VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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2018年07月

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鹿児島旅行3・・・これで終わります。


東京組の次男夫婦と岡山組の私たちが鹿児島空港で別れてからの出来事。


じゃあね、と別れて鹿児島中央駅近くのショップにレンタカーを返して新幹線に乗るべく高速に乗った直後。


夫が持っているはずの小さなショルダーバッグがないことに気づいて・・・


路肩に車を止めて後部座席とトランクにあるスーツケースを開けてみるもなし。


間違って持ち帰ったかもしれないと次男に電話。


すぐに旅館に連絡して部屋にあったことを確認して折り返してくれた次男からそのまま新幹線に乗るかもう一度旅館に戻るかという2つの選択肢を示されて・・・


免許証は身に着けているものの新幹線のチケットはバッグの中と夫。


車で旅館にUターンして鹿児島中央駅に行く時間を計算してギリギリ間に合いそう、と次男がいうことで後者を選びました。


宿は霧島高原の山の中。


高速の出口を求めてだいぶ走らせてUターン、走らせて走らせて無事バッグを受け取り、また走らせて走らせて走らせて2時間以上・・・出発時間の30分前にやっとガソリンスタンドに到着、満杯にしてレンタカーショップに着いたときは乗車時間の15分前。


スタッフの方に事情を話して急いでもらうも、理解してくれたのかどうか、のんびりと手続きを済ませ、駅に向かい必死の形相で・・・


すでにあと2分強・・・改札を過ぎ新幹線のホームへのエスカレーターに乗りやっと着いたそのとき、目の前を「さくら」が滑るように出ていきました。


あと1分、いや30秒早かったら!


結果として1時間後の鹿児島中央駅始発の「さくら」の自由席に座れてやれやれ・・・


帰宅したときはお互いぐったり。



電話でお騒がせを謝っていた夫に次男が「お母さんに八つ当たりをするなよ」とか何とか注意を受けたらしく「とんでもない」と否定していました。


今回は2、3日殊勝な態度が続いていました・・・今は元通り。


壮年期から枚挙に暇がない夫のどでかい忘れ物癖・・・「またか」と呆れ顔の子どもたち。


いつも腹が立つのは発覚直後の夫の言動。


今回も開口一番「お前が持っていてくれたんやないのか?」(はぁ?私は自分のショルダーバッグを持っていますけど?いつも離さず・・・心の声)


「あれほど忘れ物はないのかと言ったのにT(次男)はチェックしなかったのか?」(あなたが最後にトイレに行って出てくるのをドアの外でお嫁ちゃんが長く待っていたんですけど? Tはたくさんの荷物を持ってチェックアウトのためフロントにいたし、私はスーツケースを階段の上に上げて待っていたんですけど? どの口で言うのか???・・・心の声)


そういえば「忘れ物はないか」と声高に叫んではりました(ーー;)


ま、事故も起こさず、余分な往復2時間半をドライブしたと思うことに。


ついでに友人たちへの鹿児島土産を次男夫婦の紙袋に入れたままで東京へ運ばれたのも今回のミス・・・ほんの小さな事柄でしたけど。


過去の負けず劣らず大きな忘れ物事件のいくつかはこのブログにも書いていますが、探し出すのが面倒なのでスルーします。






さて今回は桐野夏生氏著『夜の谷を行く』をご紹介します。 


「連合赤軍がひき起こした「あさま山荘」事件から四十年余。
その直前、山岳地帯で行なわれた「総括」と称する内部メンバー同士での批判により、12名がリンチで死亡した。
西田啓子は「総括」から逃げ出してきた一人だった。
親戚からはつまはじきにされ、両親は早くに亡くなり、いまはスポーツジムに通いながら、一人で細々と暮している。
かろうじて妹の和子と、その娘・佳絵と交流はあるが、佳絵には過去を告げていない。
そんな中、元連合赤軍のメンバー・熊谷千代治から突然連絡がくる。
時を同じくして、元連合赤軍最高幹部の永田洋子死刑囚が死亡したとニュースが流れる。
過去と決別したはずだった啓子だが、佳絵の結婚を機に逮捕されたことを告げ、関係がぎくしゃくし始める。
さらには、結婚式をする予定のサイパンに、過去に起こした罪で逮捕される可能性があり、行けないことが発覚する。
過去の恋人・久間伸郎や、連合赤軍について調べているライター・古市洋造から連絡があり、敬子は過去と直面せずにはいられなくなる。
いま明かされる「山岳ベース」で起こった出来事。
「総括」とは何だったのか。
集った女たちが夢見たものとは――。
啓子は何を思い、何と戦っていたのか。
桐野夏生が挑む、「連合赤軍」の真実」


