VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2015年03月

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先日お嫁ちゃんのユカちゃんから深刻な相談メールが来ました。

孫のアスカが腹痛をきっかけにここ10日ほどほとんど食事を食べなくなったというもの。

ジュースとか果物は少しは摂っているそうですが、夜ごはんはほとんど食べず、ユカちゃんが夕食の支度をし始めるとそわそわ落ち着かなくなるそうです。

親に100%守られて育っている1人っ子のうえ、生来繊細なので大人の心が以心伝心するのでしょう。

きっかけは定かではありませんが、もうすぐ新しい学年になるので先生やクラスの友達ともお別れだね~と言った途端に涙ぐんで元気をなくしたそうです。

心配性のユカちゃんが拒食症の心配をし、医師に看てもらったほうがいいでしょうかと相談するので、心配を悟らせないようにふるまってしばらく食べなくてもいいやという気持ちで放っておいたらどうかと。


煩雑にやり取りをしているなか、ちょうど春休みになることだし、環境が変わったら食欲が出るかもしれないということで当地に来たらどうかと提案したのですが、パパはお仕事で行かないとわかるやいなやパパを置いてはいけないと。

そうこうするうち、友達の家に遊びにいって疲れて夕方寝て起きたのがきっかけで徐々に食べるようになったそうです。

昨夜、実に10日ぶりにお茶碗でごはんを食べたそうです。

めでたしめでたし。

でもこれほど繊細な子ども、これからの人生の山坂、どうやって越えるのでしょうね。

お勉強はいまいちらしいけど、責任感、思いやり、公共心、公徳心に二重丸がついていたそうですけど。

きっといじめに遭っても周囲に絶対言わないタイプなんだろうな~。

そういえばユカちゃんが死産で入院したので初めて親から離して岡山に連れてかえった4歳のとき、あまりの不安と寂しさに泣きたいだろうに、ぜったい夫と私の前では泣かず、1人別の部屋に行って泣いて涙を拭いて戻ってきていました。

10日ほどの滞在中1度もパパママと言わなかったアスカ。

ユカちゃんが退院してアスカを自宅に届けたとき、新横浜まで迎えに来ていたパパを遠くの路上で見つけてお互いが走り寄ってパパに抱かれたとき初めて号泣したアスカ。

映画の1シーンのように今も記憶にあります。


これからもどうか優しい人々に恵まれますように、とついつい欲深いことを願うババです。




さて本日は島尾敏雄氏著『死の棘』のレビューをほんの少し。

「思いやりの深かった妻が、夫の〈情事〉のために突然神経に異常を来たした。
狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻。
ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。
狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?
ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録」

1944(昭和19)年第18震洋隊(特攻隊)の指揮官として奄美群島加計呂麻島に赴く
1945年8月13日に発動命令が下るが、発進命令がないままに15日の敗戦を迎える
1946年ミホと結婚
1948年、『単独旅行者』を刊行
1950年『出孤島記』で第一回戦後文学賞受賞
1955年『帰巣者の憂鬱』刊行
     ミホの病気療養のため奄美大島名瀬市に移住
1960年『死の棘』で芸術選奨・日本文学大賞・読売文学賞をそれぞれ受賞
1963年『出発は遂に訪れず』
1977年『日々の移ろい』で第13回谷崎潤一郎賞受賞。
1983年『湾内の入江で』で第10回川端康成文学賞受賞
1985年『魚雷艇学生』で第38回野間文芸賞受賞


島尾作品は過去にいくつか読んでいますが、本書はほぼ私小説といえる作品です。

1度目は20年ほど前に読み、ブログにアップするために今回再読しました。

20年という歳月を経てもなお「世にも恐ろしい私小説」という感想はそのまま。

ただ今回は特に夫妻のふたりの子どもの哀れさに胸がしめつけられながら読了。

このような修羅の世界に巻き込まれた子どもたちはどんな大人になるのだろうか?


