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ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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カテゴリ: 柳田邦男

友人が夕方摘みたてのクレソンを袋いっぱい持ってきてくれました。b56bb0bb.jpg


きれいに洗って処理し、さっそく夕食におひたしとサラダを作りました。

青々とした春の香りが一挙に口に広がって幸せなひとときでした。




友の摘みしクレソンの香の青青(せいせい)と厨とわれに春の顕ちくる



さて本日は柳田邦男氏著『新・がん50人の勇気』をご紹介したいと思います。


「刻一刻と迫り来る死を前に、人はいかに生きるか。
永遠の命題への答を求めて、著者は作家・俳優・音楽家・学者・僧侶・企業人など、五十余名の『生と死』のかたちと向き合う。
最期の瞬間まで生を全うした人々の胸を打つ感動のドキュメント。
幾多の病苦に遭遇しつつも、『生』と『死』のはざまで神々しく生き抜こうとした人々の足跡を辿る!」




1章 武満 徹
2章 山本七平
3章 井上 靖・山口 瞳・澁澤龍彦・白石一郎・手塚治虫
4章 昭和天皇
5章 丸山眞男・中川米造(大阪大学医学部)
6章 千葉敦子・宮崎恭子(仲代達矢奥方)・森 遙子・重兼芳子・長尾宜子(建築家)
7章 米原万里・絵門ゆう子・山本夏彦・高坂正堯・米山俊直・矢内原伊作(哲学)
8章 野間 宏・黒田 清(新聞記者)・日下雄一(TV朝日フ゜ロテ゛ューサー)・五味康祐・
石井真木(作曲家)・青木雨彦
9章 高田真快(真言宗住職)・高田好胤(薬師寺管主)
10章 河邉龍一(三菱重工造船所)・河毛二郎(王子製紙社長)・大川 功(セガ会長)・
美川英二(横河電機社長)・森 武志(タトル・モリ社長)
11章 音羽信子・杉村春子・本田美奈子
12章 ハナ肇・芦田伸介・越路吹雪・淀かおる(宝塚)・上月 晃
13章 長 新太(絵本作家)・谷岡ヤスジ・馬場のぼる(マンガ・絵本)・青木雄二(マンガ家)
真鍋 博(イラストレーター)
14章 村山 聖・森 千夏(女子砲丸投げ)・黒沼克史
15章 上野英信(記録作家)・国分一太郎(児童文学者)・いかりや長介・三木のり平・城達也


NHK報道記者退職後、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作『マッハの恐怖』をスタートに、本書の先駆けとなる『ガン回廊の朝』など一貫してノンフィクションの世界で活躍されている著者の最新作です。


前作『ガン50人の勇気』から約30年という歳月ののちの本書は続編という位置づけ、日本人ならではの死生観をより深く追った濃密な物語が詰まった作品となっています。


「死」を「充実した」「豊かな」などの装飾語をつけて表現するのは躊躇するものがありますが、本書に登場する人々のそれは豊饒と形容するにあまりある死が数多あり、それぞれに深く心を打たれました。


母という現世とあの世の大きな防禦壁であった存在を亡くし、死というものが風通しのよいすぐそこに迫っているものになっている自分にとって「メメントモリ(死を想う)」のいい機会になりました。


これからも繰り返し再読したい一冊。


人生の途上で余命と向かいあわなければならなかった本田美奈子を初め、村山聖や森千夏、黒沼克史の死は無念以外に著す言葉が見つかりませんが、まっすぐに死に立ち向かう姿は神々しく、周りの人々に確実に人生に立ち向かう力を継いで逝ったことに圧倒されます。


前作『ガン50人の勇気』と30年の歳月を挟んだ本書とを比べてみるとき、がんに対する弛まない医学者の挑みの結果の生存率の急激なアップを通して、病名の告知がなされるケースが大半になったという違いが挙げられます。


