):戸隠で蕎麦打ちと蕎麦三昧体験
「バカの海へ」(豊崎由美):作家の朝倉かすみさんと共に海釣り体験
「おっとっと」(乃南アサ):ろくろで酒器作りの陶芸体験
「浴衣と私の新しい歴史」(青山七恵):手縫いの浴衣作りと着付けマスター体験
「職人たちの戦国」(朝井リョウ):NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」エキストラ出演体験
「マイ椅子を作る」(岸本佐知子):木工所で丸椅子制作体験


爆笑とはいかないまでもかなり笑える話満載、それぞれの作家さんたちの新分野への本気の取り組みを通して表の顔以外の素顔が垣間見えて興味深い作品でした。


中でも期待を裏切らない面白さといったらお茶席体験をレポートした辛酸なめ子氏の文章。

一部ご紹介します。

「・・・数人で茶碗を共有しているので思う存分飲めないのが心残りです。
茶碗は高価なのに、回し飲みするのは貧乏臭い感じがして、お茶という文化が高尚なのか庶民的なのかわからなくなってきました。
『濃茶』の茶席はお辞儀する回数が多く、土下座している気分で、ますます貴族なのか下民なのかわかりません・・・
『お茶』は、ただの礼儀作法ではなく、精神的な駆け引きを学べる場だと実感しました。
最初は控えめに謙遜して相手を油断させ、気づいたら主導権を握っている…やはり嫁入り前に習っておくのがベストです」


さすが辛酸なめ子氏!


畏まった周囲をなめ子流観察眼で見渡す様子を想像すると思わず笑えました。


一篇一篇が非常に短い文章なのでベッドで読むには最適です。

天野祐吉さんが亡くなられましたね。

享年80歳。

1979年に広告をジャーナリスティックに論じる雑誌「広告批評」を19創刊、商品の宣伝でしかないと考えられていた広告を批評の対象として位置づけられたことで有名です。

また「みんなで決めよう『原発』国民投票」の賛同者に名を連ねていらっしゃいました。


朝日新聞で1984年から現在の「CM天気図」の元となる「私のCMウオッチング」を開始、足掛け29年、連載1132回に及ぶ名物コラムを亡くなるまで掲載し続けられました。


私がずっと朝日新聞の読者であることの一端を担っていたのが「CM天気図」。


軽妙洒脱な中に隠し持った社会に対する硬質な批判が見え隠れするような氏の文章が大好きで共感のてんこ盛り。


気に入った記事はよく切り抜きしては天野氏ファンの友人と内容について語り合うのを常としていました。


内容的に重々しい事象でも天野氏が語るとどうしてこんなにやわらかく、そしてユーモアいっぱいで、いたずらっ子がちょっと書きましたというようになるのか。


ペンの力のすばらしさをいつも感じさせてくださる方でした。


「天野祐吉のあんころじい」と題するご自身のブログもよく拝見していました。 


いまこの国は景気さえよくなれば、憲法を変えようが原発を再稼働させようが「ええじゃないか、ええじゃないか」の空気にあふれている。
「いい国」には原発も原爆もいらないので、「いい国つくろう、何度でも」という宝島の広告には、小さな字で(今度こそ)とつけてほしかったなあ



3・11以来、「日本再生」の声があちこちで起こり、その動きもあちこちで進んでいるようですが、どうもいまの政府のやり方を見ていると、日本を再生しようというときの「日本」は、3・11以前の日本を再生しようとしているように見える。
災害も原発事故も起きる前の日本だ。
このことについては、高橋源一郎さんなど、すでに何人かの人たちが鋭く指摘していますが、ぼくもまったく同感です。
原発を輸出するなんていうのも、その現れの一つでしょう。
安倍さんは「強い国」をめざす、なんて言っていますが、もう経済大国や軍事大国は米さんや中さんにまかせておけばいい。



ぼくは「強い国」なんかより、なだいなださんのいう「賢い国」をめざそうという考えに、全面的に賛成です。
でもなあ、いまの政界を動かしている人たちの顔ぶれをみていると、あまり賢そうな顔が見当たらないんだよなあ。人のことは言えないけどなあ。