作品の中で描かれていた6歳の伸一と4歳のマヤの後年が気になって読了後ググッてみました。

カメラマンとなっている伸一こと島尾伸三氏はある出版社の依頼に応じて『小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅』を上梓されていました。

新聞社のインタビュー記事を見つけました。

「ずっと絶望していた・・・思い出したくないことの一部は、小説家だった父・敏雄の代表作『死の棘』に描かれた。
神経を病んだ妻と敏雄との壮絶な日々が題材だが、長男にとってみれば、全体像のごく一部でしかない。
親として、また大人として機能しなかった両親との倒錯した生活を繰り返し思い出すことは、すべてを損なわれ続けた当事者には苦痛以外の何ものでもない」

その書き下ろしが子どもの作文のような文体で綴られるのは、両親の呪縛から逃れられていないことを示しているのかもしれないと『小高(おだか)へ 父 島尾敏雄への旅』を読まれた方の感想がありました。


精神的に不安定な面を持ちながら妻子に恵まれ社会で活動されている伸三氏に比べマヤさんはミホさんの呪縛から逃れることのできない閉塞的な生涯を送られたそうです。


『死の棘』は、夫の度重なる浮気が発端で始まった狂乱の夫婦の世界、もとは愛情深く献身的だった妻の狂気にも似た発作に立ち向かう夫もまた狂気を装うという繰り返しの物語に終わりはなく、紆余曲折を経て妻が精神病院に入院するところで突然プツンと途切れたようにラストを迎えています。


夫の浮気という過去に支配された一家の壮絶な修羅場は底なしの悲劇としてエンドレスで繰り返されながらそれでもなお2人は離れることができないという地獄の世界。

「私からもぎ取られてしまえば、彼女は生きて行くことができないことに気がついた私は、彼女を手放すことはできない」

自分がその立場に立ってみないとどのような批判もできないのは承知していますが、なかなかにミホさんに共感できない自分がいました。


その後変遷を経て夫婦は一時期妻の故郷である奄美に移住し、終生夫婦として添い遂げたという事実がありますが、伸三氏によるとミホさんの支配欲は敏雄氏亡き後は娘マヤさんに移りそれを生涯貫いたといいます。


異常な共依存関係を続ける夫婦に挟まれて生活しなければならなかった子どもたちの悲劇。

それがことに私の中でクローズアップされた読後感でした。

人生には深いよろこびがある
骨になってもなお、別れたくないと思える、愛するひとに出会えるよろこびだ
人生には深い悲しみもある
そんな愛するひととも、いつかかならず別れなければならないことだ

日本中の人々に惜しまれ悼まれて亡くなられた高倉健氏の言葉です。



高倉健氏著『南極のペンギン』



2001年2月16日、21世紀最初の誕生日に出版されたという絵本。


仕事柄世界中を旅する健さんがその折々の体験を通して感じたことを子どもたちのために書いたという宝物のような10篇のエピソード。


それぞれのエピソードには唐仁原教久氏のイラストが添えられていて読む人がイメージを膨らませる手助けをしてくれます。

ぼくの名前は 高倉 健。
映画俳優のしごとをしている。
もう四十年以上も 映画のしごとをしている。

この自己紹介で始まる男らしくも素朴な語り口は全篇を貫いています。

朴訥で誠実、そして少年のような健さんの人柄がそのまま文になったようです。


アフリカの少年/北極のインド人/南極のペンギン/ハワイのベトナム料理人/比叡山の生き仏/オーストラリアのホースメン/ふるさとのおかあさん/奄美の画家と少女/ポルトガルの老ショファー/沖縄の運動会


アフリカの砂漠では砂あらしに遭い、北極と南極ではブリザードに襲われて九死に一生を得る経験をし、その度に命の脆さと大切さに思いを馳せる健さん。


「アフリカの少年」では健さんの人に対する思いやりの表面的ではないその深さに感動。


そして何といっても深く心に沁みたのは「ふるさとのおかあさん」です。


映画の撮影のため最愛のおかあさんの死後1週間もあとにやっとお骨と対面したという健さん。

その時、無性におかあさんと別れたくなくておかあさんの骨をバリバリかじったそうです。


いちばん上に挙げた健さんの文章はそのときのエピソードの中で書かれたものです。

そして続きがあります。

でも、おかあさんはぼくのなかで、生きつづけている


深く胸に響く言葉です。

心よりご冥福をお祈りいたします。

そしてブロ友のしおんさん、ご紹介ありがとうございました!