加えて終末医療の進歩によって痛みに対する緩和ケアが進み、末期を受け止めた患者には自らホスピスでのケアを求める人も増えてきているという現状があります。


病名の告知という問題がもたらす問題点は患者を中心にして医療従事者や家族に意識の変革を促したのはいうまでもありません。


患者の遺された時間の長短にかかわらず、その貴重な終末を家族や友人が寄り添い、患者も心を合わせるという交流はやはり告知なしでは難しいのではないでしょうか。


自分がその立場になったとき告知は必須と周囲には言っていますが、人それぞれの考えがあるかもしれません。


本書に登場する人々ははからずも著名人ばかりですが、著名というフィルターを外してもなおそれぞれの最期の輝きのすばらしさに触れて胸がいっぱいになりました。


「厳粛な死が最大の遺産」

人が残す大事な遺産とは金銀財宝などではない、厳粛な死によって、後を継ぐ者が死者に申し訳がたつような生き方を目指すようになった時、その厳粛な死こそかけがえのない遺産と言うべきものだといわれた大本山薬師寺の管長・高田好胤の言葉のような死を全うできる人間に少しでも近づきたいものです。

地デジへの移行まであと数ヶ月になりましたね。

政府から地デジ計画書が配られたとき2011年は遠い先の話と思っていたのに・・・やってきました。


先日テレビのクイズ番組で地デジにする目的について解説していましたが仕組みに弱い私にはわかったようなわからないような。

携帯の利用者がすごい勢いで増え、周波数が逼迫するようになったのも一因とか。


アナログTVは無駄に多くの帯域を使っているので効率のよいデジタル化で大規模電波使用帯域再編を図ろうというものだそうです。

放送サービスの高度化、電波の有効利用、情報と通信の融合、関連産業の発展による経済効果も見逃せないといいます。


我が家の2台のテレビとビデオは昨年のうちに地デジ対応にしましたが、まだこれからという人も多いようですね。


何が何だかわからないまま国の方針でテレビの買い替えなどを余儀なくされることに対する戸惑いや不満の声が新聞の投書欄に載っていましたが、生活を維持するだけで精一杯の経済状態でもうテレビを観る楽しみは諦めざるを得ないという高齢者の方もいて、理不尽を感じてしまいました。


現代の楽しみの必須アイテムといえば、テレビ、パソコン、携帯電話など、まさに電脳社会ですね。


特に携帯電話でいえばわずか10年ほどの間に地位がどんどん上がっているのには驚くばかりです。


電車に乗ると座席に座っている人の半数以上は携帯を操作しているという状況、いまや歩きながらや自転車や自動車を運転しながらはよく目にする光景です。

かくいう私も携帯電話を忘れて旅に出るなど考えられない昨今です^^;


大人はまだ抑止力があると思いますが、特に中高生から携帯電話やゲームなどを切り離すことの難しさを考えると親御さんの大変さがよくわかります。



本日ご紹介するのは、そんなインターネットや携帯に依存する青少年への警鐘てんこ盛りの内容の本です。



柳田邦夫氏著『生きなおす力』


「新潮45」に連載されたエッセイを単行本化したものの第5弾、第1弾~4弾は次の通りです。

「壊れる日本人」「石に言葉を教える」「人の痛みを感じる国家」「気づきの力」


「倒産、解雇、ワーキングプア、老々介護…この困難な時代を我々はいかに乗り越え、生きていけばいいのか。どうすれば大切なものを見極め、守っていけるのか。現実に打ちひしがれながらも懸命に再生した人たちを追うとともに、その背後に横たわる、現代社会の問題点を痛烈に説く」



携帯電話やインターネットの及ぼす弊害についてさまざまな場で語っていらっしゃる著者ですが、本書でも序盤で痛烈な批判論を展開しています。


提言というには少々過激な内容、携帯電話やインターネットの野放しの氾濫が近年の青少年の犯罪の凶悪化を導いていると断言しています。


一理も二理もある提言、青少年の活字離れやゲームやネット依存などによる成長期の害について懸念するところですが、携帯電話やインターネットが21世紀の負の遺産と言い切るにいたっての過激さにはさすがに首を傾げてしまいます。


最近の著者の作品の傾向としてある事象を追い詰めて決めつけるというパターンが感じられるのは私だけでしょうか。


本書では特にマイナス面ばかりの強調が目立ちますが、その打開策として絵本の読み聞かせやノーテレビデーなどの提案には共感を覚えます。


タイトルの「生きなおす力」とはすなわち「さまざまな挫折を乗り越えて生きなおす力」であると解釈しますが、こういった力を蓄えることは人生において重要課題だと思います。


