VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2014年08月

昨日は強行軍の一日。

新大阪に着いて地下鉄に乗り換え、難波でお目当ての「なんばグランド花月」へ。

「なんば吉本テレビ通り」の猥雑な活気に満ちた雰囲気は相変わらずで懐かしく、久しぶりに笑いをもらえると思うと気持ちが浮き立ちます。

早めのお昼を近くの「がんこ寿司」本店で済ませ、いざ劇場へ。

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[漫才・落語]中田カウス・ボタン/月亭八方/宮川大助・花子/Wヤング/海原やすよ ともこ/中川家/テンダラー
[新喜劇]すっちー/池乃めだか/Mr.オクレ/浅香あき恵/他

私の密かなお目当ては人気急上昇中のテンダラー、漫才のトップに演じ笑いを誘います。

そしてトリの大御所中田カウス・ボタンまで次々上記の方々が舞台に上がり爆笑ネタで盛り上がりました!

中でも宮川大助・花子の夫婦おもしろネタは健在でピカイチ喝采を受けていらっしゃいました~。

ああおもろかった!!というのがシンプルな感想!


次は「大阪市立美術館」の「こども展」。f7a84dbe.jpg



パリ・オランジュリー美術館で開催された展覧会“Les enfants modèles”(「モデルとなった子どもたち」と「模範的な子どもたち」のダブルネーミング)を日本向けに再構成したもの。

モネ、ルノワール、ルソー、マティス、ピカソを始めとする18~20世紀の主にフランスで活躍した画家たち47人による86点の作品が出展されていました。

漫才から美術鑑賞という全く雰囲気の対照的な会場へ流れて・・・。

広大な天王寺公園内にあるこの美術館は正直言って利用者にとってあまり親切とはいえない所といった印象を受けました。

建物自体が古いせいか、会場が狭く、最近の美術館には多く見られるソファもなく、ただ早く鑑賞して早く出てくれという感じ(――;)

肝心の「こどもたち」は天使のようにかわいいのもあれば、ルソーを代表するこどもの雰囲気から逸脱したようなのもあり、というもの。



ルノワールは自身の子どものみならず、交流の深かった印象派の女流画家ベルト・モリゾの娘、ジュリー・マネの8歳の猫を抱く姿を描いています。



ルソーの作品は、彼が生涯に描いたと確認されている4枚の子どもの絵のうちの1点となる、たいへん貴重なものです。

大好きなセザンヌの描いた子どもの絵。

というわけで、一通り入場料金分だけは観て、次は「あべのハルカス」

どこまでミーハーな一行といわれそうですが、今年3月に全面開業した日本一高いビルを見ることなしに帰れないということで、美術館から徒歩2分の「あべのハルカス」に。

〈ハルカス〉の高き階より見はるかす幾内の街並は驟雨にけぶりて


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地上60階建て、高さ300mで日本で最も高い超高層ビルであると同時に、日本初のスーパートール(300m以上、世界基準超高層ビル)だそうです。

何でも日本一には弱い^_^;

日本国内の構造物としては東京スカイツリー(634m)、東京タワー(332.6m)に次ぐ3番目だそうですけど・・・ね。
なおビル名称の「ハルカス」は平安時代に書かれた『伊勢物語』の第九十五段「いかで物ごしに対面して、おぼつかなく思ひつめたること、すこしはるかさん」という一節から採られたそうな。

「ハルカス」→「晴るかす」には「人の心を晴れ晴れとさせる」という意味があるそうです。

気候条件さえよければ北方に京都から六甲山系、西方に明石海峡大橋から淡路島、東方に生駒山系、南方に金剛山系や関西国際空港などを一望できるという展望台に上がりましたが、あいにくの悪天候で残念でした。
メンバー8人の中には晴れ女がいたはずなのに。

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自宅に辿り着いたら夜の10時、シャワーを浴び即効で休みました。






さて本日は佐々木譲氏著『地層捜査』のご紹介です。

SNSで親しくさせていただいているUNIさんご紹介の作品。

佐々木譲氏のファンである私は作品のほとんどを網羅しているつもりでしたが、これは未読、本書に続くシリーズの『代官山コールドケース』も未読なので楽しみです。

「警察小説の巨匠の放つ新シリーズ、開幕!
時効撤廃を受けて設立された『特命捜査対策室』。
たった一人の捜査員・水戸部は退職刑事を相棒に未解決事件の深層へ切り込んでゆく」