「憲法というのはその国の広告だ」ということなんです・・・
9条なんて最大の広告ですよ。
だって日本ってどういう国ですか、と外国の人に聞かれたときに、昔は「フジヤマ・ゲイシャの国」だったのかもしれないけど、富士山はともかく、もう「ゲイシャ」を売りにする時代でもないでしょう。
「戦争を放棄した憲法を持つ国です」というのが一番わかりやすいんですよ。
そんな国、日本のほかにはもう一国しかないわけだから。 
特に前文は、日本という国はこういう国ですということを端的に広告する、見事なコピーになっている。
よく「憲法が時代に合わなくなったから変えるべきだ」という人がいるけれど、僕は憲法9条の考え方というのは時代に関係ない、時代を超越していると思っているんですよ。
それを時代に合わないというのは、非常な言語矛盾だと思う。
たしかに、戦後に憲法ができたばかりのときは時代のほうが追いついてなかったから、物語だ、理想論だと誰もが思いましたよ。
だけどその後は、むしろ世の中が憲法にどんどん追いついてきているという実感を僕は持っているんです。


僕にとっては、9条はある意味で自分の、日本人としてのアイデンティティみたいなもの。
これが失われてしまったら、どこで日本人としての心の居場所を見つければいいんだろうと思う
9条を変えようとする動きに反対するのは、だからなんです。



まだまだ末永く茶目っ気たっぷりの老人力を発揮していてほしかった!


心からご冥福をお祈りいたします。





さて今回は吉村昭氏著『熊撃ち』をご紹介したいと思います。


「『顔の横に、羆の頭がのしかかっている。
今にも自分の頭蓋骨が羆の逞しく鋭い歯でかみくだかれるような恐怖におそわれた』-。
人をもあざむく知恵を持ち、飢えた時は人を襲って食らう獰猛で巨大な羆。
北海道の厳しい大自然を背景に、猟師と羆の息づまる対決を実際に起きた事件に題材を取って描いた迫真の七篇」



先日、秋田の阿仁マタギ資料館でマタギの世界を垣間見て以来、また私の中でマタギブームが再来しています。


というわけで、まだアップしていなかった吉村氏の「動物小説」のうちの一冊をアップしたいと思います。



本書は、地元では名の知れたマタギから聞いた話を7つの短編作品としてまとめた作品、羆を題材とした『羆嵐』に先行する作品です。


7篇は様々なタイプのマタギを主人公に据え、苛酷な自然界に棲む羆との様々な戦い描かれています。


長編『羆嵐』と比べると一篇一篇がより筆致を抑えた華やかさとは無縁の地味な描き方、時としてぶっきらぼうともとれる文章ですが、読了後は個々のマタギを通してマタギというものの全体像が鮮明に浮かび上がってきて、生業を超えたマタギという仕事に対する畏敬の念が沸きあがってきます。


どちらも実際に起こった事件を題材にしている作品ですが、『羆嵐』が羆に比重を置いた作品とすると、『熊撃ち』はマタギという職業を選んだ男たちの生き様に比重が置かれた作品であるといえるでしょう。


7篇7様の主人公の生き様は多様ですが、共通して持っているのは神聖な自然に対する畏敬の心。


俗世間との間に堅牢な遮断幕を張っているような人生を送っている男たちがマタギとしての特徴といえるかもしれません。


ときおり見せる人間を殺した熊に対する激しい憤りや怒り、そして殺された人間に対する悲しみの表情が抑えた筆致の中で淡々と描かれていて胸に迫ります。


一方人間と対峙せざるを得ない羆や熊の状況にも同情を禁じえないところ、自然の厳しさがいたるところに描かれています。


用心深く驚くべき頭の良さを発揮する羆の生態も興味深い読みどころです。



こういった対峙する両方の側から見ればまったく異なった展開を見せる世界が何気ない山の景色の描写の奥に描かれていてそれもおもしろい。



あとがきでインタビューした猟師たちについて、著者は次のように書いていらっしゃいます。

「必要以上に自らを律することに厳しく、自慢話などはしない。
それがいかにも猟師らしく、その人たちと会った後の気分は爽快だった」


文壇の華やかさとは一線を画した生活で黙々と原稿用紙を埋めておられた吉村氏とマタギの生き様がオーバーラップして切なくなりました。

b1ab1760.jpg
片づけ術なるものが世に出て相当になりますが、一向に衰えることがない感じ。

元祖といっていいかどうかわかりませんが、収納のスペシャリストとして近藤典子さんが雑誌などに登場しだしてゆうに10年以上になると記憶しています。


仏教用語である断舎利を変換した「断捨離」を片づけ術に入れられてブレイクしたやましたひでこさん


『人生がときめく片づけの魔法』がベストセラーになったこんまりさんこと近藤麻理恵さん


一般のお宅を訪問して片づけ指南を展開されている収納王子コジマジックこと小島弘章さん


様々な人が様々な角度から収納や片づけのノウハウに迫っていて見とれてしまいます。



私自身は引越し回数が多かったのと、何でも捨てない主義で家がごみ屋敷と化していた母を反面教師として、不要なものを処分するのを厭わない性格、周囲の友人知人と比べるとかなりすっきり暮らしていると自負しています。