ご次男を自死によって失われた経験を通しての深い闇の底からの生還という経験を通しての言葉にはさすが説得力があります。


ご次男の自死のドキュメンタリーとして上梓された『犠牲』はあらゆる読者層の涙を誘ったベストセラーとなりましたが、その表紙を担当された絵本作家の伊勢英子さんと再婚されたことを知ったのは数年前、まず疑問に思ったのは長い間強度のうつ病で入退院を繰り返していらっしゃった奥様はどうされたのかということでした。


亡くなられたということも書かれていないので一読者としてとても不思議です。


柳田氏の作品を通して受ける真摯な誠実な姿勢が好きでほとんどの作品を読んでいる私は氏がいままで航空機やがんなどにまつわることを中心に書かれていた世界から大きく踏み出されて一大決心のもと『犠牲』を書かれたことをとても評価していました。


『犠牲』で前の奥様の重度のうつ病の様子に触れていらっしゃったのを読んで柳田氏の私生活の苦しみを知ったわけですが、それだけにドキュメンタリー作家として今度は多くの人々が苦しんでいる精神疾患にスポットを当てた作品を発表してくださることを期待していた私はよけい肩透かし的なものを感じたのかもしれませんね。


いずれにしてもこれからも社会の片隅で埋もれた苦しみの代弁者として、また変質し続ける社会への提言を一方的なものではない公平な目を通して発表してくださることを期待しています。

卓球の福原愛ちゃんがロンドン五輪に向けて海外ツアーを優先させるために早稲田大学を中退しましたね。


タレントの広末涼子さんのときも感じましたが、有名人が有名大学のブランドをほしがり、大学側も有名人在籍というブランドをほしがるという双方の虚構が感じられて違和感を覚えます。


情報によると福原愛ちゃんは活動の拠点である青森の大学への進学を両親から薦められていたにもかかわらず、本人の強い希望で早稲田を選んだとか。

出席日数が足りず進級できなくなることは想像通りの結果、入るほうも受け入れるほうも上滑りな感じが免れません。


スポーツ推薦にしても何にしても本当に勉強をしたいという熱意がある人のみ受け入れてほしいものです。


一方早稲田大学大学院在学中の元プロ野球選手の桑田真澄氏が書かれた卒業論文がスポーツ科学研究科修士1年制コースの最優秀賞に選ばれたという快挙が伝えられました。

『「野球道」の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究』というのが卒論のタイトルだそうですが、並々ならぬ勉学への意欲が感じられる桑田氏のような人こそ入学に値するのではないでしょうか。


早稲田だけに限らず少子化と経済不況で大学進学率も低迷していると思いますが、ステイタスや飾りを求めることから脱却して「学び舎」という本来の意味をしっかり認識した運営をしてほしいです。

とはいえ家族を含むまわりはほとんどが学問のためでない進学を選択したような・・・。


でもそんなこんなは敢て棚に上げて物申したいと思います^^;



さて今日は吉村昭氏著『プリズンの満月』です。


あるSNSで親しくしていただいているsygenさんの積本の1冊として紹介されていたのを拝見して以前読んだ記憶が甦り、再読しました。


「戦争という人間の大罪が招いた悲劇。
同じ日本人を裁くために日本人の手によって作られた絞首刑台。
なんと多くの者達が名状しがたい苦しみを味わい、この台に立っただろう」


第2次世界大戦の戦犯が収容されていた「巣鴨プリズン」で日本人の刑務官として勤務していた過去を持ち、退官後かつての上司の依頼で奇しくもその跡地に建つ高層ビルの建設現場の警備所長として勤務することになった鶴岡の現在とプリズンでの過去の回想を織り交ぜて東京裁判がもたらした異様な空間を余すところなく描いた力作です。


1945年第二次世界大戦後に戦勝国アメリカのGHQによって接収された時点で「巣鴨刑務所」から「スガモプリズン」と改名を余儀なくされ、極東国際軍事裁判の被告人である多くの戦犯を収容し、幾多の絞首刑を執行したプリズンにGHQの求めによって全国から選ばれた刑務官のひとりとして九州から鶴岡も赴任します。