公訴時効の廃止を受けて再捜査となった15年前の老女殺人事件の真相を追って、年若い水戸部刑事が元刑事・加納相談員の助けを借りて過去の荒木町に踏み入っていく過程が綿密に描かれています。


最近は各種警察小説がたくさん刊行されていますが、率直に言って久しぶりに地に足の着いた誠実な警察モノを読んだという感想です。


著者の佐々木譲氏はこのシリーズを執筆された動機について次のように語っていらっしゃいます。

「このところ、警察小説、刑事モノ小説や映画が格段に多くなりました。
それだけに、今回は多くの警察小説で描かれているような設定の逆を行ってやろう、型をどんどん壊していこう、と思っていました。
『バディもの』については、たとえば若い刑事と年老いたベテラン刑事がいい師弟関係を築きながら事件解決に迫ることが多い。
もちろんよくできた作品であれば問題はないけれど、ときに鼻につく感じがします。
じゃあ、2人は組むけれど、最初から対立していて、互いに出し抜いてやろう、と思いながら事件解決に進んでいく、そんな新しい形を考えてみたんです」

「バディ」である2人の捜査員は著者が記されているようにかなりの距離感をもって事件の真相に迫るという絶妙且つ新鮮なアプローチを維持しています。

当時の荒木町を全く知らない水戸部刑事と荒木町を知り尽くしている加納相談員という親子ほどの年の差のあるコンビ。

加納は長い時間をかけて築いてきた人間関係の引き出しを駆使して手がかりを探し、水戸部はデータベースや最新の科学捜査などを取り入れながら捜査を進めていきます。

どちらの人間性も違いこそあれ魅力的で物語を牽引する原動力になっていますが、著者は直接的にそれを描くのではなく、何気ない会話にお互いの思考の違いを忍ばせて人間性を炙り出しています。

また本書の魅力は新旧の新宿・荒木町一帯の街の陰影を綿密な地層捜査を通して浮き彫りにしているところにもあるのではないでしょうか。

江戸時代には美濃国藩主・松平摂津の守の屋敷があり、明治時代にはその跡地や屋敷内にあった池の存在が景勝地として知られるようになり風情ある花街として一世を風靡したそうです。

どの街にもある生活の歴史の記録と貧富の差、それらを描いた充実の過去遡行譚。

本書の見開きに荒木町周辺の地図があり、2人の捜査員の足取りに合わせてその地図を辿りながら物語を読み進めるという作業も楽しく、機会があるなら1度、その狭いエリアを探索してみたいとさえ思えました。


どんな分野の小説においても徹底的に資料を読み、取材を重ねる著者ならではの秀作!

最後の最後になりましたが、水戸部刑事らが過去に溶け込むようにして街を歩き続け見つけ出した事件の真相は、といえば・・・。

人情を重視する加納と、あくまでも情を抑えて法律に従うことを重視する水戸部の対立の結果は読者の想像に委ねて物語の幕が閉じます。

警察モノの興味ある方もそうでない方もぜひどうぞ!

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我が家のベランダの様子です。

立秋を過ぎた頃から急に葉が勢いを増して蔓がどんどん伸び、ジャックの豆の木風になっています。

それなのにゴーヤに関しては肝心の実があまり成らない(――;)

定期的に肥料もあげているのに去年に比べ明らかに実の数が圧倒的に少ないんです。

昨年は次から次にと大きくなり、毎朝のサラダから始まってお昼にもスパゲティやお好み焼き、夜も必ず一品を賄っていましたが・・・最近はしびれを切らして・・・買っています。

夫も私もゴーヤの苦味が気にならないほどゴーヤ料理に慣れ親しんでいるので、以前は必ず薄く茹でて処理したり、塩で揉んで苦味を除いていましたが、最近はサラダにも茹でずに生のままスライスして入れるほど。

スーパーに行けば年中手に入るようになっていますが、やはり旬の味はちがうような・・・。


処暑が過ぎたとはいえまだまだ残暑は続きそうなので、ベランダのゴーヤに期待をかけています。




さて本日は角田光代氏著『月と雷』のご紹介です。

「不意の出会いはありうべき未来を変えてしまうのか。
ふつうの家庭、すこやかなる恋人、まっとうな母親像…
『かくあるべし』からはみ出した30代の選択は。
最新長篇小説」