暖かい日が続いてこのまま本格的な春に向うのかと思うと急激に気温が低下したり・・・

つくづく油断できない弥生月です。


住まいの近所を歩いていると家々の庭に白木蓮が雄々しく空に立ち向かっている姿が見られます。



白木蓮と辛夷はとてもよく似ていますが、ここ何年前からしっかり見分けがつくようになりました(遅い!と笑うなかれ)

開花の時期は白木蓮の方が辛夷より少し早いといわれていますが当地では大体同じ、今がどちらも盛りです。


一目瞭然の見分け方は花全体の大きさ・・・白木蓮が辛夷の倍くらい、花びらも厚くずっしり感があります。


そして咲いたときの姿・・・白木蓮は閉じたまま天に突き上げるという感じ。

ろうそくを掲げているような。

そして花の付け根に葉っぱがない白木蓮に比して辛夷は花の下に1枚葉っぱがついているんですね。


辛夷は写真が撮れなかったのでフリーフォトをお借りしました。

大地の営みって本当にすごいですね。






さて本日はユッシ・エーズラ・オールスン氏著、吉田奈保子氏訳『特捜部Q ―檻の中の女―』をご紹介します。


「捜査への情熱をすっかり失っていたコペンハーゲン警察のはみ出し刑事カール・マークは新設部署の統率を命じられた。
とはいってもオフィスは窓もない地下室、部下はシリア系の変人アサドの一人だけだったが。
未解決の重大事件を専門に扱う『特捜部Q』は、こうして誕生した。
まずは自殺と片付けられていた女性議員失踪事件の再調査に着手したが、次々と驚きの新事実が明らかに!
デンマーク発の警察小説シリーズ第一弾」


スウェーデン発のスティーグ・ラーソン氏著の『ミレニアム』がベストセラーとなり北欧のミステリの注目度が高くなった昨今、負けじとデンマークでも!

2007年『特捜部Q―檻の中の女―』
2008年『特捜部Q―キジ殺し―』
2009年『特捜部Q―Pからのメッセージ―』-ガラスの鍵賞受賞
2010年『特捜部Q―カルテ番号64―』
2012年『特捜部Q―知りすぎたマルコ―』

本書はユッシ・エーズラ・オールスン氏の「特捜部Q」シリーズ第一弾です。


主人公はコペンハーゲン警察の殺人捜査課のカール・マーク警部補。


ある事件捜査で犯人に部下2人とともに襲われ、1人は殺されもう1人は半身不随という後遺症から入院生活を余儀なくされているという過去から未だ立ち直れずに今やコペンハーゲン警察のお荷物と化したカール。


警察と行政の駆け引きの結果、国からの破格の予算獲得につられて警察内部に〈特捜部Q〉が立ち上げられ、厄介者のカールが責任者に選ばれるところから物語がスタート。


オフィスを陽の射さない地下に作り、体のいい厄介払いでカールを押しやり、素性のわからないシリア人のアサドを助手につけて一応過去に未解決だった大事件の着手させるという上層部の企みに、最初のうちこそ不承不承だったカールでしたが、徐々に本領を発揮するというストーリー。


物語が展開していくにつれ、助手のアサドの並外れた能力が少しずつ発揮され、徐々にカールの信頼を勝ち取り、お互いを必要とする過程が興味深く描かれています。


2人に与えられた未解決事件―5年前の女性議員失踪事件―の再調査。


この事件に着手する2人の活躍と交互に描写されているのが誘拐された国会議員の異常な監禁状態。


現在のカールたちの捜査再開と、そして5年前に遡っての彼女が失踪した前後とが並行して語られるうち平行線から気がつくと徐々に時間軸が狭まりついに交わるという巧みな構成になっています。


なぜ女性議員は誘拐され監禁されたか?

犯人の意図は?

これらの疑問が徐々に解かれていく過程を通してのカールとアサドの絡みが見どころ

それにラストシーン!

お勧めです!!

この週末に和太鼓&津軽三味線を聴きに行ってきました。

「日本縦断和太鼓コンサート ~東東北を想う~ 『鎮魂』」

憧れの佐渡の「鼓童」から創始者ご夫妻が来られていました。

地元からは倉敷天領太鼓&天領童太鼓、善通寺の龍神太鼓など。

そして津軽三味線の奏者とのコラボ。

東日本大震災で幾人かの太鼓奏者の命が大切な太鼓とともに奪われたそうです。

『鎮魂』と銘打ったコンサートは力強く響天動地そのままに天に響き地に立つ私たちの魂を揺さぶりました。


ウオークライのごとき原始の響きあり魂揺さぶる〈鼓童〉の太鼓

ず~っと聴いていたいと思うほどすばらしかったです。





さて本日は谷口真由美氏著『日本国憲法・大阪おばちゃん語訳』のご紹介です。

「ヒョウ柄と飴ちゃんを愛する大阪のおばちゃんがもし日本国憲法を読んだらー。
驚くほど『憲法』がよく分かる抱腹絶倒の決定版!
子どものガッコのことから夫婦の生活、働き方、集団的自衛権、そして護憲・改憲問題までをおばちゃん目線で解説!」

リアル&ネット共々親しくしていただいているAさんの日記で紹介されていた作品。

いま、この時期の必須アイテム!