1年前に行った人生最後(と思っている)引越しでは、今まで以上に処分に処分を重ねました。


服は衣替えが必要ないように夫と私のそれぞれの整理ダンスとクローゼットに納まるだけ。


特に大胆に処分したのは長年好きで集めていたかご類や部屋に飾る各種装飾品など。


というわけで片づけに関してはひそかに胸を張っていたのですが・・・


先日あるSNSでお知り合いになった方が日記で紹介されていた究極の片づけ人のブログを見てびっくり。

仙台在住のグラフィックデザイナー・ゆるりまいさん「なんにもないぶろぐ」

タイトルどおりほんとうにな~んにもないんです。

住み替えを機会に何にも置かないスタンスにしたそうですが、ご主人と彼女のお母さん、おばあさん、そして猫3匹が共に暮らしているといいます。

でもまったく人の気配を感じさせない家。

マンションなどのモデルハウスよりもっと生活感のない家。

ほっかほかの湯気が上がるお鍋を囲んでワイワイガヤガヤなんて想像だにできないほどスタイリッシュ。


数少ない家具や食器、雑貨などすべてが彼女好みのモノトーン調のステキな品で統一されています。


彼女のこの見事な断捨離ぶりには驚きを通り越して唖然という感じ。


これから子どもを持とうという世代らしいですけど、何に向けてここまで徹底した断捨離をするのか。


私の世代だと遺された家族が不要なゴミの処分に悩まないように、という目的意識に動かされて・・・という大義名分がなりたちますけど。


ほとんど家具もない、食卓テーブルの上もキッチンも雑ものはすべて扉の中に収納されていてつるんとした場所。


お客としてちょっとお邪魔してくつろいでおしゃべりしたい・・・とは思えない、というかよそ者がリラックスしてはいけないような場所。


なんだか気が抜けないというか。


生活とか趣味の範疇からはみ出るようなものは処分箱行きとなると・・・そのうち家主の範疇に入らない人間も処分されそうな・・・もちろんそんなことはないんでしょうけど。



このようなシンプルな空間には憧れますが、やはりものには限度というものがあるのではないか、とそんな気がしました。


もっともそんな感想を抱いたのはへそ曲がりな私だけで、多くの人々から熱い羨望で迎えられているそうです。


そんなゆるりまいさんの極度の断舎離に至ったことの顛末をご自身によるコミック化で再現された本『わたしのウチには、なんにもない。』がエンターブレインから刊行されているそうです。

ご本人のブログを訪問すればamazonに導かれます。





さて今回は横山秀夫氏著『動機』のレビューです。

「署内で一括保管される三十冊の警察手帳が紛失した。
犯人は内部か、外部か……。
男たちの矜持がぶつかりあうミステリ短篇四篇を収録」


週刊文春 2000年 国内第3位
このミス 2001年 国内第2位
第53回日本推理作家協会賞短編賞受賞


著者の作品は刊行されて早速2013年本屋大賞2位になった『64』以外すべて読んでいますが、短篇長編どの作品もある意味読者を裏切らない内容の作品ばかり。

このブログでも9冊の作品のレビューを記しています。

過去のレビュー群はこちら

中でもいちばんのお気に入りは御巣鷹山に墜落し520人という史上最大の犠牲者を出した日航ジャンボ機墜落事故を扱った『クライマーズ・ハイ』です。


さて本書に戻ります。

本書には4篇の短篇が収録されていますが、それぞれの主役は警察官、元犯罪者、女性新聞記者、地裁判事とバラエティに富んでいます。


◆警察手帳の紛失事故防止のために警察手帳の一括保管導入制度の口火を切ったJ県警本部警務課企画調査官・貝瀬警視に降りかかった事件-保管したはずの30冊の警察手帳が盗まれるという事件を通して矢面に立たされ、独自に追う過程を描いた「動機」