私は著者のさまざまな作品に漂う言い知れぬ切なさが大好きで大いなる共感を持って読んでいる読者の1人です。

特に血の繋がらない母娘の、母側の「母性」をテーマにした『八日目の蝉』の切なさは今もなお思い出すたびに胸が締めつけられるほど。

著者ご自身は子どもを持たない女性なのにここまで女性の母性的内面に迫ることができるということに驚嘆します。


さて本書は不思議な物語です。

というか、私にとっての「家族」とか「家庭」の定義というものを大きく外れた生き方をしてきた人々の物語なんです。

自分の半生を振り返ってみると、伴侶を得、子どもたちを授かって曲がりなりにも「家族」というものをもつ過程で、「清潔な環境」と「バランスの取れた食事」というものが必要不可欠なものとして自分の核に居座っているのを発見します。

字面で見るとこの2つは大変な作業のようでそうじゃない、家族がいようがいまいが人として生きていく上で当たり前の日常だと思う原点からもこの作品の登場人物たちは逸脱した生き方しか出来ない人たちだという設定。


本書に出てくるのは、まずそういった大半の人々が営む生活を続けることができない母親である直子とその息子・智、そしてある事情で幼い頃一時同居していたところの娘・泰子の3人の物語。

母親である直子の生きかたを何かに例えれば、魅力的な捨て猫のよう。

放っておけない飼い主が必ず現れて直子と智を飼ってくれますが、それに恩義を感じるでもなく一切の家事をせず、ある日突然別の暮らしへと移行するという暮らし。

そんな根無し草の直子の影響下でしか生きられなかった幼い智と、拾われた先の泰子の、その後の人生を描いて興味深い作品ではありました。


私は世の中の「普通」にどっぷり使った人間として少し離れた角度で世の中を眺めたとき、何がノーマルで何がアブノーマルかふとわからなくなるときがあります。

結局多数決の世の中のなせる技なのかと思うときもあり、いやそうじゃない、少数であろうとモラルに則ることが生きる道しるべであると思ったり。

モラル、インモラルについても色分けは歴然としていながら、深く押し入ると混沌としたり。

取り留めのないことを書き連ねましたが、本書のテーマは「幸福な人生は遺伝・継承されるのか」「幸福な人生とはどんな人生なのか」ということになるかと思います。

こういうことを考えさせてくれる作品といえるかもしれません。

広島市山の手の住宅地が一瞬のうちに大変なことになりましたね。

繰り返しの映像で観る土石流の凄まじさに息をのみます。

広島市安佐南区と北区の一部。

安佐北区に友人がいるのでニュースで知るや否や慌てて電話しました。

繋がった!!

幸い山側より少し離れた場所に位置していたため被害に遭わなかったようですが、二階の窓から見える近場が惨状を呈している怖ろしさを話していました。

夜中の雷雨の凄まじい音に一睡もできなかったそうです。

友人は幸いなことに今回の天災を免れましたが、いつ何時襲ってくるかわからない自然の脅威を知らしめて余りある災害でした。


私は依然、彼女に家に滞在したことがあるので大体の地形が理解できましたが、現場は山裾から下へと続く広い土地に多くの一戸建てが立ち並び、りっぱなタウンとなっているところ。

一瞬のうちにその大切な家を流されたり、大切なご家族を亡くされたりした人々の心情を思うと言葉がありません。


あまりといえばあまりという悲惨な災害で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

また行方不明になられている方々が一刻も早く見つかりますように、そして無事でありますように。

凄まじき自然の猛威に人智なぞ無力と知らしめ夏は過ぎ行く

      幾人(いくたり)の死者を葬らば広島の夏は逝くのか処暑の過ぎしも



さて本日は杉山喜代子氏著『短歌と人生』を少し。

「定年退職後に短歌と出会い、その魅力に引き込まれていった著者。三十一音に描写された情景や作者の思いに心を寄せながら、人生の友として選び抜いた名歌とその歌にまつわる体験を書き綴った味わい深いエッセイ」


1944年静岡県に生まれ、静岡大学大学院教育学研究科修了後教職につき、高校、短大、大学の教員を歴任して2007年退職。現在は自然を愛で、詩歌の鑑賞を楽しむ日々を過ごされているという著者の経歴です。

退職後地元の短歌会に入られ、作歌をされるようになって数年、つまり短歌に関しては不肖私同様、失礼ながら経験の浅い方であろうと思われますが、その人生の来し方から短歌に向かわれる姿勢というか短歌を味わわれる姿勢の奥行きの深さがそれぞれの選歌への解説にうかがわれて共感を持って読むことができました。


