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カテゴリ: 津村節子

先日友人たちと5人で尾道の「なかた美術館」に遠出してきました。


尾道の船会社の重役をされていたという故・中田貞雄氏が半世紀余りの歳月を費やして収集された200点余の絵画が会期毎に模様替えをして展示されています。


平成9年に誕生したそうですが、フランス現代具象画家ポール・アイズピリ、ピエール・クリスタン、エコール・ド・パリを中心としたフランス近代絵画、梅原龍三郎、中川一政、林武ら日本近代絵画、尾道を代表する小林和作などすばらしいコレクションの数々に圧倒されました。
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梅原龍三郎                   林武

特に生前の中田氏はアイズピリと親交が深かったそうでコレクションもたくさんあり、独特の明るい色調の絵画の数々が心を和ませてくれました。
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さて本日は津村節子氏著『夫婦の散歩道』をご紹介したいと思います。


「夫・吉村昭と歩んだ五十余年。
作家として妻として、喜びも悲しみも分かち合った夫婦の歳月、想い出の旅路……。
人生の哀歓をたおやかに描く感動の最新エッセイ。
吉村司『母のウィンク』収録」


本ブログがご縁でお知り合いになったbayouさんからのご紹介本です。

Bayouさんも私も吉村作品のファンという共通項がありコメントにご紹介いただいた本書を読みたくてamazonで購入しました。


先にブログでご紹介した『紅梅』とともに本書も吉村氏がご逝去されたあと、奥様である津村節子氏によって書かれたものですが、小説仕立てになっている『紅梅』に比べ、本書は津村氏ご自身のエッセイである点、より身近にご夫妻の日常の息づかいが感じられます。


本書に収録されている44のエッセイは夫君・吉村氏ご逝去後2年ほどのブランクを経て奥様である津村氏が求めに応じて様々な媒体に執筆されたということで必然的に生前の夫君に触れたものが多く、そういった意味で出版社がつけたというタイトル通りですが、他に津村氏ご自身の小説家としての歩みや知己に関するエッセイも少なからず含まれていて、吉村ファンのみならず津村氏のファンの方にとっても読み応えある小品が数多くあります。


そしてエッセイのラストを飾る作品はお2人のご子息・司氏によるもので、妻である津村氏が先に芥川賞を受賞された直後、吉村氏が生活を支えるために勤めていた会社に退職願を出された経緯が書かれており、あと1年間小説に専念してみて、もし家計を全額負担することが出来なければ筆を折る覚悟である、という修羅の如く凄まじい宣言、すなわち「自分の命そのもの」であるという小説を諦めても一家の柱としての責任を果たすという責任感の強さに一家を構える人間としての潔さを見せつけられた思いでした。


妻である津村氏が受賞された芥川賞をとることができなかった吉村氏のそのときの心情を想像すると胸が詰まりますが、当時渦巻いていたであろう焦りや嫉妬をその後見事に克服されて小説家として大成されたことはそのすばらしい作品群が証明しています。


本書にはそこかしこに生前の吉村氏が息づいていて、作品でしか面識のないただの1ファンである私ですら懐かしさに胸が熱くなります。


数多くの住み替えを経て井の頭公園に隣接した地に居を構えてからのご夫妻の生活範囲。


Bayouさんのコメントで度々ご紹介いただいたエッセイに出てくる「黄色いベンチ」はその井の頭公園にあります。


どちらかが外出先から駅に着かれたと電話をすると片方が散歩がてら公園の途中まで迎えにこられるというお二人。

背もたれのところに金属製プレートが取り付けられたいくつもの黄色いベンチは一般の市民による寄贈でプレートには寄贈者の名前と、「いつまでもここに住み、元気で過ごせますように」「ここは二人の出発点です」などの思い思いのメッセージが彫られているそうです。