まさかこんな内容とは知らず読み始めた本書。


63歳の主人公が周囲と必要以上に距離を置き、まるで世捨て人のように質素に暮らす様子が淡々と描かれている冒頭場面を過ぎ、中盤に入ると徐々に主人公・西田啓子の過去が明らかになって・・・俄然曳きつけられていきました。


連合赤軍、山岳ベース事件、あさま山荘、総括、リンチ・・・



1971年~1972年にかけて群馬・千葉県の山岳ベースで連合赤軍が起こした一連のリンチ殺人の末14死体が発見された事件。

「連合赤軍」とは「共産主義者同盟赤軍派」と「日本共産党革命左派京浜安保共闘」の連合によって結成された組織。


世界を共産主義にするための革命を理想とする学生たちが「連合赤軍」などの過激派に姿を変えていく中で「総括」という名の下、仲間同士を殺し合い山中に埋めるという前代未聞の殺人事件に発展したもの。


17名の逮捕者のうち最高幹部の森恒夫は獄中で自殺、永田洋子は2011年獄中で病死しました。


その後あさま山荘に立て籠もった坂口弘、坂東國男らの連合赤軍メンバーが管理人の妻を人質として、山岳ベース事件で警察に捕まっていた森恒夫と永田洋子の釈放と、あさま山荘に立て籠もったメンバーの逃走を保障させようと計画して起こしたのが「あさま山荘事件」。


私がまだ二十代だった頃の事件。


2月19日~28日メンバーが逮捕されるまでの1週間の警察との攻防激戦の一部始終がテレビで放映され、日本津々浦々固唾を飲んで見ていた思い出があります。


ついでに、あさま山荘事件から3年後の昭和50年8月4日、「日本赤軍」がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠し、日本で投獄中のメンバーの釈放を要求するという事件が起きました。


この日本赤軍がアメリカ大使館を占拠して人質を取り、その交換条件として連合赤軍の釈放を要求してきたのを受け、日本政府はこの条件を飲み、超法規的措置として、坂東國男を初め5人のメンバーが釈放され、彼はそのまま海外へ逃亡して現在に至ります。


坂東と同じく「あさま山荘事件」の主犯格だった坂口弘も釈放の対象でしたが、坂口本人が釈放されることを拒否して現在も死刑が確定したまま収監されています。



本書から逸脱してしまいましたが、本書はその前段階の森恒夫や永田洋子率いる革命兵士たちの山岳ベースの末席にいて、リンチ事件の終盤に逃げ出したメンバー西田啓子の物語。


主人公・西田啓子とともに逃亡して逮捕された君塚佐紀子らは著者の架空の人物といいます。


虚実ない交ぜの作品。


「革命左派」から赤軍に加わっていた西田啓子は逮捕後5年あまりの服役のあと、社会の片隅で小さな学習塾を営んでいましたが、少子化の波に抗えず塾を閉め、現在は貯金と年金で生計を立て、ひっそりと暮らしています。


そんなときかつての連合赤軍指導者の永田洋子が獄中死したことがきっかけで記憶の底に沈めていた過去の出来事が甦りはじめます。


直接同志殺人に手を貸してはいないものの、恐怖に囚われて指導者に阿て手を拱いていた過去の自分と向き合わぬようにすることでどうにか生き延びてきた啓子。


昔の革命同志が永田洋子の死を知らせてきたことから啓子の表面上は平穏な日常が徐々に崩れ始めるのです。


この物語には〈妊娠〉というキーワードが重要な意味を持って浮き上がってくるのですが、ラストまでなぞるとあまりに長くなるので、興味ある方はぜひ、本書を手に取ってほしいと思います。


自分の犯した罪によって早すぎる父母の死、妹の離婚を引き起こした罪悪感から生きながら死んでいるような孤独な日常を引き受けながら暮らしていた啓子に著者はラストで大きなギフトを用意していました。


そのギフトによって啓子の「今」に変化があるわけではありませんが、小さな小さな生きる希望という萌芽が胸の奥処に芽生えたということではないでしょうか。


ぜひどうぞ!