短歌会に入り名歌を鑑賞されるようになった著者ですが、ご自身の作歌について次のように語っていらっしゃいます。

「歌人の歌にくらべ初心者の歌は何ともたどたどしい。
いい歌にふれると感動し、なるほどと納得して作歌の要点がわかったような気がするのだが、いざ作るとわかることとは大違いで同じ過ちを繰り返している」

これには深く共感します。

名歌に接したときの心の揺れや深い感動を別の表現で表したいと思うのにできないまどろっこしさといったら。


言葉を知らないのも一因とは思いますが、それとは別のところでつい作為的になったり感動の押し付けになったり、念押しになったり・・・多くの初心者が陥る穴に私も嵌ったり出たりを繰り返しています。


著者の選ばれた歌の中で、私の心に響いたいくつかを抜書きして終りたいと思います。

「少(わか)き日の疑問の奥に在りしもの解からねばいまだ老いに到らず」橋本喜典氏

「七十余年生ききて世には勝れたる人の多きをつくづく思ふ」橋本喜典氏

「曼珠沙華葉を纏ふなく朽ちはてぬ 咲くとはいのち曝しきること」斎藤史氏

「もの言はぬ木草と居ればこころ足り老い痴れし身を忘れし如き」窪田空穂氏

 
「植えざれば耕さざれば生まざれば見つくすのみの命もつなり」馬場あき子氏


これには「人にはそれぞれの命の在りようや生き方があり、人は皆自分の生を位置づけ落ち着けようとしていることを思う」という著者の言葉があります。

「生の終りに死のあるならず死のありて生はあるなり生きざらめやも」橋本喜典氏

「あな欲しと思ふすべてを置きて去るとき近づけり眠つてよいか」竹山広氏

「終りなき時に入らぬに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ」土屋文明氏

「在りし日も哀しと思ひ死してなほかなしかりけり母といふもの」岩田正氏

「成就せぬことのみ多しけぶる日の中に公孫樹の冬木光れる」尾崎左永子氏

「子守唄うたい終わりて立ちしとき一生(ひとよ)は半ば過ぎしと想いき」花山多佳子氏

「ほんとうのさびしさはこれから本気でやってくる二人の卓を夕日が占めて」永田和宏氏


著者はあとがきで次のように締めくくっていらっしゃいます。

「生老病死に視点を置いた名歌の鑑賞によって、『四苦』について再考し、人の生における四苦の意味についても考えることとなった・・・
人は四苦によってより高見へと止揚し己れを成長させようとする。
そこに人間の尊厳が見出されるのである・・・
四苦を和らげ軽減するには、そこから目をそらさずしっかり向きあうことが必要なように思う・・・
生老病死の歌が道具となって分かち合い手を差し伸べ合えたなら、喜びは広がり苦しみは和らいで新たな生へと開かれるだろう」

2ヶ月ほど前のこと。

普段かなり疎遠になっている次男から電話がありました。

次男の勤務先は年1度のボーナスがそれまでの1年の勤務状態を査定して6月に支給されるのは聞いていましたが、本人の予想以上に多額が支給されたらしく、昇進と合わせて報告がてら電話してきたのでした。


そのとき会話の途中で、一部お小遣いとしてあげるよ、と言われていたのですが、言葉はありがたく受け取ったものの期待もせず忘れていたところ、先日思わぬ多額を振り込んでくれてびっくり!!


幼・小・中・高とかなりやんちゃで周囲に謝ってばかりの次男だっただけに、周りに迷惑をかけず毎日勤めているだけで有難く、上司の方々に心の中でお礼を言っているくらいなのに・・・これまでも帰る度にお小遣いをくれていましたが、もらったものを使うことが出来ずにいるなか、今回は「ごちゃごちゃ言わず使って!!」と厳命されたので何に使おうか目下考え中です。


普通の社会人になってくれて感謝、感無量です。





今回は湊かなえ氏著『母性』をご紹介します。

「『これが書けたら、作家を辞めてもいい。そう思いながら書いた小説です』
著者入魂の、書き下ろし長編。
持つものと持たないもの。欲するものと欲さないもの。
二種類の女性、母と娘。
高台にある美しい家。暗闇の中で求めていた無償の愛、温もり。
ないけれどある、あるけれどない。
私は母の分身なのだから。
母の願いだったから。
心を込めて、私は愛能う限り、娘を大切に育ててきました──。
それをめぐる記録と記憶、そして探索の物語」