1958年にGHQから返還され東京拘置所と改称されるまでの敗戦国民が同国人の戦犯の刑の執行に関与するという史上類のない異例の数年と狭い空間で起こったさまざまな出来事をひとりの刑務官の目を用いて著者は綿密な取材の上の事実を積み上げる形で小説に投影していて見事です。


その後20年の時を経て、地名を東池袋と変えた元プリズン跡地に建設されたのが巨大な商業施設・サンシャインシティ。


サンシャインの裏手にある東池袋中央公園の一角に巣鴨プリズン跡地であることを標すようにひっそりと石碑が建っていて「永久平和を願って」と刻まれているそうです。

当時工作関係の日本人の刑務官によって作られた5基の特設絞首台跡にあった5つの塚は除去されて今はプリズンの存在を示すものはその小さな石碑のみだそう。


作中主人公・鶴岡が退官後の職場であるサンシャインを去る日、元上司と共にその石碑を洗う場面が描かれていて心に沁みますが、そこから記憶が一足飛びに昭和25年に遡り、プリズンへと移行するという構成。


一応架空の刑務官を主人公に据えたフィクションとなっていますが、そこに描かれている細々としたエピソードはどれも著者の足と目で検証を重ねて得た事実を描いているところはノンフィクションとしても吉村作品の骨頂という感じです。


本書が代表するようにできる限り感情の起伏を廃して冷静な観察力を通して事象をとらえというのが著者の作品の大きな特徴といえるでしょう。


感情の薄濃を文章に塗りこめないということに物足りなさを抱く人もいると思いますが、著者特有の表現による視線の動きなど抑えた文章を通して逆に静かな切なさや深い憤りが私のこころにまっすぐ伝わってきてある種の清々しささえ感じるほど。


「驚くほど大きい満月が、庁舎の上に昇っている・・・
かれは月に眼をむけ、日本の月が昇っている、と胸の中でつぶやいた。
月光は、獄房の中にもさし込んでいるにちがいなく、窓の身を寄せ、鉄格子越しに月を見つめている戦犯の姿が思い描かれた」

タイトルになっている満月を描いた箇所ですが、このように鶴岡を代表する刑務官や歴代の日本人所長らの心情はいつも獄に繋がれた戦犯に寄り添っています。


米軍司令官の管轄下にあり、その命令に従うことを義務づけられている歴代の所長たちの戦犯への待遇改善への捨て身の直訴や掛け合いにも目を瞠らされます。


戦争の勝者が敗者を裁くという勝者側からの一方的な正義がまかり通った異質な一時期をこのように徹底的に描くことで、裁判の不当性や戦後の日米関係の推移や国際関係における日本という国の力の強弱によって運命づけられてしまった戦犯たちとその家族の悲惨さなどが盛り込まれていてとても勉強になりました。


戦争責任において戦犯、とりわけA級戦犯の行為や思想は無視できませんが、それらの人々もまた戦争の犠牲者であるという事実を踏まえて、現在戦争への危機感も持たずに生活できる私たちはそのありがたさをもっと自覚しなければならないと思ったことでした。

普段夫婦2人の静かな生活が8月頭からの子どもたちの相次ぐ帰省で賑やかに一変しました。


先ず次男が先行し、次に長男抜きで愛孫・あーちゃんこと明日香と明日香ママが8日間滞在、そしてお盆前から娘へと続きました。


特にもうすぐ5歳になるあーちゃんのために夫は事前に海水浴や水族館、遊園地、花火といろいろな計画を立てて実行、奮闘!


小さなことに胸を躍らせて弾む喜びを体いっぱいに表わす明日香を見ているとはるか昔の子どもたちの幼い頃を思い出して切なくなります。


人生のほんの一瞬の輝かしい子育て期間を何と余裕のない接し方をしてきたのだろうと若かったとはいえ自分の浅はかさに今さら反省してもしきれない思いを抱いてしまいます。


今年4月から2年保育の幼稚園生になった明日香は300人ほどの園児の中でいちばんノッポ、将来の南海キャンディーズのしずちゃん候補間違いなしと踏んでいますが、おとなしくて繊細、優しすぎてこれから無事に社会の荒波をかいくぐっていけるのか心配するほど。