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記録として・・・。

鹿児島旅行2です。


ずっと行きたかった知覧をあとに一路今夜の宿のある指宿へ。


砂風呂で有名な指宿ですが、あまりの暑さに敬遠して露天風呂へ。


夜は4人でウノ。

前もってexcelで作成していた点数表も持参してやる気満々。


私がいちばん負け・・・駆け引きが下手な私はたいてい負けます。

次が新婚のお嫁ちゃん。


翌日は霧島に向けて約2時間のドライブ。


第二の目的地である霧島神宮へ。

建国神話の主人公で天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る神宮。


6世紀、欽明天皇の時代に慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿が造られたのが始まり。

歴代島津氏の尊崇が篤く、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいるそうです。


開運、起業、転職など〈事始め〉の神様といわれているそう。


瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に寄り添うように妻の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が祀られているところから、昨今は縁結びの神様としても人気を集めているようです。



もともとは鹿児島県にある霧島連山のひとつ高千穂峰の山頂付近にあったそうですが、霧島山で噴火がたびたび起き、焼失してしまいおよそ300年前に薩摩藩主であった島津吉貴公により、現在のこの土地に建立されたそうです。


杉木立に囲まれた美しい朱塗りの社殿で、江戸時代には西の日光と呼ばれるほどになりました。

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大鳥居の高さは22.4m、西日本一を誇っています。
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平成元年には本殿・拝殿・登廊・勅使殿などが国の重要文化財の指定を受けています。


三の鳥居の越えてから手水舎の後方に聳えているのがこの神宮の御神木。

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推定樹齢800年とされ、高さ30m以上。

坂本竜馬がおりょうと新婚旅行で訪れたことでも有名。

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最強のパワースポットといわれています。


しっかりと霊気を浴びて、今夜の宿へ。



天孫天降の地とされる霧島山からの源流というのが由来の天降川(あもりがわ)の上流に位置する隠れ家的な小さな宿、部屋数は6部屋のみ。



大浴場も売店もなく、掛け流しの部屋付き露天風呂が2つある和洋室、窓の下を天降川が流れ、一晩中せせらぎの音が低奏の音楽のように流れ・・・すてきな宿でした。

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天降川

翌朝は鹿児島空港で2人を降ろし、そのまま鹿児島中央駅に・・・と着く予定でしたが・・・

思わぬハプニングに見舞われ・・・

書くと長くなりますので次回に・・・。





さて本日は須賀敦子氏著『主よ 一羽の鳩のために』のレビューを少し。 

「没後20年にして新発見された自筆詩稿44篇。

須賀敦子がローマ留学中の1959年1月から12月まで、30歳の日々、ローマでひとり呼びかけつづけた「あなた」への魂のことば―没後20年にして新たに発見された詩稿は、須賀敦子が詩人であったことをあきらかにした。
祈りと慰めの韻律は、静かに、そして深く、心をゆるがす。
巻頭口絵にて手書き原稿収録」





詩作ノート冒頭に記されていた自筆のメモがこれ。
一人でゐるといふこと。
それは なにがどうなっても必要。
どんなに近くても、どんなにわかりあってゐても、
一人でないと、死んでしまふということ。
自分を失ふな。
 


〈同情〉

つめたい秋の朝の
ラッシュアワーの停車場前
がつがつとパン屑をついばみ
せはしげに まばたきして
青、灰、緑の
鳩の波に
ひとり 背に 首をうづめて
うごかぬ おまへ
セピアいろの 鳩よ

あヽ
わらっておくれ
うたっておくれ
せめて みなにまじって
わたしを安心させておくれ

(いろがちがふからといって
なにも おそれずとよいのだ。)

主よ 一羽の鳩のために
人間 が くるしむのは
ばかげてゐるのでせうか。
   ヴィクトリア・ステーションにて


解説を担当された池澤夏樹氏は著者との関係について次のように記していらっしゃいます。

1996年にぼくが『池澤夏樹詩集成』を出した時、須賀さんが対談の相手をしてくれた・・・

「ある時期、彫刻に興味があって、ローマにいた頃は彫刻家のアトリエに出入りしたりして、見ていて、何か詩と彫刻は似ているんじゃないかという気がしきりにして、何だろう何だろうと考えました。
固いものを刻んでいくことによって、本質だけを残すところが似ている。
それでもまだ、言葉が怖くて逃げ回っていました。
書く、ということの周辺ばかりが目について、自分では何も書けない。
それでどうしていいか判らなくて」

しかし須賀敦子は詩を書いていた・・・と続きます。


生存中は人に見せなかった詩。

1959年の1月から12月までに書かれたもの・・・この時期、須賀敦子はどういう境遇にいたのか?

1957年9月、彼女はイタリア留学試験に合格、1958年9月にローマに着きました。

須賀氏29歳のとき。

12月には生涯の友人となる詩人にして神父のダヴィデ・マリア・トゥロルドに出会います。

1960年1月、トゥロルドの紹介でガッティならびに後の伴侶となるペッピーノに会い、コルシア書店に出入りするようになり、秋には彼と結婚を約束します。


上記にあげた詩はペッピーノ氏に出会うまでの一年間に異境の地で書かれたもの。


これらの詩のすべての背後にキリスト教信仰があります。


詩人というよりは敬虔なひとりのクリスチャンとしての純真かつ素朴な目を通した筆致で謳っているよう。


〈おかあちゃま じかんってどこからくるの?〉

おかあちゃま じかんってどこからくるの?
Mamma,da dove vengono le ore?