井の頭公園で待ち合わせるお二人は寄贈者が幸せを刻んだと思われるベンチに座るのはなぜか遠慮して、樹木を保護するための柵に座って待っていたといいます。



「柵に腰をかけている夫は、林の樹木にとけ込んでしまっていて、今も林の中で見えることがある」

「秋が深まって公園の落葉が厚く散り敷かれるようになると、夕闇が濃くなる頃、家の近くの道の曲り角に夫の姿が現れる…
その正体は人体ぐらいの太さのコンクリートの灰色の電柱で、ちょうど夫の背の高さの位置に取り付けられている緑色のプレートに黄色いペンキで通学路と書かれた文字が、眼鏡をかけた夫の顔に見えるのだ…
私は、林の中を抜けて少しずつ足を運びながら夫が見える位置を探して立ち止まり、話をする」


作家という業を背負っていたがために妻として夫の介護を十分にできなかった悔いに苛まれ続けていらっしゃるという著者。


文壇つきあいをしなかった吉村氏が唯一おつきあいのあった城山三郎氏の亡くなった奥様との歳月に触れられた『そうか、もう君はいないのか』を読んだ娘さんが「お母さんがお父さんにしてあげた一番いいことは、先に死ななかったこと」と言われたそうです。


それはそれで伴侶としての最大の功績だと思いますが、結婚当初のスタート時からの生活の苦労の数々にずっと寄り添われてこられたこと自体が偉大です。


作家同士の家庭生活の厳しさはよく聞くところですが、お二人においてはこれほどにも温かいものだったのかと感動します。


まさに津村氏の心にしっかりと生き続けている吉村氏の生前の幸せを感じて温かいものが込み上げてきます。


「そのけはいが失せたのは、いつの頃からだったろう。
けはいと言っても、建て替えてしまった家の中ではなく、夕ぐれ時に公園の柵に腰をかけていたり、百貨店で私が買物をしている間待っていたエレベーターわきの椅子にかけていたり、かれが入院していた病院の歯科へ治療に行ったときに廊下ですれ違ったりしたので
ある…
私は夫の死後、4年4ヵ月間かれに関する仕事に明け暮れしてきた。
未発表の短篇やエッセイをまとめ、ゲラに手を入れ、序文やあとがきを書き、題名をつ
け、死んでから、これほど夫の作品を読むことになろうとは、思いもかけぬことだった。
読む度にゆるぎない自分の世界を構築している作品に圧倒され、夫は夫でなくなり、作家になってしまった。
夫のけはいがなくなったのは、かれの死後続いている事務処理と、これまで読まなかった作品を読み続けたためである」


「読むたびにゆるぎない自分の世界を構築している作品に圧倒され、夫は夫ではなくなり、作家になってしまった」


夫としての吉村氏への深い愛情とともに作家である氏への深い尊敬の念に溢れたエッセイ集です。


上京の折があれば本書に繰り返し登場するお二人の日常の散歩道―吉祥寺駅~井の頭公園、弁財天、ボート池、上水べりなどをゆっくり散歩しながら四季折々の花々を味わってみたというのが今の私の小さな夢です、できたら生前の吉村氏の気配を感じながら。

いつも卓球や食事会、旅行などで親しくしていただいていたご夫妻のうちのご主人が亡くなられてもうすぐ四十九日を迎えます。


退職後心臓疾患のためペースメーカーを入れられていましたが、外国旅行を初め頻繁な国内旅行や卓球も楽しまれていたのに。


ペースメーカーの調節のための検査入院の最中、調子も上々で明後日には退院を控えて元気一杯だったそうですが、突然心臓が停止したとのこと。


専門病院に入院中なのに死亡して2時間も病院側は気づかなかったそうです。



お通夜に参列しましたが遺された奥様の悲嘆は並大抵ではなく、親しくしていた仲間たちもあまりの悲しさに涙にくれました。



先日仲間とともにお参りを兼ねて陣中見舞いにご自宅に行きましたが、亡くなられてしばらく食事もできず健康を危ぶまれるくらい弱った状態だった彼女に少しずつ回復の兆しが見えてほっとしました。