貝瀬の責任問題に留まらず、J県警の不祥事にまで発展していく事態を前に警察各部署の保身ぶりと共に、警察を退職と同時に精神を病んだ父親の様子をサイドストーリーに据え、警察官としての自分を見つめ直す様子が描かれていて秀作です。


◆ふとしたきっかけで13年前に女子高生を殺害し、服役後社会に戻った山本にかかった殺人依頼の一本の電話によって封印していた過去の殺人の記憶の闇を再び呼び戻すことになった男の悲哀を描いた「逆転の夏」

4篇の中では一番長く、著者の趣向を凝らした構成力が感じられた作品でした。

被害者、加害者、そして両方の関係者の人々の哀しさが胸に沁みます。


◆地方新聞の警察回りの女性記者・水島を主人公に、女性であるがゆえの悔しさとか理不尽な怒りを描いた「ネタ元」


◆法廷で不覚にも居眠りをして愛妻の名前を連呼してしまった裁判官の悲哀を描いた「密室の人」

司法の世界で最も高い位に位置する裁判官の威厳に満ちた厳粛さに見せられ、公私の区別なく厳粛一筋の人生を歩む主人公が初めて味わった危機が思わぬ方向へと向かっていく様子が描かれていて読ませます。



4作品とも読者の目を意識して緻密に計算された複線があり、それぞれ主軸になる筋書きとともに人間に光を当てた人間ドラマを描きあげています。

よかったらどうぞ。

7835ab2c.jpg

東北旅行の続き・・・1ヶ月先には零れ落ちるが如くの記憶を堰きとめるために少しだけ記録しておきたいと思います。


快適だった一日目に反して二日目、三日目は終日降ったり止んだりの空模様、特に二日目の八幡平では頂上に向かう中腹から濃いガスが出現して、前の車のテールランプがやっと見えるくらいの危ない走行、周りの景色を見る余裕なんてとんでもないという状態でした^^;

やっと麓に下りたときは命拾いしたような気分。a43f08b1.jpg



8名が2台の車に分乗してのドライブ、複数の命を預かったドライバーの方、ほんとうにお疲れ様でした。



数年前北海道・十勝平野を横断中、今回よりもっと濃いガスに遭遇、前の車のランプもまったく見えない五里霧中の中、娘の運転で走ったことがあります。

あのときの恐怖に比べたら少しましかな、という程度でしたが恐かった!



三日目、旅の最終日もあいにくの小雨、角館では武家屋敷資料館や現存する武家屋敷のひとつ・石黒家の暮らしぶりを見学、お昼は楽しみにしていた稲庭うどんを食べました。

b4dd16c2.jpg
    e01d407e.jpg


f146e303.jpg
    c2c869ec.jpg



そしてこの旅行の私の秘かな目玉・阿仁マタギ資料館に行くことができました!

2a18564a.jpg
    678db970.jpg


志茂田景樹氏の『黄色い牙』や熊谷達也氏の『邂逅の森』『相克の森』の舞台となった秋田の険しい深山に位置する阿仁町。
  


米代川の支流、阿仁川の源流を目指して遡ったところに分岐する打当川の行き止まりの小さな小さな集落、マタギの里。

明治から大正、昭和にかけて日本の山深い僻地で狩猟を生活の糧としていたマタギたちの実態は上記の直木賞2作品のみならず、吉村昭氏の『羆嵐』や『熊撃ち』でも詳しく描かれています。

619503e4.jpg
    73f336fd.jpg


bc6446f0.jpg
    8dd88080.jpg


0a680206.jpg
    973eadca.jpg


吉村作品でのマタギは北海道に棲む巨大な羆と対峙しますが、上記2作品のマタギはツキノワグマやアオシシ(ニホンカモシカ)を狩りの対象としています。 

534c7ea9.jpg
     59fadc70.jpg



阿仁マタギ資料館ではマタギの歴史や熊の仕留め方などの資料、仕留めに用いた鉄砲などとともに、志茂田景樹氏の『黄色い牙』の原稿や直木賞受賞記念品などの興味深い展示の数々がありました。

25b73cb3.jpg



まさか行けるとは思わなかった阿仁の里、忘れえぬ旅となりました。





さて本日は佐野洋子氏著『神も仏もありませぬ』をご紹介したいと思います。


「呆けてしまった母の姿に、分からないからこその呆然とした実存そのものの不安と恐怖を感じ、癌になった愛猫フネの、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるみ、その静寂さの前に恥じる。生きるって何だろう。
北軽井沢の春に、腹の底から踊り狂うように嬉しくなり、土に暮らす友と語りあう。
いつ死んでもいい、でも今日でなくていい」


著者の文章のなんと直截的かつ歯切れのよさ!