仕事があるパパ(長男)と短期間離れただけでパパ恋しさに涙が溢れる毎日。


帰りの駅までの送りの車で私たちとの別れの悲しさに目に涙をいっぱいためて下を向いてしまった姿がいつまでも目に焼きついて離れません。


あれから1週間、毎日日課のようにあーちゃんからお話電話がかかってきます。


これからの長い人生いろんなことがあるでしょうが、あーちゃんが心幸せに過ごせるよう祈るばかりです。




さて今回は再読の書です。


柳田邦男氏著「『犠牲』への手紙」

『犠牲 わが息子・脳死の11日』の続編ともいうべき作品です。


「悲しみからの再生と癒し・・・読者からの三百通の手紙が語る『生きていく自分』の物語」

本書は1993年自死により25歳という短い生涯を終えた著者の次男・洋二郎さんの生きた証しを作るという作業に加え、著者自身が暗闇から抜け出し再出発しなければという強い衝動から執筆した『犠牲』のその後を綿密に記したものです。


本書執筆の動機を著者は次のように書いていらっしゃいます。

「『犠牲』を出したとき、私は洋二郎の死についてそれ以上のことは書くまいと思っていた。
息子の死への悲嘆にいつまでもしがみつくような表現活動を続けたくなかったからだ。
しかし、『犠牲』によって完結させようと思った洋二郎の『生と死』の物語が、多くの読者によって『共有する終わらない過去』として社会的存在となり、その輪のなかに私も引きずりこまれることになったのだ・・・
そんな事情から、『犠牲』の出版以後、なぜ、『犠牲』を書いたのか、洋二郎の死は私に何をもたらしたのか、私の表現活動はどこから来てどこへ行こうとしているのか、読者からの数々の手紙は何を語りかけているのか、といった問題について、エッセイやインタビューなどいろいろな形で語ってきた。
それらのなかの主なものを編集して筆を加えたものが、本書である」



三部からなる本書の第一部に載せられた『犠牲』への読者の手紙に書かれているそれぞれの苦悩の人生とそれを乗り越えようとして物語る内容には烈しく胸を衝かれます。


著者自身、息子の死後の混沌のなかから『犠牲』を書くという行為が自身の再出発における決定的なステップになったと記していらっしゃるように、悲しみの中にいる人々にとって「書く」という作業が知らず知らずにとても有効なグリーフワークになっているようです。


かけがいのない人やペットを失った人にとって日常を取り戻すための大切なグリーフワーク。


「時間が悲しみを癒してくれる、とよくいわれる・・・
グリーフワーク(悲しみの癒しの作業)における時間の要素は絶大である。
しかし、グリーフワークとは決して悲しみを遠い過去のものとして忘れることではない・・・
連れ合いやわが子を喪った読者からの手紙には、悲しみは何年たっても消えるものではありませんという心情がしばしば綴られている。
私自身、洋二郎の幼き日の姿や心を病んで精神科に通っていた頃の姿が突然目の前に現れて、目まいがするほど打ちのめされることが、いまだに時折ある。
悲しみは心の深いところに根をはっているように感じる。
それでも日常は虚飾でも虚勢でもなく笑ったり泣いたり怒ったり感動したりして生きている。悲しみをかかえながらも、フツーの平凡な日常を過ごせるようになるというのが、グリーフワークの大事な到達点ではないかと、この『「犠牲」への手紙』をまとめる作業を終えて、あらためて感じている」 



手紙には心を病んだ人々からのものが多くあり、このような人々の人生記が、ガン闘病記のようにオープンに書かれるようになったとき、日本人の精神構造にやわらかな変化が生じるにちがいないというのは著者の指摘ですが、著者自身にはまだまだあからさまに語る勇気の持てないご自身を含む家庭の物語があると率直に記していらっしゃるのが印象的でした。


『犠牲』は洋二郎さんと父親である著者の物語ですが、洋二郎さんの幼少期の交通事故がきっかけでこころを病んで長く経過し、今もなお重篤な状態の母親である夫人の物語を書いてこそ柳田邦男という作家の真実を語る作業が完結することは著者自身強く認識されていますが、きっと書けないだろうと締めくくられています。


しかし、「きれいごとばかり書かず、我が家の地獄を書けよ」と著者に放ったといわれる洋二郎さんの率直な真実を求める感性に精一杯添おうとされて『犠牲』を書かれた著者の姿勢には深く敬意を表したい気持ちです。