こどもよ
おまへが さう たづねたとき
わたしたちは みな
はっとしたのだ。

じかんってどこからくるの?
ちひさな こゑで おまへは
もう いちど きいて みる。
へんじのできぬ
おとなたちを まじまじと
みつめて・・・・・・。

そのむかし
こどもよ
ひとは
じかんをもってゐなかったのだ。
そのときいのちは
よろこびで
ひかりは
たえることない うた だった。
あさのつぎには
ひるが来
ひがくれると
よるがきた
りんごの木には
りんごがなり
はるには
はるの花が咲いた。

それが みんな かはってしまったのが
あの ひざかりの午後
ひとりの をんなと
ひとりの をとこが
いちヾくの木陰で
あいをころした
あの ときだった。

それからといふもの
じかんは
あらゆる うつくしい
めざめのまくらもとにたって
われわれをまってゐる。

(それにがまんできぬ人間たちは
どうにかして
こんどは
じかんを ころさうとする。)

けれど
こどもよ
ほんたうは
あの いちど ころされた あいに
もう いちど
生きてもらふほか
われわれは
どうしやうも
ないのではにだらうか。 


〈さあ あなたを〉

さあ あなたを
しっかと胸に抱いて
秋の野を
わたらう。

りんだうの雫には
夕焼けのきらめきを映さう。

芦わたる風には
沼の香をのせてとばさう。

山はぜの紅い葉には
血にかえる火をおかう。

やがて空とほくに
新月が
糸をかけたら

母のうたった
ゆりかごのうたで
あなたが
寝つくのを
夕星の下で待たう。


生前、公にする気持ちがなかったと思われる須賀氏。

このように公開されてさぞ恥ずかしい思いをされているのではないかと想像しますが、30歳の若書きという点においても何てまっすぐな純粋な人なんだと改めて感動しました。


キリスト者として苦しいとき人生に重荷を感じるとき、常に主に向かって祈りながら、同時にいつも自分の内なる言葉に耳を傾けている姿が瑞々しくも繊細な言葉で綴られています。


異国の地にいて自分の居場所が見つからない不安やマイノリティとしての自己に対する戸惑いなど、30歳という若さでの苦しみが手に取るように伝わってきます。


のちの彼女の文章を読んだすべての人が魅せられた豊かな文体を醸し出す須賀氏の萌芽がまさしくここに息づいていると思える詩集でした。

ずっと長年一度は行きたいと思っていた知覧に行ってきました。


次男が計画してくれていた3年前には体調が悪くなって直前中止、2年前には直前に熊本地震が起こり急遽中止、延期に延期を重ねていたもの。


今回も次男が誘ってくれての旅となりましたが、岡山の真備町などが未曾有の大災害で大変な状況にあることに加えて、7月7日に入籍したばかりの新婚夫婦との旅、いくらなんでもと固辞しましたが、ぜひ、ということで新婚夫婦に挟まれながら、非常識極まりないと周りの呆れ顔を尻目に金婚夫婦が行ってきました。


費用は次男持ちの2泊3日の鹿児島旅行(ーー;)

どこまでずうずうしいの、と諌める心の声を無視して・・・。


東京から空便で来る次男夫婦と陸路からのわれわれ、鹿児島中央駅で待ち合わせ。


レンタカーを借りてまず指宿方面へ。


途中、鹿児島黒豚シャブシャブで有名な店で昼食、しろ熊かき氷発祥の店「むじゃき」で次男夫婦がかき氷。

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その後、今回の旅の目的の知覧へ。


まず知覧武家屋敷群を見学。


国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される知覧武家屋敷群は石垣と大刈り込みの生垣が残る街並み。

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以前に行った沖縄の竹富島の町景に似ています。


2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」でのロケ地にもなったそうです。

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明治になって廃藩になったときに旧藩士などが買い上げて、古い時代のままの屋敷や庭園を丁寧に保存されているところや、雑貨屋やcafe、レストランなどに改装されたところもあったりで古今が入り混じったような趣。



そして主目的の知覧特攻平和会館へ。



「帰るなき機をあやつりて征きしはや開聞よ母よさらばさらばと」

昭和63年知覧短歌会の歌誌「にしき江」同人有志らが建立された平和会館の入口近くの石碑の文字を見るやいなや早くも怒りが・・・。



第二次世界大戦最中、1945年5月7日に同盟国であったドイツが降伏して連合軍の攻撃が日本に集中するようになり攻防戦が激化。


当時、沖縄を本土の最前線と考えていた日本政府が水際で連合軍を撃退するために採られた特攻作戦。


1945年(昭和20年)4月6日から第一次航空総攻撃開始、先駆けること3月26日に米軍の慶良間列島への上陸がありそれに対しての軍上層部の計画した攻撃。


特攻作戦とは重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める作戦、パイロットは必ず死ぬ・・・という作戦。