特段変化に富んだ内容のエッセイではないのに、笑えたり、じんわりした切なさがあったり。


あるときは認知症の母堂を通して、あるときは飼い猫を通して、近い将来来る自らの老いと死に向き合ったり。


決して上品とは言い難い著者の言動の数々が人間の真実を突いていて胸がすく思い。


このような文章に出合うと、きらびやかに、またはクールを装って、または教養深さを装って、または上品を装って飾った文章がなんぼのモンと思えてきます。



「六十三年の私の人生をちらっとふり返ると、あっという間だった様だし、もううんざりかんべんして下さい 長すぎましたよと思うのと一緒くたで、短かったのか長かったのかわからない。
今日まで十分だったと思え、今日死んでも丁度いいと毎日思う」

私もちょうどそんな感じ。

いつの間にか年を重ねて、今の自分をどこか高みから眺めてみると、現在の立ち居地が理解できずきょとんとしている感じといったらいいでしょうか。



人や動物の生死に関する記述がそこここにあり、まして書いた本人がすでに旅立っているとなれば、読み人である私の感慨も一入です。


「私は毎日フネを見て、見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。
ほとんど一日中人間の死に方を考えた。
考えるたびに粛然とした。
私はこのような畜生に劣る。
この小さな生き物の、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるんだ。
その静寂さの前に恥じた。
私がフネだったら、わめいてうめいて、その苦痛をのろうに違いなかった」


著者の最期の病床に寄り添ったわけではありませんが、様々な媒体を通して知ったところによると、フネに恥じない死に方だったと想像します。


「世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。
老年とは神が与え給う平安なのだ。
あらゆる意味で現役でないなあと思うのは、淋しいだけではない。
ふくふくと嬉しい事でもあるのだ」


きれいごとだけでない人間が抱えている闇をしっかりした観察眼で眺め、湿り気のない文章で著せる才能には感服します。


幼なじみの訃報に接した自分の姿の観察眼もするどい。


「一カ月前床をたたいて泣いたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。
生きているってことは残酷だなぁ、と思いながら笑い続けている。
日常に還ることが生きていくこと、そして強さ、と取れないこともない。かし、私には笑顔の底に、大事なものをひとつまたひとつと剥ぎ取られていく悲しみが見えてならない」


悲しいのにお腹がすく、悲嘆に暮れながら面白いことに反応して笑う・・・誰が責められよう、人間の真実の姿です。



本書の冒頭は88歳になる痴呆の母親との禅問答のような会話で始まります。

年齢を聞かれて4歳と答える母親を前に著者の思索が深く人間を探求します。

「今思うと、十代の私は自分の事以外考えていなかったのだ。
共に生きている同時代の人達以外に、理解や想像力を本気で働かそうとしていなかった。
しかし自分が四十になり五十になると、自分の若さの単純さやおろかさ、浅はかさを非常に恥じる様になり、その年になって小母さん達の喜びや苦しみや哀しさに共感し、そして、人生四十からかも知れないと年を取るのは喜びでさえあった。
そして四十だろうが五十だろうが、人は決して惑わないなどという事はないという事に気がつくと、私は仰天するのだった。
なんだ九歳と同じじゃないか。
いったいいくつになったら大人になるのだろう・・・
そして、六十三歳になった。
半端な老人である。
呆けた八十八歳はまぎれもなく立派な老人である。
立派な老人になったとき、もう年齢など超越して、『四歳ぐらいかしら』とのたまうの
だ・・・
呆けたら本人は楽だなどと云う人が居るが、嘘だ。
呆然としている四歳の八十八歳はよるべない孤児と同じなのだ。
年がわからなくても、子がわからなくても、季節がわからなくても、わからないからこそ呆然として実存そのものの不安におびえつづけているのだ。
不安と恐怖だけが私に正確に伝わる。
この不安と恐怖をなだめるのは二十四時間、母親が赤ん坊を抱き続けるように、誰かが抱きつづけるほか手立てがないだろうと思う。
自分の赤ん坊は二十四時間抱き続けられるが、八十八の母を二十四時間抱き続けることは私にはできない。
そしてやがて私も、そうなるだろう。
六十三でペテンにかかったなどと驚くのは甘っちょろいものだ」