さて少しですが、読者からの手紙に移ります。


「生きることにおごっていた、慎みをわすれた自分の生き方が、娘の死によって見えてきたように思うのです」

23歳の娘を自動車事故で亡くされて4年が過ぎたというある地方の総合病院の婦長の言葉です。


また3年前に21歳の息子を自死で亡くされた医師の述懐も胸を打ちます。

「息子の死ぬ前の私の生活は虚構に満ち、実際は死んでいたようであり、息子の死が一旦は私を地獄に落としましたが、そこから私に新しい本当の命を芽生えさせてくれたように思います」


またある読者は人生をサラサラと流れる川の砂のようだと喩えていらっしゃいます。

その砂の流れの中でときたま引っかかる「喜び」や「悲しみ」の小さなつぶ。


こんなまばたきの瞬間ほどの滞在の小さなつぶに激しく左右される人間の存在は何と儚いものかと思えますが、最後の川に流れ着くという運命が決まっているなら、そんな小さなつぶでも大切に真摯に味わわなければという思いが強くなった読後感でした。

私が現在住んでいる岡山は周囲の市町村の合併が進み、平成21年4月に念願の政令指定都市として出発することになっています。

それに先行してかどうかは別として来年2月より始まる生ゴミの有料化。

並行して今まで焼却ゴミに区分されていたプラスチックなどの分別もより厳しくなるので、市民への啓蒙のため市は今てんやわんやの様子です。

ビンやペットボトルのリサイクルはそれ以前も推進されていましたが、来年からはより厳しいリサイクル化を目指して市民への協力が求められそうです。


『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』でおなじみの武田邦彦氏はペットボトルを例にあげ、リサイクルは焼却するより環境負荷が高くなっていることを次のように挙げていらっしゃいます。

「ペットボトルが、石油からつくられるときのコストは約7.4円なのに、リサイクルするには輸送費などの集荷にまず26円かかります。
それを洗浄、樹脂化、再成形するには1円程度しかかかりませんが、しめて27.4円にもなる。
新品ボトルの3倍以上です。
しかも、輸送の間に、トラックの運転手がお弁当を食べれば、それもゴミになる。かえってゴミが増えてしまう」

また紙をリサイクルするときは、古紙をトラックで回収し、分別後脱墨して漂白するというプロセスで石油などの「枯渇性資源」を大量に使うことを指摘、これら『環ウソ』に対する専門家からの反論も多々あり、市民レベルの私は何を信じていいかわかりませんが、市議会で決まった有料化をきっかけに一足も二足も遅れてゴミについて真剣に考える機会が与えられています。



さて今回は柳田邦夫氏著『石に言葉を教える』をご紹介します。

本書は平成17年に「新潮45」に連載された12のエッセイをまとめて刊行したものです。

「やり直すなら、今しかない! 心と脳が破壊されていく日本人への緊急提言」


「私の頭の中に、このところずっと主題として流れているのは、『言葉』の問題だ。
それは『言葉と心』であったり、『言葉と命』であったりする」

あとがきにある著者の言葉です。


ゲーム機や携帯、パソコンの普及によって青少年の心の形成に深刻なゆがみが生じている危機状態を実際起こった事件などを挙げて指摘、「言葉」を通して人々と触れ合うことで温もりや連帯感を持ってほしい、と書いていらっしゃいます。


表題作でもある冒頭のエッセイ「石に言葉を教える」は机に向かっていた著者の脳裏に突然何の脈絡もなく浮かび、以後頭から消えなくなった情景を描いたものです。

それは東北地方の山間の村の初老の男が渓流の大きな石に向かって13年もの間言葉を教え続けているというもの。

そのうち男は周囲のせせらぎや木々の葉の揺れる音などが自分の語りに調和しているのに気づきます。

それをまた3,4年続けていると、男は石が自分の作り話をちゃんと聞いているような気がしてきます。

さらに進んで石が楽しんだり悲しんだりする反応は自分の感情の変化と連動していることに気づくのです。


上記のような物語が著者の心を占めるようになったある日著者は「もしかして石に言葉を教えることができるのではないか」と固定観念の風穴が少し開くのです。


「もしかして」という可能性を秘めた言葉は著者ならずも万人の胸の底にある希望の光ではないでしょうか。


この冒頭のファンタスティックな発想のエッセイを抜けるとそのあとは種々の日本への提言が溢れています。


「教室の机や柱、校庭の木や彫刻やオブジェなどからどれか一つを、子どもたち一人ひとりに選ばせて、毎月一回くらい、自分の選んだ対象物の前に椅子を置いて座らせ、一時間、対象物に言葉を教える実践教育を行なうのだ。
面白いことに、いつも教えられ覚えさせられるという受け身の授業しか知らない子どもたちが、教える立場にまわると、突然生き生きとしてくるはずだ」


