
晩秋の里のゆふぐれそこここに柿の実朱き灯となる
夫の転勤についてフン族の移動よろしく全国をウロウロしていた我が家。
子どもたちにも幾度となく転校を強いて・・・子どもの世界には親に言わなかった様々なことがあったと思いますが、とりあえず育ってよかった!
それにつれてわたし自身も定職に就くという選択肢がなかったので、塾や添削員などと並行して、30数年続けていたのが英語の学習参考書&問題集の校正の仕事でした。
書店などに並ぶ大手出版社の校正を請け負う子会社の発注によって全国どこにいてもできる形式で内職として毎日毎日追い立てられるようにしていた校正。
内職・・・今風にいえばフリーランスの校正者。
阪神淡路大震災のときも数百枚のゲラを抱えての校正途中だったので自宅からすぐにゲラと財布と預金通帳を抱えて近くの小学校の校庭に避難したのでした。
当時は携帯電話もなかったので、学校前の公衆電話に殺到した被災者の長蛇の列に並んで朝いちばんに会社に電話したのを覚えています。
ゲラを校正途中で送り返した唯一の事例。
英語の学参の校正といっても、英語のスペルチェックだけではなく、参考書丸ごとなのでそれは気が抜けない仕事でした。
細かく言えば「。」や「、」、「?」などの句読点や疑問符でもフォントやポイントによって微妙な違いがあり、それを見つけて統一。
特に大変なのは出版社によって表記にそれぞれ好みがあること。
ベースは全国エリアの大手新聞社の表記でしたが、「こどもたち」でも「子どもたち」「子供たち」「子供達」などそれぞれの出版社表記に統一することも大仕事。
日本語の各辞書、広辞苑、そして英語辞典を引きまくりながらの作業。
〆切が迫ると、移動中の電車の中でも待ち合わせ場所でも、いつかは名古屋駅のコンコースの壁に座り込んでやっていたこともあります。
執筆者が書きなぐったような原稿を受け持つ第一校正は赤入れの宝庫のような感じですが、経験と共に後に任されていた最終校正でもけっこうな赤入れがあり、見つけたときの嬉しさは格別でした。
リタイアしてほぼ十年、もうどんな文章を見てもミス表記が独特の光を放って見えるということも次第になくなり・・・それどころか自分の書いている文章もものすごくいい加減になっているのが恥ずかしいくらいの昨今となりました(ーー;)
こんなことを思い出したのは本日ご紹介する作品の執筆者のおひとりー校正者ーが仕事内容について言及されていた文を読んで懐かしくなったからでした。
『本を贈る』
「本は『商品』として工業的に生産、流通、消費されている。
しかし、それは同時に、宛先のある『贈りもの』でもある。 作家から取次、本屋まで、『贈る』ように本をつくり、本を届ける10人の手による珠玉の小論集」
若きブロ友であるやーちゃんさんお勧めの一冊。
図書館本として読まれたやーちゃんさんの「買ってそばに置きたい本」との言葉を見て、それではと早速買ったのでした。
やーちゃんのブログ → ★
執筆者の10人は編集者、装丁家、校正、印刷、製本、取次、営業、書店員、本屋、批評家。
一冊の本を私たち読者の手に届けるためにこれだけ多くの人々が真摯に真向かっていることを思うとどんな一冊であろうと疎かにはできないと思います。
といいながら移動用の文庫本を読んだあと、降りた駅のゴミ箱に捨てたこともあること、すみませんでした。
目次
本は読者のもの / 島田潤一郎(編集者)
女神はあなたを見ている / 矢萩多聞(装丁家)
縁の下で / 牟田都子(校正者)
心 刷 / 藤原隆充(印刷)
本は特別なものじゃない / 笠井瑠美子(製本)
気楽な裏方仕事 / 川人寧幸 (取次)
出版社の営業職であること / 橋本亮二 (営業)
読者からの贈りもの / 久禮亮太 (書店員)
移動する本屋 / 三田修平(本屋)
眠れる一冊の本 / 若松英輔 (批評家)
著者、編集、校正、装丁、印刷、製本、営業、取次、書店員、本屋。 書き手から売り手までの10の職種のそれぞれから選りすぐった、本を贈る「名手」たちによる書き下ろしエッセイ集ができあがりました。