この日だけで64名が特攻戦死。


最後の特攻攻撃が6月11日。


その頃は沖縄の守備隊はほぼ壊滅状態で特攻作戦もほとんど意味をなさないと軍参謀らは知りつつ・・・。



その2ヶ月後日本軍の降伏によって太平洋戦争が終結。


館内には特攻隊員を紹介する場所として1~9コーナーまでありますが、6月初め頃は沖縄の守備隊はほぼ壊滅状態で特攻作戦も縮小されつつある時期で最後の9コーナーにあたります。


たった2ヶ月の間に失われた若い命は1037名。


死後ほぼ全員が階級特進していて・・・まやかしの匂い。


もちろん陸軍のみの話ではなく海軍でも人間魚雷などあわせて4000名以上の命が失われています。


余談ですが、当時の参謀のひとりであった陸軍航空特攻の第六航空軍司令官・菅原道大中将は「諸君は生きながら既に神である。諸君だけを行かせはしない。最後の一機で本職も必ずあとを追う」と特攻隊を送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を「卑怯者!」とののしり、指揮棒で殴ったそうです。

そして終戦になり、「最後の一機で必ず」どころか、敗戦の責任を取って自決をすすめる参謀に「死ぬだけが責任を取ることではない」という言葉を残したそうです。


1969年に執筆した「特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官の回想」という文章では、特攻は「自発的行為」だったとし、「あの場合特攻すなわち飛行機を以てする体当たりは唯一の救国方法であり、それが我が国に於いて自然発生の姿で実現したことに意義があるのであって、功罪を論ずるのは当たらないと思う」と記したとあります。

そして96歳という長寿を全うされたそうです。

もちろん自決された参謀も絞首刑になった参謀もいましたが、菅原中将のような指揮官もたくさんいたそうです。

赦せぬと忿怒を胸に外に出づ平和会館に灼熱の陽が


特攻隊員らが出撃までの夜を日の丸に寄せ書きをしたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたという三角兵舎がほぼ当時のままに復元されて平和会館横の杉林の中に佇んでいます。

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実際の三角兵舎は幅約4m長さ約20mで黒土の土間の通路の両側に一畳幅の高さ2尺くらいの床があり、天井の中央部と両側の3ヵ所に電灯がぶら下がっていたそうですが、復元されたものは実際の寸法よりも幅は一回り大きく長さは半分ほどだそうです。

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天井から吊り下げられた裸電球の下、愛する人たちに最後の手紙を書いた若者たちの心情はいかに・・・言葉がありません。



知覧特攻平和会館観音堂への道の両サイドに並ぶ石灯籠。

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海に散った1036名分の慰霊灯籠を建立する計画がスタートしたのが昭和62年。

現在では1300基近くが建立されているそうです。


この名前も出身地も遺書も明らかな1036名の特攻兵士の遺影。


これはエンジントラブルや悪天候などのために3度の出撃を失敗に終って生き残らざるを得なかった板津忠正氏が不本意にも生き残った者の使命として特攻隊員の遺族を回り始めた結果の賜物でした。

板津氏は昭和48年頃から特攻隊員遺族を回りはじめ、多いときは3年間に10万kmも車で回ったといいます。

正直言って、最初は怖かった。
「なんでおまえだけ生きて帰ってきたのか!」と責められるような気がしてね。
ところが皆さん、「よく訪ねてきてくれた」と、わが子が帰ってきたかのように喜んでくれました。
一言で遺族を回るというが、それは湿舌に尽くしがたい苦労の連続であったと思う。
そもそも名簿なるものがないのだ。
進駐軍らの追及を恐れ、多くの特攻隊員は出身地を隠していた。
五十四年、定年を待たずに市役所を辞めて遺族捜しに専念しました。
私の心の支えは、特攻おばさんのトメさんでした。
挫けそうになると「あんたが生き残ったんは、特攻隊のことを語り残す使命があったからなんじゃないの」と励ましてくれました。
なんとかそのトメさんが生きているうちに、全員の遺影を集めるぞ、と頑張りました。
それがおばさんへの、知覧へのご恩返しと考えていたのです。
残念ながら、平成三年にトメさんがお亡くなりになった時は、あと三名だったんですよ。
悔しくってねぇ・・・・・・。
結局、平成七年にようやく千三十七人全員の遺影が揃ったのです