愛する人を失った悲しみをたちどころに癒す魔法の言葉などはなく、長い長い時間をトボトボと歩むしか癒しの道はないと経験者の方々はおっしゃるしその通りだろうと想像します。



ご主人の歌声のファンだった私は旅立たれる数ヶ月前ご一緒したカラオケで最期になるとも知らず、スターダスト・レビューの「木蘭の涙」ほか是非歌ってほしい曲を数曲リクエストしたままでした。


奥様によるとご自宅や車でリクエスト曲を練習されていたとか、胸がいっぱいになりました。


逢いたくて 逢いたくて
この胸のささやきが
あなたを探している
あなたを呼んでいる

いつまでも いつまでも
側にいると 言ってた
あなたは嘘つきだね 心は置き去りに

いとしさの花篭 抱えては
笑顔んだ
あなたを見つめていた 遠い春の日々

やさしさを紡いで
織りあげた 恋の羽根
緑の風が吹く 丘によりそって

やがて 時はゆき過ぎ
幾度目かの春の日
あなたは眠る様に 空へと旅たった

開くのを見るたびに
あふれだす涙は 夢のあとさきに
あなたが 来たがってた
この丘にひとりきり
さよならと言いかけて 何度も振り返る



今考えるとリクエスト曲の「木蘭の涙」、何だか哀しい内容で申し訳なかったなと後悔しきりです。




さて今回は津村節子氏著『紅梅』をご紹介したいと思います。


「二〇〇五年二月に舌癌の放射線治療を受けてから一年後、よもやの膵臓癌告知。
全摘手術のあと、夫は『いい死に方はないかな』とつぶやくようになった。
退院後は夫婦水入らずの平穏な日々が訪れるも、癌は転移し、夫は自らの死が近づいていることを強く意識する。
一方で締め切りを抱え満足に看病ができない妻は、小説を書く女なんて最低だ、と自分を責める。そしてある晩自宅のベッドで、夫は突然思いもよらない行動を起こす―
一年半にわたる吉村氏の闘病と死を、妻と作家両方の目から見つめ、全身全霊をこめて純文学に昇華させた衝撃作」



2006年7月31日吉村昭氏の死後5年間の時を経て闘病から死に至る詳しい経緯を、ご夫妻が作家として認められなかった不遇の時代の貧困生活や文学賞を受賞されるまでを含め、妻の視点で描かれた津村節子氏の文字通り渾身の作品です。



自選作品集刊行のためのゲラ読みや連載中の作品の執筆や推敲、作品の販売促進のためのサイン会や様々な文学賞の選考委員としての活動、講演などに加えお世話になった文学関係者のお祝いの会や葬儀など著者の日常の多忙さには驚くばかりですが、そんな中での降って湧いたような夫の発病と続く厳しい闘病生活に最大限に寄り添った著者に頭が下がります。



仕事のない妻でもこれほど寄り添った人はどれくらいいるのかと思いますが、「物を書く女は最低の女房だ」と自分を責め、夫の死後「育子、寝ているうちに帰る」との日記の記述を見て「目を覚ましたときどれほど淋しく思ったことだろう」と一生の責めを負う後悔を自らに課す様子は共感を超えて激しく胸を打たれました。



一方、壮絶な治療や苦しい症状に対しても弱音を吐かず、作家としての約束を第一に遂行しようとされる吉村氏の誠実で律義な生き方にも深い感動を覚えました。



ご夫妻の作品はほとんど読んでいますが、エッセイの折々に見え隠れする作家以外の一般の夫婦と大差ないご夫婦の誠実な生活の様子が好もしく、尊敬する作家のナンバーワンに挙げられる吉村氏ですが、その人生の幕の閉じ方も吉村氏らしく、何事にも左右されないご自身の生き方を大切に努力されそして貫かれた方だなあと感服しました。