私を含め憲法という語感に敷居が高い方にお勧めです^_^


1章 「戦争」は棄てましてん(前文 大事なことは最初に言うからよう聞いてや/9条 戦争は棄てましてん)
2章 「人権」ってええもんみたいやで(10条 日本国民って誰のこと?/11条 人としてもってる権利 ほか)
3章 「日本国のしくみ」ってどないなってるん?(国会/内閣 ほか)
4章 憲法って誰のモンなん?(96条 憲法って変えることできますのん?/97条 大事なことやからもういっぺん人権って何やろか? ほか)
おまけの章 そもそも憲法ってどうやってできたん?


1975年大阪市生まれ。大阪国際大学准教授。専門分野は国際人権法、ジェンダー法など。
2004年、大阪大学大学院国際公共政策研究科修了博士(国際公共政策)。
2012年facebook上に「日本おばちゃん党」を立ち上げ、代表代行となる。
非常勤講師を務める大阪大学での「日本国憲法」講義が人気で、一般教養科目1000科目のなかから生徒の投票で選ばれる“ベストティーチャー賞”こと「共通教育賞」を4度受賞(データベースより)


「大阪のおばちゃんって、とてもじゃないけど憲法とか法律の話をしそうもないですけど、もし大阪のおばちゃんが井戸端会議で憲法の話をしたとしたら、どんなふうになるんやろう、というのがこの本のコンセプトなんです」

上記は本書の主旨を説明された著者の言葉ですが、そのコンセプトに基づいて〈9条〉を大阪弁で噛み砕いたらどのようになるのかを挙げてみます。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
                   
「日本国民は、正義と秩序でなりたってる国際平和を心底大事やと思って追い求めていくで。
国とか政府が権限ふりかざして戦争はじめたり、武力つかって威嚇したり武力つこたりっちゅうのは、世界のもめごとを解決するためには永久に棄てましてん」


「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
                  
「ほんで、さっきの戦争を永久に棄てましてんっていう目的を達成するためには、軍隊とか戦力は持ちまへんで。ほんで戦争する権利は認めまへんで」


そして著者はこのように自著を勧められています。

「こんなに憲法に注目が集まってる時代っていうのも、そうそうありまへんな。
流行りモンに乗っかるっていうのは、大事なことだと思うんで、いまこの本を読むのは、とってもお得ですねん」


以前東北弁で聖書を訳された方がいらして話題になりましたが、大阪弁での憲法を語るという視点が何とも楽しく関西圏が長かった私にはとても親しみやすかったです。

今がいちばんお得感のある時期、井戸端会議のアテに是非どうぞ!

子どもたちにも是非読ませたい一冊です。

奄美への旅より少し前頃から続いていた不調が旅に出て確認できたという感じで現在も続いています。

私の中で何よりもいやな炎症が広がっているという感じ。

体中の関節の痛みが移動したり固定したりという感覚にちょっと落ち込んでいます。

心房細動を抑える手術後も期外収縮が続いているし。。

不調に埋没していても前には進めないのでなるべく楽しく過ごせるよう工夫していますが。



今回の奄美の旅を通して田中一村のことに集中して触れましたが、奄美といえばもうひとり、というかもう2人私の中で強く記憶に残る人たちがいます。


『死の棘』の著者・島尾敏雄氏とその妻・ミホ氏。


その他に田辺聖子氏のお連れ合いだったカモカのおっちゃんの生まれ故郷でもありました。


今回は島尾夫妻に特化して・・・。


随分前に読んで衝撃を受けた『死の棘』は、その後宮本輝氏著の『泥の川』の監督として高い評価を受けた小栗康平氏によって1981年に映画化され、主人公の島尾夫妻を岸部一徳さんと松坂慶子さんが演じて話題になりました。

1990年 カンヌ国際映画祭 審査員グランプリ、日本アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞して原作同様有名になりましたね。