その後板津氏は平和記念会館館長に就任、遺品を寄贈されました。

私たちが平和記念会館で見たものは板津氏の汗と涙の結晶だったといえます。


陳列ケースに保管されている特攻隊員の最後の手紙には「皇國のため」という言葉がたくさん踊っていました。

天皇が統治する国。

すめらみくに。


洗脳の怖さを感じてしまいますが、そんな中で唯一といっていいほど現世への名残惜しさを婚約者に向けて正直に吐露している手紙がありました。

それが挙式を間近に控えていた穴沢利夫少尉の手紙。

・・・婚約をしてあった男性として、散って行く男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。
 「あなたの幸を希う以外に何物もない」
 「いたずらに過去の小義にかかわるなかれ。あなたは過去に生きるのではない」
 「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」
 「あなたは、今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界には、もう存在しない」
 ――今更、何を言うか、と自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってみたい。
 1 読みたい本
   「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
 2 観たい画
   ラファエル「聖母子像」芳崖「慈母観音」
 3 智恵子 会いたい、話したい、無性に。
   今後は明るく朗らかに。
   自分も負けずに、朗らかに笑って往く



今回は前書きがあまりに長くなったので、過去にアップした知覧関連の作品をご紹介して終ることにします。


水口文乃氏著『知覧からの手紙』 













佐藤早苗氏著『特攻基地 知覧始末記』 

未曾有の犠牲者を出した豪雨から三夜過ぎて嘘のような青空。


急に暑さが戻ってきましたが、豪雨被害にあった地域の方々はこれからがより大変だと想像します。


当地の西に位置する真備の被害状況がすさまじくテレビ報道を通してただ眺めるだけのジリジリした状態が続いています。

 
どうぞこれ以上被害が広がりませんように。




この災害が起こる少し前、牛窓の「瀬戸内美術館」に愛媛県松山市の「セキ美術館」から名画の貸し出しが展示されていると聞き、絵画仲間と観にいってきました。


松山市の道後温泉近くの閑静な住宅街の一角にある「セキ美術館」には一度行ったことがあります。


「子規記念館」のすぐ近く。



平成9年に開館した「セキ美術館」は印刷業を興した関定氏の子息にあたる関宏成氏が私財を投じて作られたそうです。


近現代の巨匠の作品約350点を年間を通じて入れ替えて展示しています。



今回はその「セキ美術館」から小磯良平・加山又造・ロダンの作品を中心に東山魁偉・平山郁夫・藤田嗣治・三岸節子・国吉康雄・梅原龍三郎・須田国太郎などセキ美術館の誇る日本画・洋画の作品を78点展示していて見ごたえがありました。 



展示の絵のこともさることながら、関氏のように小さな私設美術館を開放して買い集められた絵を広く市井の人々に見てもらう・・・資産の使い道としていいな~と。


大王製紙の会長だった御曹司がカジノで100億円以上のお金を使い果たしたという話題もありましたが、お金の使い方って本当に大切だと思いました。


お金に余裕があり贅を凝らした生活をしている人々をみると、不遇な人々に分けてあげてほしいといつも思ってしまいます。


昨日、yahooニュースを見ていると、このたび記録的な豪雨で甚大な被害が出た当地の倉敷市に、ファッション通販サイト「ZOZOTOWN」を運営する「スタートトゥデイ」が避難者用に衣類など約7000点を提供すると発表されていました。


スタートトゥデイの社長・前澤氏の決断だそうですが、前澤氏といえば昨年サザビーズのオークションでジャン・ミシェル・バスキアの作品を史上最高落札額の123億円で落札されたという話題がありましたね。


現代アートコレクターとしても有名だそうで、バスキアのほかにもアンディ・ウォーホールやロイ・リキテンスタインなどの作品を所有されているそうです。


生地の千葉に建設予定の美術館に飾るそうですが、バスキアの作品は一時期前澤氏が設立した公益財団法人現代芸術振興財団が主催する「第4回CAF賞入選作品展覧会」(東京・代官山)に登場していたそうです。


代官山に住んでいる娘が帰宅途中、道路に面したところに道行く人々が鑑賞できる状態で展示されていてびっくりしたと話していたことを思い出しました。


なんと太っ腹!