類書はありますがインタビューものばかりですが、本書は本人のことばにこだわりました。 ほとんどの著者は執筆を本業していないどころか、得意でもありません。
だからこそ、心の声に向き合ってもらえるようにじっくり時間をかけて 執筆をしてもらいました。(版元から一言)
執筆者のトップバッターは編集者・島田潤一郎氏。
「ぼくは具体的な読者のために仕事をしたい。
マーケティングとかではなく、まだ見ぬ読者とかでもなく、いま生活をしている、都市の、山間の、ひとりの読者が何度も読み返してくれるような本をつくり続けたい・・・
かんたんに言葉にできることは話して伝える。
言葉に残したいときはメールで書く。
それよりも気持ちを伝えたいときは手紙を書く。
でも、もっともっと大きなものは、本という形をとおしてそのひとに手渡したい」
わたし自身も特定のひとに「本を贈る」ということをときどきしています。
自分が受け取ったその本のなかにあること丸ごと伝えたいと思う相手があるとき。
本のバトン・・・そのひとがわたしと同じような感性で受け取ることをまったく期待しないといえば嘘になりますが、その一部でも共有したいという思いはあります。
島田氏が書かれている、声よりメールより手紙より「もっともっと大きなもの」を本の中に見つけられたら最高の贈り物になると思いながら・・・。
元校正者のわたしにとってやはり興味深かったのは三番手に登場の校正者・牟田都子氏の項。
誤植を見つけることを「拾う」、誤植を見落とすことを「落とす」といいます。
校正者にとってけっしてやってはならないことは「落とす」こと。
そのためにはどんな文章でも必ず間違いがあるぞ、という意気込みと疑いの目でなぞることが要求されています。
それでも必ずといっていいほど「落として」しまう。
加えて辞書を引くという確認作業・・・牟田氏も辞書を引いて引いて引くという作業に言及されていて思わずうなずいてしまいました。
牟田氏の文章の中に岩波書店の初代校正課長を務め、「校正の神様」と呼ばれた西島麦南氏の言葉が紹介されていて興味深かったです。
「私のところにはたくさん校正の係がいますが、今でも私がいちばん辞書を多くひいているようです・・・自分は何も知らないが、ただ『知らないということを知っている』ということだけはわきまえているつもりなので」
余談ですが、わたしがリタイアしたのはあまりに辞書を引くという煩雑な行為に目も指も心も疲れ果てたのが大きな理由でした。
そして「出すぎた鉛筆」・・・これには校正と校閲との違いを叩き込まなければなりません。
現在、わたしは昔とった杵柄で所属するグループの歌誌の一部を校正していますが、ついつい「出すぎた赤」を入れがちになっては自分を諌めることしきり。
メンバーの方の書かれた文章を校閲したいという気持ちを抑えるのに苦労しています。
思わぬ校正の項で長くなってしまったので、そろそろ終わりたいと思いますが、出版社と書店を繋ぐ「取次」という仕事について言及されている川人寧幸氏の仕事内容や書店員・久禮亮太氏による「スリップ」についてなど、今まで長く本を読んできて知らないこと満載の本書。
ちなみにスリップとは新刊書に必ず挟まれている二つ折の細長い伝票。
書店での会計の際、レジで店側が抜き取るものは「売上スリップ」と呼ばれているそうです。
「売上スリップ」の束は書店にとってさまざまなお客様情報を含む貴重な情報源となるそうです。
片面が「売上カード」、もう片面が「補充注文カード」、それぞれ売上を管理したり、出版社や取次に発注するためのもの。
以前はスリップは書店が抜き取って手渡してくれていましたが、最近はつけたままの本も多くなって・・・わたしは栞代わりに使っていたこともあります。
↑これは夫が栞代わりに使っていたもの。
今では多くの書店がPOSというデジタル管理システムを取り入れて売上げなどを管理しているので、売上スリップを回収する必要がなくなったそうです。
いままでは買ったと同時にゴミ箱行きだったスリップも時代の趨勢によって不要な存在になったのを知れば、何だか懐かしい・・・愛しい存在に思えてくるから不思議です。
本好きな方、ぜひ手にとって読んでほしい一冊です。