女子高校生の自殺未遂事件が発端にあり、母の手記と娘の回想、そして教師たちの会話という3つの視点から綴られた物語となっています。

主題はタイトル通り「母性」について。


自分も含め母親になった経験を持つ人の中に自分の内なる「母性」と日々対峙しながら子育てをするという人は少ないのではないでしょうか。

待ったなしの子育て期間は「母性」云々などの精神論より、ご飯を食べさせ身の回りの環境を整えるのに精一杯で、第三者の○○がほめてくれるから、などと冷めた目で子育て中の自分の姿を振り返るなどということは、少なくとも私に関する限りありませんでした。


本書の主人公のひとり、母親は無償の愛で育ててくれた自分の母親に全幅の信頼を置き、絶えずその視線を捉えて満足してもらえることに無常の喜びを見出すという人。

そんな彼女が結婚し、娘に恵まれますが、育児の段階でよき母になり自分の母親に褒めてもらうことを唯一の目的とすることで徐々に培われていった母娘間の歪みを炙り出しています。

どこから見ても完璧な母を「演じている」母と、それを見抜いている娘の、交互に語り継がれる言葉が、何とも粘着質で、正直途中で放棄しようかと思うほど私には合いませんでした。


著者の作品は概して、何気なく見過ごしていけば難なく過ぎる心の深遠を更に深く掘り下げてテーマを立てるという傾向があり、重苦しさにもう読まない、と思いながら、また懲りずに手に取るというところが魅力なんでしょうけど。


この作品もいろいろな場面に小さな仕掛けがあり、最後にそれらが繋がるという形態でしたが、率直に言えば、著者ご自身がこの「母性」というテーマに酔いすぎている、と思わせる、そんな作品でした。

お盆も終わりました。

マンション住まいなのでベランダで火災報知機を気にしながら小さな迎え火を焚いて、小さなお膳を用意して亡き人をお迎えする行事も終わりに近づいています。

仏教徒とはいえない上、無宗教の自分が率先してお盆行事をするなど昔は考えられませんでしたが、母が亡くなってから自然の成り行きとして行っているのがわれながらおかしい。

年を重ねたということでしょうか。

母に会いたいと思いながら。

ゆふまぐれ亡母(はは)のみ霊(たま)に届けかしベランダで焚く細き迎へ火




さて今回は終戦記念日に相応しい一冊です。

山田風太郎氏著『戦中派不戦日記』

「私の見た『昭和二十年』の記録である。
満二十三歳の医学生で、戦争にさえ参加しなかった。
『戦中派不戦日記』と題したのはそのためだ(「まえがき」より)
激動の一年の体験と心情を克明に記録した真実の日記」


2001年夏に79歳で亡くなられた「アル中ハイマー」を自称されていた作家さん。

軍人や文化人などによるさまざまな戦争体験記、戦中日記があり、庶民としては知る由もなかった内容が明らかになり、後世の歴史的な証言として注目を集めたものがある中、本書は当時徴兵検査で肋膜炎のために丙種合格とされ入隊を免れた23歳の1人の名もなき医学生が東京で体験した戦争というものについて細かく記録したものです。


私はいままで何度か時をおいて読んでいますが、そのときどきで受け取り方に深浅があり、今年は平和への危機感ゆえか深く読むことができました。


徴兵検査から免れた医学生とはいえ愛国心に溢れていた山田青年の高揚感がまっすぐ伝わってきて胸が熱くなる個所が多々。

ひとりの青年の国に対する心の遍歴の貴重な記録。

1945年1月から敗戦をはさんで12月までの1年間がのちに読まれるという意識なしの庶民の日記として描かれています。

「一月一日 運命の年明く。
日本の存亡この一年にかかる。
祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」

「十二月三十一日 運命の年暮るる。
日本は亡国として存在す。
われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。
いまだすべてを信ぜず」


冒頭と末尾はこのように締めくくられています。

山田青年の茫然自失の姿が切ない。


山田青年に限らず、情報統制して国民全体を戦争へと駆り立て純朴な心を利用して死ぬことをも厭わない姿勢を導き実際多くの命を捨てさせた軍部上層部に激しい怒りを感じます。


本書には山田青年の目を通して市井の人々の暮らしや戦争の状況などが仔細に語られていて、本書が「民衆の記録」であるとする所以であります。

本書に繰り返し出てくる「軍国主義を骨の髄まで叩きこまれた世代」はすなわち天皇制を主軸に神風特攻隊のような精神性で戦を勝ち取ることを疑わない人々の集団の中で、客観的かつ冷静に戦局や国内の状況を見つめている山田青年は例外中の例外といっていいかもしれません。