いやはや人間への観察力の鋭さに頭が下がります。

台風のラッシュアワーという言葉がぴったりのこの頃。

各地で被害に遭われた方々、心よりお見舞い申し上げます。


先日24号が沖縄から北海道を通過するというとき、以前から計画していた東北旅行とぶつかりました。

危うい時間差ながらハラハラしていた飛行機も飛び、無事に青森に到着。


第一日目:
岡山―― 羽田 ―― 青森・・レンタカー・・八甲田山 ~~奥入瀬 ~~十和田湖

第二日目
ホテル~~ 発荷峠 ~~八幡平頂上 ~~松雄八幡平 ~~小岩井農場 ~~田沢湖

第三日目
ホテル・・田沢湖畔散策~~角館~~阿仁マタギ資料館~~大館能代――羽田――岡山


上記の旅程で一日目は台風一過の青空の下、快適なドライブでした。


八甲田山頂へのロープウェイから運よく始まったばかりの紅葉を見ることができて、あちこちから歓声が上がっていました~。

f4a34a6f.jpg
    240f3978.jpg


a154f508.jpg
      8a4e39c4.jpg


台風が通過したばかりの奥入瀬渓谷は水嵩が増し、岩にぶつかる水しぶきも荒々しく、あちこちの滝も数年前旅行したときより太く力強く落ちていました。

e3dbe4bd.jpg
     806f4221.jpg


faed768e.jpg
     ccfb83f4.jpg
  

970c7d0d.jpg
     70c787fc.jpg


f251438b.jpg
     a56f086b.jpg


15b17cff.jpg
     697529a5.jpg



夕暮れの十和田湖畔では高村光太郎氏の乙女の像を眺め、やはり数年前に利用した湖畔のホテルにインしたときには日がとっぷり暮れて十和田湖を目前に一望できるというダイニングルームも露天風呂も漆黒の闇に閉ざされていて残念でしたが、まずは無事に旅行の第一夜を迎えられたことに感謝してメンバー8名で乾杯しました。

f5e2de44.jpg
      da30af71.jpg


8c195000.jpg
      1a924839.jpg


76e13db1.jpg


以前の青森旅行の様子はこちら

続きは次のブログで記したいと思います。

読んでくださりありがとうございました。




さて今回はジェフリー・アーチャー氏著『時のみぞ知る』のご紹介です。


クリフトン年代記第1部と銘打った本書、第2部にあたる『The Sins of the Father (2012)』は『死も我等なり』として邦訳済み、第3部にあたる『Best Kept Secret (2013)』は英国では出版済みだそうです。



「『ケインとアベル』を越えた全英1位のベストセラー
全世界売上げ4億冊作家の最高傑作!
壮大なるサーガ」

ここまで煽った出版社のキャッチコピーを見ると読まずにはいられない…そんな感じで購入した(だろう)夫の読了後、拝借して読みました。

ジェフリー・アーチャー、73歳の作です。

「1920年代、イギリスの港町ブリストルに住む貧しい少年ハリーは、サッカー選手か世界を旅する船乗りを夢見ていた。
しかし、意外な才能に恵まれ、進学校へすすんだ彼は、富裕層の御曹司たちから再三いじめを受ける。
やがて名家出身のジャイルズという親友を得るが……。
『ケインとアベル』より30余年、貴族と庶民の生きざまを描く著者畢生の最高傑作。
壮大なるサーガ、ついに開幕!

波乱の学校生活のなか、ハリーは次々に予想外の真実と向き合うことになる。
英雄として戦死したと教わった父の本当の姿。
母メイジーの暗い過去。師と崇める謎の男ジャック・ターが背負う傷。
伯父スタンの許し難い行い……。
少年が大人への扉を開けてゆくなか、ついに直面することになる最大の衝撃とは?
全英1位ベストセラー、日本上陸!」


時代は1919年~1940年、英国の港町・ブリストルに生まれた貧しくも聡明な少年・ハリーが才能を見出されて上級の学校に進学し周囲の善意と悪意に翻弄されながらも成長していくという物語。