一方原作も日本文学大賞、読売文学賞、芸術選奨をそれぞれ受賞しています。


原作をまとめたものに「極限状態で結ばれた夫婦が、断絶の危機に合い、絆を取り戻そうとする様を情感豊かに描く」とありますが、内容はそんな生易しいものではなく、世界一恐ろしい私小説と総括された方もいらっしゃいます。


ミホさんの生まれは奄美諸島の加計呂間島呑の浦にある押角。

戦時中島尾敏雄氏が特攻隊の隊長としてそこに滞在していたときミホさんと出会ったのが縁で結婚しました。

2人の子どもに恵まれた結婚生活に暗雲が立ち込め始めてからは『死の棘』に描かれた通りですが、神経症に陥ったミホさんが精神病院に入ったあと、ミホさんの病後の快復のためにミホさんの故郷である奄美大島に帰り、名瀬市に住まいを移し、1956年から1975年まで島尾氏は鹿児島県立図書館名瀬分室の館長として勤められました。


1974年のその時期にミホさんが書かれたのが本日ご紹介する作品です。

『死の棘』に関しては過去のブログを検索したところアップしていなかったのでまた時を改めてアップしたいと思います。


島尾ミホ氏著『海辺の生と死』

「幼い日、夜ごと、子守歌のように、母がきかせてくれた奄美の昔話。
南の離れ島の暮しや風物。
慕わしい父と母のこと。
―記憶の奥に刻まれた幼時の思い出と特攻隊長として島に駐屯した夫島尾敏雄との出会いなどを、ひたむきな眼差しで、心のままに綴る。
第15回田村俊子賞受賞作」


田村俊子賞についてはミホ氏の作品に強い感銘を受けた武田泰淳氏の強力な推薦によって受賞されたという経緯があるようです。


島尾ミホ氏の経歴を簡単に記しておきます。

1919年(大正8年)鹿児島県に生まれる。奄美群島の加計呂麻島で幼少期を過ごし、東京の日出高等女学校を卒業する。戦時中、加計呂麻島に海軍震洋特別攻撃隊の隊長として駐屯した作家の島尾敏雄と出会い、46年に結婚。豊かな自然と民俗に彩られた南島での少女時代の記憶を語った『海辺の生と死』により75年に南日本文学賞、田村俊子賞を受賞した。2007年(平成19年)逝去(データベースより)


本書の「特攻隊長のころ」によると・・・

「沖縄の攻防戦の激しさが伝わる頃になると敵機の爆撃も日を追ってもの凄く、奄美群島の集落は磯辺に立つ二、三軒までも次々に爆破され傷つき死んでいく人もありました。
しかし島尾部隊のある呑之浦と押角の集落の人々は『島尾隊長が守ってくれるから大丈夫』という信仰に近い確信をもち、高射砲で海や山に墜落する敵機はすべて島尾部隊が撃墜したのだと思い、島尾隊長が自分たちの守護神である証のように見詰めていました。
そして不思議なことに呑之浦と押角の集落はずっと無傷であったのです。
このことは島尾隊長への信頼を益々深め、焼け墜ちた敵機の操縦士の亡骸は懇ろに集落の墓地に納め立派な墓標を建てて葬った島尾隊長の武夫の道に人々は感激し、『あれをみよ島尾隊長は人情深くて豪傑で……あなたのためならよろこんでみんなの命を捧げます』という歌がはやり、片言の幼児にまで口ずさまされ、幼児たちは軍服を着ている人には誰にでも『島尾隊長』と呼びかけ、島尾隊長とは軍人の代名詞と思っているいるようでした」  


「その夜」では・・・ 
                
昭和20年8月特殊潜航艇震洋で特攻出撃となった島尾隊長に人目逢いたいとミホさんは訪ねていきます。

「ふり仰ぐと、飛行帽、飛行服、白いマフラー、半長靴の搭乗姿で背の高い隊長さまがにこにこ立っていらっしゃいました。
『隊長さま!』と思い、涙がどっと溢れました。
噴きあがってくる感情をぐっと抑えると、咽の奥から鳴咽がこみあげてきて、私は隊長さまの半長靴の上に頬を押し当てて涙をこぼして泣きました。
『大坪が何を言ったか知らないが、演習をしているんだよ、心配しなくてもいい。さあ、立ちなさい』・・・
放したくない、放したくない御国の為でも、天皇陛下の御為でもこの人を失いたくない、この人を死なせるのはいやわたしはいや、いやいやいやいやいや隊長さま!・・・ 
私のこころは乱れ狂い泣き叫んでいますのに、それを言葉にだす術もなく、ただ唇をかみしめ涙を溢れさせながら隊長さまのお顔をみつめるばかりでした・・・ 
隊長さまはあの澄んだ声を名残りに私の前から永久に消えていっておしまいになりました」