さて今回は東野圭吾氏著『人魚の眠る家』です。 


「娘の小学校受験が終わったら離婚する。
そう約束した仮面夫婦の二人。
彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前だった。
娘がプールで溺れた―。
病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。
そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。
過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか―」


プールでの事故により脳死状態になってしまった6歳の娘・瑞穂。


医師を前にして一度は脳死を受け入れて脳死判定、それに続く臓器提供に応じようとしましたが、その間際に瑞穂の指が動いたような気がして、延命措置を続けることにした薫子と和昌。



障害者のための機能補助をする機器の研究をしていた和昌からの情報を通して、薫子は懸命に瑞穂を蘇らせようとします。


脳死のまま安定した瑞穂を在宅で介護する薫子は周囲を巻き込んですさまじいばかりの執念で瑞穂を生ある人間として扱います。



一線を超えたかにみえる薫子の行動のすべてに肯定することはできませんが、自分がまったく同じ立場になったとき、薫子の行動を常軌を逸したと言い切れるか否か、と自問しながら読みました。



温みもあり髪の毛も爪も伸びる、体重も増える・・・そんなわが子をもう死んだものとして扱うことができるか?


難病で臓器移植のみが命を繋ぐ道と、臓器移植を待ち望んでいる子どもたちに提供できるだろうか?



理性ではもう助からないとわかっているわが子の体の一部が他の子どもにバトンされて命が繋がっていくというのはすばらしいことと理解していても諦めて臓器提供を決心するのはかなり難しいことと想像します。


「うちの家にいる娘は、患者でしょうか。それとも死体なのでしょうか」


わが子の生に一縷の望みを託してロボットのように瑞穂の動作までをコントロールする薫子の行動を通して苦悩する和昌が担当医に尋ねた言葉です。


「この世には狂ってでも守らなきゃいけないものがある。そして子供のために狂えるのは母親だけなの」


一方、薫子の言葉は母親ならではの靭さをもって真向かってきます。


父親と母親の違いだけでなく、脳死という重い問題に挑んだ著者の勇気にも敬意を表したいと思います。

あおぞらのふかいところに
きらきらひかるヒコーキ一機
するとサイレンがウウウウウウ
人はあわててけものをころす
けものにころされないうちに
なさけぶかく用心ふかく

ちょうど十八年前のはなし

熊がおやつをたべて死ぬ
おやつのなかには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ

  さよなら よごれた水と藁束
  たべて 甘えて とじこめられて
  それがわたしのくらしだった

ライオンが朝ごはんで死ぬ
朝ごはんには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ

  さよなら よごれた水と藁束
  たべて 甘えて とじこめられて
  それがわたしのくらしだった

象はなんにもたべなかった
三十日 四十日
はらぺこで死ぬ

  さよなら よごれた水と藁束・・・・・

虎は晩めしをたべて死ぬ
晩めしにも硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ

  さよなら よごれた水と・・・・・

ニシキヘビはお夜食で死ぬ
お夜食には硝酸ストリキニーネ
まんぷくして死ぬ

  さよなら よごれた・・・・・

ちょうど十八年前のはなし

なさけぶかく用心ぶかく
けものにころされないうちに
人はあわててけものをころす
するとサイレンがウウウウウウ
きらきらひかるヒコーキ一機
あおぞらのふかいところに


(岩田宏第三詩集『頭脳の戦争』の中の「動物の受難」より)


第二次大戦末期の1943年8月16日、住民の危険防止という名目の下、当時の東京都長官・大達茂雄から全猛獣殺処分命令が下り、上野動物園を皮切りに猛獣たちが毒殺されたという史実に基づいて編まれた詩。



戦時下において動物園の猛獣が逃亡して人間に被害を及ぼすのを未然に防止する目的で殺処分することを戦時猛獣処分といったそうです。


人間の都合だけで毒殺や餓死に追い込まれていった多くの猛獣たち。


淡々と書かれた詩から人間の残酷さに対する怒りが伝わってきて胸が苦しくなってしまいます。


東京都長官になったばかりの大達茂雄都長官着任前には日本軍占領地のシンガポールで軍政を担当していたため、戦況の悪化を熟知しており、疎開などの本土空襲対策に熱心であったことから、猛獣処分を命じた大達の真意について、上野動物園長だった古賀忠道は被害予防というよりも国民の危機意識を高めることにあったのではないかと推測していたそうです。


時系列で表すと、殺処分が行われたのは1943年8月16日。


東京は1944年11月24日以降106回の空襲を受けたが、特に1945年3月10日の大空襲では10万人以上の死者と100万人以上の罹災者を出しました。

こうしてみると殺処分が行われたのは東京が空襲を受ける一年以上前。


この時系列を通して、この殺処分はいたずらに国民の不安感を煽り、一致団結して敵に立ち向かうという国民の士気を高めるためのものと見ることができる・・・


先日当地で開催されたアーサー・ビナード氏の講演会で投げかけられたものです。


アーサー・ビナード氏について

1967年、米国ミシガン州生れの詩人・俳人、随筆家、翻訳家
コルゲート大学で英米文学を学び、来日と同時に日本語で詩作をはじめる
2001年、詩集『釣り上げては』で中原中也賞
2005年に『日本語ぽこりぽこり』で講談社エッセイ賞
2007年には『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』で日本絵本賞を受賞
現在広島市在住
九条の会会員