ご自身亡き後の葬儀の手配や家族に対して経済的な配慮を行ったあと、自ら生命維持のための管を抜かれて最期を決められたことは有名ですが、決して苦しい闘病から逃れるための自死に対する願望からの行為ではなく、ぎりぎりまで生きる努力をされ、ご家族も力の限りを尽くされた末ということが伝わってきて胸が苦しくなるほどでした。



何かのインタビューで著者は夫の死後夫に関係する催し物などで忙しく過ごすうちに夫が物故作家になって遠くへ行ってしまったように感じていたそうですが、本書『紅梅』の執筆を通して夫が身近に戻ってきたような気がしていると述べていらっしゃいます。



ご次男を自死というかたちで亡くされた柳田邦夫氏も書くという作業が癒しの一端を担うことに言及されていましたが、著者にとって本書が少しでも前に進む力になったことは読者として嬉しいことです。


「十全に看護ができた人でも悔いると思いますが、私は約束をしていた仕事があったため、その仕事をせざるを得なかったのです。病室で目覚めてからの夜を吉村がどういう思いで過ごしたのか、と、悔いて悔いて……」


このような置き去りにされたさまざまな後悔の念も薄まっていればと思わずにはいられません。

我が家は家族の誕生日にはお互いプレゼント交換しています。



家族が増えるにつれプレゼントを贈る機会も増える反面、子どもたちも夫と私の誕生日と父の日母の日にはプレゼントが届くので1年を通してプレゼントの行き交う機会がかなりあります。



2月半ばには娘、3月初めには娘の連れ合いの誕生日、先日娘に希望のものを聞いたところ、できたら手作りコロッケなど、という返事がかえってきたので、ついでに1人暮らしの次男が喜びそうな分も含めて昨日は1日かけてコロッケやドライカレーなどいくつかの食品を作りました。



コロッケ50個にドライカレー用ミンチ2kg,たまねぎを筆頭に野菜類を刻むこと、刻むこと、いつも料理はマメにしていてもできたことがないのに、包丁を握る指にまめができてつぶれるほど(――;)e1078df1.jpg




ドライカレー用に大量にすりおろし人参が必要なんですけど、あまりの本数の多さにたじろいでレンジで人参を少しやわらかくしてはプロセッサーで砕くことを繰り返しました。
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コロッケは揚げて送ったので家中カレー粉や油のにおい、酢豚も作ったので甘酸っぱいにおいが立ち込めて気持ち悪くなって夕食にコロッケを食べてもおいしくも何ともありませんでした

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1日だけでもこんなのだから食べ物の店などできないと思ったことでした。





さて今回は津村節子氏著『合わせ鏡』のご紹介です。


まだ夫君・吉村昭氏ご存命の1999年の作、第19回日本文芸大賞受賞作品です。



「あたかも合わせ鏡で見るように、遥かな過去、近い過去を顧みる遠いなまざし。
記憶の篋底から、命の息吹きが甦る…26篇の、あえかなものたちへの讃歌」



ブログ友のトコさんの読書録に記していらっしゃった作品を拝見してメモしていたものです。


随筆の内容について興味ある方はトコさんのブログをお読みいただくとして、ここでは私が感銘を受けたエッセイを二つ取り上げてみたいと思います。


トコさんのブログはこちら



まず著者が現在の土地に居を構えて出会われたという開業医・森田功先生について書かれた「パンダ先生と私」というタイトルのエッセイ。



順天堂大学付属病院の病理解剖室に長く勤務されたのち開業された先生は子どもたちが怖がるという理由で白衣を着用せず私服の胸にパンダのバッジをつけて診察に当たられているそうです。



診察室でお嫁さんに買ってもらったという磁気ネックレスが効くかどうかたずねた患者のおばあさんに答えて「いいお嫁さんだね。それはとても効くよ」と先生。



「患者が亡くなると力が至らなかった、と自分を責め、臨終の枕許に座って嘆き悲しむ家族の様子に胸をかきむしられ、痩せたこぶしの上に涙を落とす。
こんなにつらい職業はほかにあるだろうか、と書いておられる」と著者は森田先生の著書に言及していらっしゃいます。