それまで全幅の信頼をおいてきたものがある日を境に全否定されることの恐怖。


戦争末期には心の底では大本営の発表など誰も信じてはいないのに口に出すことをはばかるのみならず逆に日本は負けるはずがないと口にする欺瞞についても指摘しています。

「日本国民全員が芝居をしているようだ」


そんな山田青年をしても天皇の御名にかけても最後の一平卒まで戦い抜くべきだとの記述を通して、当時の洗脳の恐ろしさを感じずにはいられませんでした。

『戦中派不戦日記』を再読し切なきまでに平和を願ふ

先日の夕方男の人の声で電話がありました。

「○○です」と名乗られたのを聞いた瞬間心臓が跳ねました。

伊豆に住む友人のご主人でした。

伊豆の地でひそと逝きにし友のあり葉月ついたち暁(あかとき)のこと

あまりにも突然だったので驚きで言葉を失いました。

というのも重篤な病気で臥せっていたということを知らなかったから。

聞けば2年ほど前、肺がんと診断されて運悪く手術できない場所の患部があったため抗がん剤のイレッサを飲んでいたそうです。

2年の間電話やメールで何度か交流はあったのですが、ある病気を診断されたけど夫との約束で今は言えないといわれ、深く詮索できずにいました。

その間小康状態だといい、旅行も度々楽しまれていたので安心していたのです。


これからどれくらいこんな別れを経験するのか・・・耐えうる自分にならなければと思うのですが・・・。

友は逝き夫は三度(みたび)の死線越ゆ。命終(みゃうじゅう)の刻は不条理にして





さて本日は東野圭吾氏著『マスカレードホテル』のご紹介です。

といってもすでに読まれた方も多いと思われる流行遅れのレビューサイト申し訳ありません^_^;


「都内で起きた不可解な連続殺人事件。容疑者もターゲットも不明。
残された暗号から判明したのは、次の犯行場所が一流ホテル・コルテシア東京ということのみ。
若き刑事・新田浩介は、ホテルマンに化けて潜入捜査に就くことを命じられる。
彼を教育するのは、女性フロントクラークの山岸尚美。
次から次へと怪しげな客たちが訪れる中、二人は真相に辿り着けるのか!?いま幕が開く傑作新シリーズ」

完璧に化けろ 決して見破られるな!
彼の仕事は、相手の仮面をはがすこと
彼女の仕事は、お客様の仮面を守ること

集英社さんのキャッチコピー、中々のものです。

多作の作家・東野氏の作品にはあまり手が出ませんが、本書は続く『マスカレード・イヴ』とともにかなりの評判なので手に取りました。


なんでも著者の作家生活25周年記念作品第3弾の作品だそうで、タイトルの「マスカレード」は英語で「仮面舞踏会」を意味するということで表紙にはアイマスクが描かれています。


物語の舞台となっている高級ホテル「ホテル・コルテシア東京」は実在の日本橋にある「ロイヤルパークホテル」がモデルだそうです。


以前、日本橋ではなく横浜の「ロイヤルパークホテル」に宿泊したことがありますが、世界一のサーヴィスを提供するといわれている「リッツ・カールトンホテル」に引けをとらないいいホテルだったと認識しています。


本書はその高級ホテルを舞台として起こると予想される殺人事件を未然に防ぐために警察がホテルの上層部の協力を得て数人の刑事をホテルマンに扮装させ犯人を割り出すというもの。


主人公はホテル側の女性フロントクラークの山岸尚美、警視庁側では捜査一課の刑事・新田浩介。

山岸が新田の教育係となり、フロント業務のあれこれを指導しながら物語が進んでいきます。

優秀なフロントクラークの山岸を通して、刑事としては優秀ながらホテルマンとしては橋にも棒にもかからなかった新田刑事が徐々に成長していく姿が見ものです。


「ホテルに来る人々はお客様という仮面を被っている、そのことを絶対に忘れてはならない・・・
ホテルマンはお客様の素顔を想像しつつもその仮面を尊重しなければなりません。
決してはがそうと思ってはなりません。
ある意味お客様は仮面舞踏会を楽しむためにホテルに来ておられるのですから」

結果的に犯人を未然に逮捕するという予定調和的な展開はさておいて、本書の見どころは、サーヴィス業の頂点にあるホテルの姿勢が山岸を通して様々に語られる点にあります。

お客の立場では決して見られないホテルの内幕が見られて興味深い作品でした。

機会があれば続編『マスカレード・イヴ』も読んでみたいと思います。

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