![1487309944[1]](https://livedoor.blogimg.jp/hir321/imgs/e/d/edc9d8f7-s.jpg)
届けたき想ひはわれに任せよと皇帝ダリア高空に咲く
長く貝絵をされている友人Aさんの作品を見せてもらいました。
何年か前わたしの短歌が朝日歌壇に掲載されたとき記念にと拙歌を描いた貴重な貝絵をプレゼントしてくださったことがあります。
はまぐりを代表とする二枚貝を美しく磨くことから始める貝絵の工程の大変さを知るとあだや疎かにできないとしみじみ思います。
それくらい大変な作業。
下地だけでも塗っては乾かし塗っては乾かしを繰り返す・・・
そしてやっと構図に移るそう。
平らな表面ではなく、ゆるくカーブしている面に緻密な絵柄や字を描くのは至難の業。
想像するだにため息が出ます。
わたしには絶対に無理(ーー;)
平安時代から始まった貝合わせという典雅な貴族の遊びのための道具立てが起源といわれているそうですが、日本人の根気と器用さがこのような芸術を支え続けているんですね。
写真の「さくら」は桜が大好きなわたしの友人SさんのためにAさんが描いてくださったもの。
すてき桜の絵柄に桜に目がない友も大喜びです。
「テレビ制作会社で働く小野は、ある日耳にしたビオラ奏者柳原園子の演奏に魂を揺さぶられ、番組制作を決意する。
天才少女の栄光と挫折を追ったドキュメンタリーは好評を博し、園子も一躍スターになるが、経歴詐称疑惑が発覚して……。
感動と視聴率のはざまで揺れるテレビ制作現場の複雑な人間模様を描きながら、「人の心を打つ」とは一体どういうことなのかを問いかける、今こそ読みたい社会派小説」
1990年『絹の変容』で第3回小説すばる新人賞
1997年『ゴサインタン』で第10回山本周五郎賞
1997年『女たちのジハード』で第117回直木三十五賞
2009年『仮想儀礼』で第22回柴田錬三郎賞
2011年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞
2015年『インドクリスタル』で第10回中央公論文芸賞
2019年『鏡の背面』で第53回吉川英治文学賞をそれぞれ受賞
著者の作品は社会的に問題になっているものにフォーカスしたものも多く、それぞれに異なった趣のある力作揃い。
本書は2006年の作・・・チェロが趣味という著者ご自身の興味を土台にした作品といえます。
音楽に関する作品といえば本書に先がけて1992年『マエストロ』、1996年『カノン』、1998年『ハルモニア』を上梓されていて、本書が4作目。
それらはヴァイオリニストやピアニストを主人公の物語でしたが、本書はヴィオリストが重要な役柄で登場。
かつてバイオリンの天才少女として権威ある賞を受賞したことのある柳原園子の栄光~挫折~栄光~挫折という変遷と、その奥に潜む人間の業のようなものを描いています。
先ごろブログでアップした同氏の『鏡の背面』とある意味似通ったところのある作品。
日本人の気質というか、タピオカがブームになれば一億総出でタピオカ、『ボヘミアン・ラプソディ』がすばらしいといえばこぞって映画館に足を運ぶ・・・わたしもそのひとりですが・・・日本中を感動の渦に巻き込むのも速ければ、SNSで誰かが投げかけた疑問に共鳴すれば、今度はとことん失墜するまで槍玉にあげる・・・
戦後日本中が一丸となって復興を果たしたよき気質もオセロをひっくり返すように一瞬にして反転すると怖い側面を持っています。
今から20年ほど前にピアニスト・フジコ・ヘミングを紹介したドキュメンタリー映像「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が大反響を呼び、フジコブームが起こったことを覚えていらっしゃる方も多いと思います。
その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録したそうです。
〈ラ・カンパネラ〉が大好きなわたしはそのときの流行に乗ってコンサートに行ったのを覚えています。
力強さはあるもののミスタッチがかなりあり、ちょっと繊細さに欠ける演奏でしたが、ダイナミックな魅力がありました。
本書はマスメディアに乗って華々しくデビューした当時のフジコ・ヘミングを彷彿とさせる内容。
著者もきっと頭の隅に置いていたものを題材としてふくらませたのではないかと思える作品。
当時、みんながこぞって感動したフジコ・ヘミングの演奏は長い不遇という恵まれない時代を背景に多少色づけされたものも含めての感動だったかもしれません。
名演奏家が与えてくれる感動は、受け取る側のわたしたちの感性に負うところ大ですが、世間の評価は別として受け取るわたしたちが感動すればそれで終結するものであろうと思えます。
ゴッホの絵を観て基礎がまだ定まらない未熟な絵ととるか、荒々しい激情の迸りを感じる新鮮な絵ととるかは受け取る側の感性の問題だと思います。
そこには芸術的な基礎云々が必要なのか。
本書の物語を牽引するもうひとりの主人公であるテレビ制作会社の小野がある日、業界でも定評のあるCD制作会社の社長・熊谷に誘われて小さな教会のコンサートに行くところからこの物語が始まります。
クラシック音楽に門外漢の小野がそこで演奏していたヴィオリスト・柳原園子のシューベルトの〈アルペジオーネソナタ〉に思いもかけず深く感動したことからこの物語が予想だにしない方向へと動き出すのです。
かつて学生音楽コンクールで優勝し、天才少女ヴァイオリニストの肩書きを貼られ周囲の期待を肩に背負い米国に音楽留学しながら、文化の違いや教師との軋轢を通して孤独を深めた結果の自殺未遂の果てに帰国、以後数十年苦しめられていた後遺症のため長く音楽から離れていた園子がある著名な老音楽家との奇跡的な出会いによってヴァイオリンからヴィオラに転向して小さな教会で音楽活動をスタートさせたという経緯。
園子の演奏に深い感動を覚えた小野は過去の彼女の経歴ににわかに興味を持ち、現実の彼女と対面してその純粋さにますます感動、彼女を主役にドキュメンタリー映画を制作したいという職業的な気持ちが高まります。
さまざまな苦労を乗り越えて世に出した結果・・・喝采と同じくらい、過去の園子の経歴詐称や演奏家としてのレベルの低さ、愛人問題などの真偽取り混ぜた噂が飛び交い、自分の目と耳で受け取った園子自身の像と紡ぐ音楽に対する虚像と実像の乖離の狭間で揺れる小野。
「園子の音楽には、心を揺さぶる圧倒的な力があった。
数々の試練を経て再生した魂が、他者の苦しみに、哀しみに、共感し、救いへと導く力。
あの中傷は、聴衆のこの力への畏れだったのではないか。
いったい音楽とは何か、何のためにあるのか」
嵐のような騒動のさなかの小野の述懐です。
自分の共鳴を信じ、世間からやらせと叩かれても園子を庇う小野の心情がよく表れています。
技術が芸術家としての許されるレベルまで達していなくても、聴衆のうちの何人かの感動が得られればそれがそれらの人々にとっての唯一無二の演奏や作品ではないか・・・わたし自身はそう思うのですが・・・。
言葉をかえれば、作品や演奏自体に〈ほんもの〉とか〈にせもの〉という区別はあるのだろうか・・・門外漢のわたしの疑問です。
ラストはとても重いものになっていますが、もし興味ある方は手に取って読んでいただければと思います。