運命の気まぐれか島尾隊長は突撃することなく生き残り、ミホさんはその憧れの隊長様と結婚することになりますが、少女だったミホさんが見た島尾隊長という幻想は2度と戻ることはなかったのでしょう。

「篋底の手紙」・・・

「私の心をそのころにあとがえらせ、今でも岬を越えた入江の奥に島尾隊長が戎衣を纏ってとどまっているような気持ちになってきて、無性にその人に逢いたくなってしまいました。
しかしそれは虚しい願望でしかありません。
敗戦と同時に彼は何処かへ立ち去って行ってしまったのですから。
瞼をとじるとこんなにも鮮やかに若々しいその容姿が思い起こされますのに、現実にはもう決して見ることはできないのでしょうか」


こういう経緯を見ると『死の棘』でのミホさんの狂気と形容しても許されるのではないかと思えるほどの愛を乞う狂乱の姿が少しだけ納得できるような気がします。

聡明篤実な海軍士官であった島尾中尉は清らかな少女の自らが育てた勝手な幻想といえばそれまでですが、死の淵から奇跡の生還を遂げた島尾氏も特攻隊の若者たちが死に向かって次々旅立っていくなか自分のみが生き残ったことでどれほどの苦しみを負った人生だったかを想像すると、2人が結婚をスタートさせた時点から地獄が始まっていたとしても頷けます。


加計呂麻島の島長(しまおさ)で祭事を司る「ノロ」の家系に生まれ、巫女後継者と目されたミホさんと海軍の震洋特攻隊長として島へ赴任してきた島尾敏雄との出会いそのものが夢のような出来事だったのではないでしょうか。

ミホさんは後々まで白い海軍の正装姿の若き日の敏雄「隊長さま」の写真を大切に自室に掲げていたそうです。


そういった島尾との関係性は別として本書に描かれたミホさんの少女時代の回想シーンの何と幻想的なこと!

美しいばかりでない島の風習に則った島人の原始的な信仰が息づいた営みの数々には驚かされること多々。

まるで民話の世界です。


解説を担当していらっしゃる吉本隆明氏は次のように書いていらっしゃいます。

「遊行して南の小さな島に訪れて去ってゆく<聖>であり同時に<俗>である人々、<貴種>であり同時に<卑種>である人々の姿を、迎えるものの内部から描破している」

〈聖〉と〈俗〉が見事に融合した常世と現世とを繋ぐ場所での人々の営みから生まれた小さな物語といえるのではないでしょうか。

当地空港離発着の奄美大島便で〈奄美2泊3日の旅〉に行きました。392f6804.jpg


田中一村終焉の地として知られる奄美大島。

奄美空港近くの〈田中一村美術館〉で生の作品に接するというのが主の目的。







旅の間中雨という悪天候の中、北から南へとバスで移動、〈奄美自然観察の森〉や〈マングローブ原生林展望台〉、〈水中クルーズ〉、〈ホノホシ海岸〉、〈高知山展望台〉、〈あやまる岬〉など見学、奄美の自然に触れてきました。
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その他、黒糖焼酎の酒造元でウギ(さとうきび)から焼酎が出来るまでの工程や、世界三大織物の1つ・奄美大島紬(あと2つはゴブラン織とペルシャ絨毯)が織り上がるまでの工程を見学しました。

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世界一精巧な手仕事の大島紬、大きな工程は40ほどですが、その中でも細かに枝分かれしていて気が遠くなるほどの工程。

その工程の一部である「染色」を生活の糧と画材のためのお金を得るために在島中の一村が続けていたといいます。

数年働いてお金を貯め、数年は絵に没頭するというサイクルを実行していたそうです。


そのようにして仕上げられた大島紬はあまりにも高価で手が出ませんが、奄美列島でしか作られないというウギ(サトウキビ)が原料の黒糖焼酎、列島には蔵元は25の蔵元があるようですがベートーベンなどの交響曲を一日中響かせて熟成させるという「奄美大島開運酒造」の〈紅さんご〉というアルコール度数40度の黒糖焼酎を購入しました。