ハリーの出生の秘密を軸に進む物語はあるときは人間の心の陰陽の部分にそれぞれ光を当てながら進んでいきます。

ハリーを取り巻く公にできない過去を背負った登場人物たちがそれぞれの視点で物語を先導するという形式。

英国独特の身分制度へのこだわりやそれに伴う学校制度、労働階級の実態などが登場人物の動きとともに描かれていて読み応えのある大作となっていますが、第1部に関する限り、他の読者の方々のレビューに書かれているほどの迫力は感じなかったのは残念でした。

名うてのストーリー・テラーであるアーチャーの物語へのこだわりが裏目に出ているという感じ、人物設定や物語構成の随所に違和感を感じました。

たとえば人物設定において善人と悪人の造形があまりに単純すぎること。

善人の代表格として魅力的に描かれているハリーの師として登場する退役軍人の行動設定が雑であるゆえ私の頭の中で辻褄を合わせることができにくかったことが1つ。

方や偽善者の代表として登場するハリーの実の父親の行動に説得力がなく、善意の苦労人である母の行動にも違和感がありました。

また物語の終盤でハリーが別の人物に入れ替わるという設定がなんとも荒唐無稽。

アーチャーの作品は『ケインとアベル』を初め、いくつか読んでいますが、本書はかなり荒々しい筆さばきが目立った感があって残念でした。

でもそのような感想を抱いた私は例外で、感動された方々が多かったようです。


「時がつなぐ、人と人との運命。壮大な因果……。
小説とは、こんなにも面白いものだったのかと、
あらためて思い出させてくれる作品だ」
――作家・幸田真音

「この本を手に取ったら確実に寝不足になる」
――衆議院議員・河野太郎

「いくつもの人生が絡み合う大河のうねりは激しく、先の読めない展開に振り回されて楽しんだ。そして下巻のラスト1行が危険だ。今すぐに第2部を読みたくなる」
――文芸評論家・古山裕樹

「二家族の数奇な歴史を鮮やかにつむぎ出す物語のロンド。アーチャーのサーガが帰ってきた!」
――コラムニスト・香山二三郎

「簡潔な語り口、場面展開のはやさで読者の興味を引きつけるテクニックはさすがというしかなく、ページをめくりながら何度もこれぞアーチャーの真骨頂、と思った」
――ライター・瀧井朝世

「畢生の大作として、天才ストーリーテラーの新たな代表作となるのは、間違いないところだろう」
――ミステリ・コラムニスト・三橋 曉

一時マスコミを賑わしていたチャゲアスの飛鳥涼さんの覚醒剤疑惑、急にしぼんでしまいましたね。 f6c7922a.jpg


いろんな思惑がからんで真実が埋もれてしまったようですが、覚醒剤や麻薬などで検挙される人があとを断ちません。


世の中には様々な病気がありますが、病人に寄り添う家族として避けたいNo1が冒頭に挙げた法律に違反する薬を含め、睡眠薬や向精神薬、そしてアルコールなどの依存症を患っている患者さんではないでしょうか。



作家の佐藤愛子氏の最初の結婚の破綻の原因が夫のモルヒネ中毒にあったことは広く知られていますが、睡眠薬に溺れたがため正常な生を全うできなかった作家は太宰治氏を初め坂口安吾氏、川端康成氏など枚挙に暇がありません。


そんなアディクト人生に真っ向から立ち向かって自らの壮絶な体験を小説に仕立てた作家。


『裸のランチ』を上梓したアメリカの作家・ウィリアム・バロウズはヘロインなどの麻薬を常飲しながら作家活動を続けたことで有名です。



今日はそのバロウズを崇拝して自らの壮絶なアルコール依存による入院体験を元に綴った作家の作品をご紹介したいと思います。



中島らも氏著『今夜、すべてのバーで』


「禁断症状と人間を描いた中島らもの傑作小説。
アル中患者として入院した小島容。
途切れ途切れに見える幻覚、妙に覚めた日常、個性的な人々が混然一体となって彼の前を往き来する。
面白くてほろ苦い傑作長編。
第13回(1992年) 吉川英治文学新人賞受賞作」


アル中で緊急入院をしたフリーライターの「おれ」の視点で同室の患者たちとの日々やγGTPが1300というとてつもない数値にるまでの「おれ」の過去や現在の病状、そしてアル中という疾患を多角的に分析しながら物語が進行していきます。



「髪の毛一筋の盛り違いで死に至るのを承知のうえで、人は薬物に手を伸ばす。
人間はポジティブな知能活動、生産活動を営む一方で、かくも自失、退嬰を求めるアクションを起こす。一体なぜなのか」