続いて有名な『かわいそうなぞう』に込められた戦時下の軍上層部の意図についての指摘があり、あらゆる事象について真実を見極める目を持とう!と締めくくられて会は閉じられました。



土家由岐雄氏著&武部本一郎氏絵『かわいそうなぞう』  


「戦争中、上野動物園で三頭のゾウが殺されました。
これは本当にあった悲しいお話です。
毎年終戦記念日に評論家の秋山ちえ子氏が平和への願いをこめてラジオで朗読し、テレビでも紹介された名作」


ほとんどの方が本書を読まれたことがあると思います。


奥付けによると1970年の初版以来、170刷と版を重ねて読み継がれている名著。



ジョンとトンキーとワンリー(別名花子)という3頭のインド象の物語。


あばれんぼうのジョンとやさしいトンキーとワンリー。


象の飼育係はあばれんぼうのジョンの処分はいたしかたないと思っていましたが、性格が優しいトンキーとワンリーは何とか救いたいと園長に懇願するも東京都長官によって拒否されて悲しい結末になったのでした。


最後に餓死したトンキーは絶食開始から30日という長い苦痛の末、あの世へと旅立ちました。


こうして書きながらも、思い出すだけでも苦しくなる内容の作品。


身勝手な都合で捕獲され、故郷から遠く離れた檻に入れられ、人間たちの見世物になり、挙句に身勝手に起こした戦争に巻き込まれた末、抵抗することも許されず殺された動物たち。


あの戦争から70数年たっているというのに相変わらず私たちは動物を含めた他者の苦しみや悲しみにあまりに鈍感であるがゆえの数々の不幸を手を拱いて見ているような気がします。


新聞やマスコミなどの報道、書籍などからおびただしい情報があふれている昨今、自分の目で見て、自分の触覚を磨いて真の情報をキャッチするアンテナを磨かなければと思います。

この作品を通して受け取る深い悲しみを無駄にせず未来の平和へと繋げていきたいというのが切なる願い。


6月28日の満月。

「ストロベリームーン」とはネイティブアメリカンがつけた「6月の満月」の俗称だそうです。

アメリカでは6月はいちごの収穫時期であることに加えて、月が赤みがかっていることから、そう名づけられたのだそうです。

また「ストロベリームーン」には「恋愛運が上がる」、「大好きな人と結ばれる」というジンクスもあるそうです。

若い人たちにとってはすてきなストロベリームーン・・・ちなみに厚い雲がかかっていて我が家のベランダからは見えませんでした・・・これは渋谷に住む娘が撮った月。


88882d0d.jpg
カメラが趣味の次男のフィアンセが撮ったあじさい




さて今日のレビューは相場英雄氏著『トラップ』です。 


「知能犯と対峙する警視庁捜査二課の若手刑事・西澤を描いた前著『ナンバー』からつづく物語。
経験をつみ、成長した西澤が新たな事件にのぞむ!
犯罪者の心理や犯罪の手口、捜査にかける警察官の思いなど、リアルでディープな描写が生きる警察小説」



警視庁捜査二課で知能犯を追う若き刑事・西澤を主人公の「ナンバー」シリーズ第二弾の作品。


『ナンバー』 → 『トラップ』 → 『リバース』へと続きます。


主人公・西澤が所属する捜査二課は贈収賄や企業犯罪などのいわゆる知能犯を追う部門。


殺人、強盗、放火、誘拐、強姦、強制わいせつ等の重要犯罪をはじめ、傷害、恐喝等の粗暴犯罪を扱う捜査第一課や、暴力団、 銃器や違法薬物の使用・密売買、日本の外国人による犯罪対策を扱う捜査第五課に比べると地味な捜査を基本とする二課に配属された西澤が失敗を重ねながら徐々に刑事として成長していく姿を追ってます。


『ナンバー』では頼りなかった西澤も本書では危うさは見られるものの成長の証もところどころに見られ頼もしくなりつつあると思いきや読みの浅さが露呈して最後には立場が危うくなったところで終了。


主人公が所属する真藤警部チームは解体となり、目白署に飛ばされることになった西澤。


次作『リバース』へと挽回が持ち越されることになります。


その中でも相変わらず上司の真藤のかっこいいこと!


主人公に与えるアドバイスがあまりに哲学的で、それを理解できるようになる西澤の成長をひたすら期待するのみ。



本書のタイトル「トラップ」の意味するどんでん返しともいえる事象はラストに終結していますので、興味ある方はぜひお読みくださればと思います。

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