周囲を珊瑚礁に囲まれた奄美はカルシウムやマグネシウムを多く含む硬水や山々から湧き出る軟水など焼酎作りに適した水がふんだんにあることからそれぞれの好みの焼酎が作られているようです。


夜はホテルで三線に合わせての島唄、そして五穀豊穣を願って1年の節目に踊られたという八月踊りのパフォーマンスがあり、島人の踊りの円陣に入って楽しみました~。
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島で会った人びとはみな素朴で人懐っこく古来からのよき慣習を踏襲しているようで胸を打つことがたくさんありました。

田中一村も数少ない交流ながらそうした人たちとの繋がりのなかで気づいたら18年たっていたということでしょうか。

一村と触れた人々はだれも彼がそれほどの絵描きだと知らず、ただ風変わりで律儀な礼儀正しい人という印象だったといいます。

死後、ここまで湧き上がった一村旋風を、あの世があるなら一村はどのような目で眺めているのでしょうか。


「真の芸術は死後必ず認められ世に出る」と確信していたという一村のこと、さもありなんと頷いているのかもしれませんが、それにしても生涯に一度も望む個展を開けず、ただただ黙々と描き続けた一村に生きている間にほんの少しでも日が射していたらと思わずにはいられません。



南日本新聞社・中野惇夫氏著『日本のゴーギャン 田中一村伝』


「画壇に背を向け生涯、妻を娶らず自らの才能だけを信じ貧窮をものともせずひたすら絵をかいた六九年の軌跡。
東京・千葉・奄美大島と移り住んだ一生を追う。
伝説の日本画家田中一村のただ一冊の伝記です。
本書は『アダンの画帖』として1995年に発行されたものを文庫化したものである」


南日本新聞社記者の中野惇夫氏が南日本新聞に1985年に連載した記事をもとに1986年に道の島社から出た『アダンの画帖-田村一村伝』というタイトルの単行本を1995年に小学館が復刊し、さらにタイトルを変えて1999年に文庫化したのが本書。

一村の経歴についてはこのブログで以前ご紹介していますので興味のある方は読んでいただければと思います。

『崇高・異端の日本画家 田中一村の世界』 →

湯原かの子氏著『絵のなかの魂 評伝・田中一村』→

潔癖な性格ゆえか中央画壇との関係を自ら絶ったような形で50歳のとき新天地を求めて単身奄美に渡り、生涯に1度の個展も開くことなく清貧の中で旅立たれた画家。

大島紬工場の染色職工として最低賃金以下の収入で切り詰めた生活をしながら全精力を傾けて絵を描き続け、69歳で亡くなられました。

「あの人が,医師になっていたら,おそらく名医になっていたでしょう。
あれほどの才能を持ち,あれほど勉強する人を私は知らない」

様々な面で彼をバックアップしていた千葉時代の知人の医師の言葉です。


「私の絵の最終決定版の絵がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、画の正道であるとも邪道であるとも、何と批評されても私は満足なのです。
それは見せる為に描いてのではなく、私の良心を納得させる為にやったのですから」

今回現地の「田中一村美術館」で作品群と対面し・・・その迫力に圧倒されました。


太古からの自然がそのまま生きているような奄美の植物や鳥たちを珊瑚礁を背景にヴィヴィッドに描いた大作から伝わるエネルギーのすごさ!

本書には生前の彼と接触のあった奄美の人々からの聞き取りやエピソードなどがちりばめられていて一村の生き様に興味ある読者には読み応えのある作品となっています。

「絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の為の奴隷に転落したものと信じます。
勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人の気持ちと一致することも稀にはある。
それでよろしいかと思います。
その為に絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう」



「私は紬工場に染織工として働いています。
有数の熟練工として日給四百五十円也。
まことに零細ですが、それでも昭和四十二年の夏まで(五年間)働けば、三年間の生活費と絵の具代が捻出できると思われます。
そして私の絵かきとしての最後を飾る立派な絵をかきたいと考えています」
 


知人に宛てた手紙どおり昭和42年夏に紬工場を辞め、絵に没頭、貯金を使い果たした段階で再び染色工に・・というのを繰り返して最期は心不全で69歳の生涯を終えます。


本書を読んでのち出かけた今回の旅で奄美の美しい自然、空と海の蒼が突き抜けるような哀しみを誘いました。

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