人間の根幹に迫るこの問いに著者は作品を通して語ります。

「諸説紛々であるが、こんなものは僕にとってはすべてクソでしかない。
本物のジャンキーは声高なことは言わない。
つまり『ごたく』は薬をもたらしてくれないのである。
ジャンキーが求めているのは、薬だけだ。
いっそすがすがしい退行なのかもしれない。
『食い物』のかわりにドラッグがある。
言葉はいらない。
獣道に沿って進むだけだ」


そしてバロウズに傾倒する理由を次のように語ります。

「麻薬とは『自失』であって、そこから表現が生まれるのは希有のことだ。
その意味でバロウズは超人的だ」

「おれは自分が中毒者であるだけに、プレスリーに同情はしない。
もちろん、自分に対しても同情やあわれみを持たない・・・
同じジャンキーでも、湿けた甘えを自分から叩き出した人間には、さらさらした砂のような、あるいは白く輝く骨のような美しさがある。
地上の肉を脱ぎ捨てた美しさ。
たとえばウィリアム・バロウズがそうだ。
バロウズは四十代までの十五年間、麻薬に浸りきった生活を送っていた。
その期間に書いた名作『裸のランチ』などは、書いたことさえ覚えていないと告白している。
彼は、ジャンキー時代に自分の妻を誤って射殺している。
夫妻でラリっていて、ドラッグがもたらす万能感の中で『ウィリアム・テルごっこ』をやったのだ。
妻の頭の上にリンゴをのせ、それをバロウズはライフルで射った。弾丸は妻の胸に命中した。
バロウズは、アメリカでも屈指の名家の出身だが、そうしてドラッグに関わる中で、失うべきものは全て失った人間だといっていい。
それでも彼はプレスリーのような泣き言は一度として述べていない。
どうして麻薬を常用するのか、という問いに対してバロウズは『それは、麻薬以外のことに強い動機を持たないようにするためだ』あるいは、『朝起きて、ひげを剃り、朝食を摂るためにそれが必要だから』
あるいは、『麻薬はひとつの生き方だからだ』と答えている」


「すべてのドラッグは『自失』への希求ではないかと僕は考えている。
ではなぜ人はかくも『自失』を望むのか。
それが気持ちがいいからだ」


そして社会においてアル中が生まれる起因について

「アル中の要因は、あり余る『時間』だ。
国の保障が行き届いてことがかえって皮肉な結果をもたらしていることになる。
日本でもコンピュータの導入などによって労働時間は大きく短縮されてくる。
平均寿命の延びと停年の落差も膨大な『空白の時間』を生む。
『教養』のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。
『教養』とは学歴のことではなく、『一人で時間をつぶせる技術』のことである」


「おれがアル中の資料をむさぼるように読んだのは結局のところ、『まだ飲める』ことを確認するためだった。
肝硬変が悪化して静脈瘤や胃かいようが破れ、大量吐血しつつもまだ飲んでいるような人間を、本の中に探し求める・・・
これらの人々を眺める安心感と、こういう『ひとでなしのアル中』どもが、河ひとつ隔てた向こう側にいて、おれはまだこっち側にいるその楽観とを得るために、おれは次から次へとアルコール中毒に関する資料を集めた。
ついには『アル中の本』を肴にしてウィスキーをあおる、というのがおれの日課にさえなった」


主人公・小島容が病院に収容されるところから始まるこの物語はアル中や薬物中毒に関する膨大な文献を駆使して様々に表れる症状や検査数値などが物語の随所に挟まれています。

読了すれば依存症の専門家になれそうな一冊。


本書の醍醐味はそういった表面的なことだけではない、人間というものは何かに依存しなければ生きていけない生き物であるという永遠の真実のようなものを問題提起していることではないでしょうか。


「何かに依存していない人間がいるとしたら死者だ。
死者すら何かに依存しているのかもしれない」


物語は、無事に退院を果たした主人公が病院近くのバーで1杯のミルクで祝杯を挙げるところで終わりますが、現実の主人公らも氏はその後も飲み続け、最後は酒場の階段から転落して脳挫傷を負い、惜しむらく愛すべきユニークな生を閉じてしまいます。



もしよろしかったら過去のブログにアップした作品を読んでください。

『らも咄』『心が雨漏りする日には』『アマニタ・バンセリナ』『中島らものたまらん人々』
『何がおかしい』

↑このページのトップヘ