いい方のなぎさ

短歌をしていると、歌の種を見つけるのに四苦八苦することがよくあります。


短歌をされているみなさんどのようにされているのでしょうか。

 

散歩や旅に出て情景を詠んでみたり・・・

 

他の歌から刺激をうけたり・・・

 

わたしはテレビや新聞などの報道を通して感じる怒りとか失望を

歌に託すということがいちばん自然に詠めるかな、と思います。

 

短歌関係のことを調べるのにネットサーフィンをしていて、

ときどき無性に読んでみたいと思う歌集に巡り合うことがありますが、

買おうにもとにかく歌集と名のつくものの値段の高さに手が出しにくい!

 

世間的にも有名な歌人の歌集でないかぎり図書館にもないし、、、

 

ということで格安サイトなどを検索して、なければしばらく時間を置いて、

それでも覚えていてほしいと思えたら買おうと決めています。

 

そんなこんなで最近手に入って嬉しかった歌集。

 

某サイトで500円で買うことができたのはラッキーでした。

 



汀の時
窪田政男氏著『汀の時』
 

 

ひたすらに泣きたくなるの透きとおるエレベーターで昇りゆくとき 

やはり、この歌が気になる。

その「場所」、この歌の主人公である「私」の「立位置」など、すべてが読者の任意となる。

多様な私が紡ぐ、ダイアローグの可能性を思う。

とまれ、ひとりへの記憶の断片を拾い上げるように、ゆっくりと、しかし実に精緻に物語は進行してゆく・・・(福島泰樹)より

 

想像していたとおりの透明感のある歌の数々。

 

ゆくだろう人恋うことも捨つるのもかなわぬ夜が寄せるみぎわへ

 

この一首から採ったと思われるタイトルの『汀の時』


陸と水
の境界である汀


〈生と死〉という対極を意味するものの唯一の接点としての汀。


此岸と彼岸〉〈現世と来世〉と言い換えてもいいかもしれません。


岡部隆志氏の解説によると、
若い頃の過度の飲酒癖からアルコール依存症へと移行、
49歳頃から治療を始め、以後現在に至るまで一滴の酒も口にしていないという。


短歌を始めたのは治療の途上にあった
51歳のとき。


偶然手に取った
福島泰樹氏の歌集風に献ずに天啓を受けたのがきっかけという。


季節に沿って逆編年体で構成された作品群です。


アルコール依存、骨髄増殖性潰瘍と不治の病を二ついただく


利き腕も左の腕もさしだして神のよだれのごとき点滴


終活のひとつにせんと
S席のキース・ジャレットをいちまい求む


呻きながらピアノを弾くことで有名なキース・ジャレットという
選択も著者らしいといえば著者らしい気がする歌、ややマッチしすぎ感あり。


これらを読むと『汀の時』というタイトルが著者の人生の立ち位置を表す語として
明確な意思を以って付けられていることがよくわかります。


漠然とした死の予感などを詠んだ歌は数々見られるし、わたし自身も作りますが、
すぐそこに迫っているような感覚の歌に対峙したとき、
言葉を失ってしまうという感覚を久々に味わった歌集。


この歌集を読んでいて、米本浩二氏による石牟礼道子氏の評伝『渚に立つひと』を思い出しました。


窪田氏も石牟礼氏と同じようにこの世とあの世のあわいで
ぎりぎりの命を見つめそしてたまゆらの生を確認しながら詠っている魂の歌。

目を曳いた歌をランダムに抽出してみます。


シュメールの忘れ去られた猫のよう青い眼の咲く日暮れがくるの

 

ひたすらに泣きたくなるの透きとおるエレベーターで昇りゆくとき


そう、たとえば机のうえのノートにもはにかむような血の痕がある

その日には足すもののなし石蕗の黄の花びらの欠けてあれども

舌を垂れ涎を垂れて犬のごと上目遣いのいち日のあり

もう一度ひるがえる旗たれのため死ねと言うのか誇りにまみれ

いやそれはどうでもいいのさ生きている生きていないの以外のことなど


西日入るキッッチンにごろんとわたくしの半生がうち捨てられてある


一人称だけでも〈
ぼく〉〈わたし〉〈わたくし〉〈おれ〉で語られているそれぞれ。


ときおり女言葉になっている意図を問うてみたい気がします。


ああ五月きみシシュポスの風の吹くたれのためにぞ揺れる雛罌粟

 

これからは腹話術の時代がくるよわたしでもないあなたでもない

臆病なおとこでいたし八月の空より青く迫りくるもの

ひと雨に花となりゆく六月の杳き眼をしたぼくのそれから


御堂筋われらが夜の反戦歌スワロフスキーの沈黙を過ぐ


検索していて著者のものと思われるブログを発見、隅のプロフィール欄に
九条の会と記されていたのでこの歌も印象深くピックアップしてみました。


短歌
うたう心さがせば開かれたハンマースホイの扉の向こう


ハマスホイの描く扉の向こうから差しくるひかり。


ひかりの道すじには何があるのだろう、
決して希望とはいえないような諦念のようなものかもしれない・・・


木をはなれ地につくまでの数秒の祈りの坂をぼくは下りぬ


あの角を曲がればいいのね残り香に切なく日々が終わるとしても


いつの日か黒い小舟に乗せられて渡る河見ゆ胸に花束

 

これらは常々わたし自身が詠んでみたいと思いながら手が届かないテーマの歌ばかり。


同じように宿痾を抱えておられた故小中英之氏の歌を思わせる雰囲気。


どれも将来必ず来るだろう死というものを根幹のテーマにさまざまな表現で肉付けしている

・・・だからこそ深く心を打つ一連となっています。


木漏れ日はやさしかりけり来し方を問わずに遊ぶ手のひらの上を


見おさめともう見おさめと過ぎる日の退屈きわまりなき愛しさ


わたしも退屈きわまりない日々の愛しさを実感しています。