ケイタイやゲーム漬けの日本の子どもたちに言葉を鍛える必要性をこのような形で提言している一方、人を絶望から救い出してくれることもあれば絶望のどん底に投げ込むこともある「言葉」に影響を受け、その後の人生を転換させた人々を登場させていらっしゃいます。

アメリカの医師のある「言葉」によって絶望の淵から生還、ダウン症のわが子とともにその後の生き方を変えたある父親の話。

47歳で多発性硬化症という難病により仕事や前途を断たれ、自暴自棄の生活を送っていたとき、リハビリセンターでサリドマイド薬害被害者のひとりの少女と出会い前向きな人生を取り戻された元企業戦士。

以前このブログでアップしたこともある『僕のホスピス1200日』の著者山崎章郎氏のある患者との約束。

著者自身が翻訳された『エリカ 奇蹟のいのち』に登場するエリカの実話。

どれも心に染み入るような読後感の一冊でした。

昨夕から降っていた粉雪が今朝はうっすらと家々の屋根に積もっています。

岡山ではこの冬初めての

いちばん寒さが厳しい季節にまた大学入試センター試験が巡ってきましたね。

毎年センター試験ではいろいろなトラブルが発生しますが、最近では電脳社会ならではのトラブルが相次いでいるようです。

19日に行われた英語リスニングの最中に受験生の鞄の中の携帯電話の着メロが約30秒間鳴り続けたり、やはりリスニング中に照明消し忘れ防止用の自動消灯システムが誤作動し試験会場で約2~30秒間照明が消えたり、リスニング開始前の動作確認の際、不具合深刻などで交換したICプレーヤーが288台にも上ったりと大変だったようですね。



そんなマニュアル化した電脳社会や携帯依存症に警告を発しているのが本日ご紹介する柳田邦男氏著『壊れる日本人- ケータイ・ネット依存症への告別』です。


テレビが日本の家庭にすさまじい勢いで普及してきた頃、大宅壮一氏が日本人の未来の姿を「一億総白痴化」と評していましたが、まさに現在そのテレビに取って代わったのが携帯電話とパソコンです。

柳田氏はそのような携帯・ネットへの依存は効率主義に支配された現代社会の最も象徴的な現象と指摘していらっしゃいます。

相次ぐ企業不祥事や重大事故、残忍な少年犯罪の原因をIT機器への依存に集約して様々な実例を紹介し問題を浮き彫りにしながら、日本の二者択一でなく中間の曖昧な領域を許容する文化を省みて、今こそ曖昧ゆえに豊かだった日本文化を甦らせるべきである、というのがこの本の大要です。


長崎佐世保で起きた小学生による殺人事件などに多くのページを割いて遠因をネット依存に結びつけていますが、様々な問題を取り上げてこられた著者の拘りの視野に今回は少し違和感を覚えてしまいました。


ネットや携帯が及ぼす影響はもう見逃すことのできないところまで来ていることは理解しますが、すべてのコミュニケーション不足や自己中心型の人格形成がそれの原因であるというマイナス要素ばかりの指摘には疑問を感じる箇所が多々ありました。


ただ人間同士の画一的でない心のふれあいや、マニュアル至上主義に走らない判断力を培うことを第一義に、という主旨は大きくうなずけます。 


死を目前にした患者の病室で様々な管に繋がれた患者をそっちのけでモニターを見つめる医療関係者や家族の姿を例にとり、昔からの大事な別れの儀式が忘れ去られ、データの管理下で孤独な最期を迎えることを強いられるという現実への指摘はとても重要です。


周辺の機器に絡めとられない真の知恵を培っていかなければならないと思いました。

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