森田功先生は「やぶ医者」シリーズの著者でもあります。



その先生が大腸癌で亡くなられたあと奥様から届いたお知らせに先生の潔い生き方が偲ばれます。


「3月3日、森田功儀、71歳の天寿を全う致しましたのでお知らせさせていただきます
生前賜りました御高誼に心から御礼を申し上げます
故人の遺志により解剖実習に献体致しました
実習後解剖供養塔に合祀されますので墓所は定めず 葬儀は行いません」




次に「花笑みの村」というエッセイには森田先生と同じ医師である将基面誠先生が登場します。


40年ほど前夫君・吉村昭氏が太宰治賞受賞作となった『星への旅』を書くにあたって訪れて知己を得た陸中海岸に位置する田野畑村の医師。



千葉のがんセンターの枢要な地位を投げ打って岩手県の過疎地・田野畑村の診療所に周囲の反対を押し切り夫人を説得して着任された先生夫妻は周囲の村人たちにとけ込み、医師としての有能さと穏やかな人柄は村人たちの尊敬と信頼を集めているそうです。



夫人が白血病でがんセンターに入院されその訃報が村に伝えられたときには葬儀場には岩手ナンバーのマイクロバス6台に村人2百余名が夜を徹して駆けつけたといいます。



夫人亡き後村は再び無医村になると誰もが思っていたのに子どもを夫人の実家に預けて再び戻って来られた先生はその後保健文化賞を受賞され、村に寄付したその賞金は「花笑みの村基金」として村を花いっぱいにする計画だそうです。



直接エッセイとは関係ないレビューとなりましたが、お二方の医師の生き方、逝き方の潔さに心洗われるようでした。

現在私が住んでいる岡山市から車で1時間弱東に行ったところに位置する岡山県備前市は備前焼の産地として有名です。


備前市伊部地区が発祥の地なので地元では別名「伊部焼(いんべやき)」といわれ親しまれています。


日本の六古窯といわれている瀬戸・常滑・丹波・越前・信楽・備前のなかでも最も古い窯場として千年以上の間窯の火を絶やさずにいるという歴史があるそうです。


現在400以上の窯が備前を中心に点在し、昔ながらの登り窯、松割り木の燃料を用いて、釉薬を用いない素朴な味わいの焼き物を作っています。


独特の茶褐色の地肌の特徴を生かした花器や酒器、茶器、皿などが生産されていますが、茶筅を必要とする抹茶茶碗は不適とされています。


骨董収集が趣味だった私の従姉のだんなの伝手で夫が30代~40代にかけて集めたり親戚や親からもらったものを合わせると我が家にかなりの備前焼がありますが、昔は素朴でいいなと思っていたものが年とともに妙に重々しく感じられて飾るのもなんだかなあと変節してだいぶになります。


久しぶりに我が家でいちばん大きな花器を飾り棚に置いてみました。 e30521f7.jpg



この花器は阪神大震災のとき飾っていたにもかかわらず無傷のままだったという運のいいもの。



備前焼で2006年に5番目の人間国宝になった伊勢崎淳氏のお兄さん・伊勢崎満氏の作品、満氏と親しかった従弟が窯出しのとき無理を言ってわけてもらったものです。


地味な性格で世渡りの苦手なお兄さんに比して淳氏は闊達な性格というその対比に腕前は別にして差が開いて弟の淳氏が人間国宝になったといういきさつがあります。


もしお兄さんの満氏が人間国宝になっていたら・・・この花器もぐ~んと価値が上がっていたでしょうけど、そんなことを差し引いても地味で素朴なお兄さんの性格そのもののようないい味わいの花器で気に入っています。



土をこねるところから始め、徹夜での火入れなど過酷な作業の連続は女性の入り込む余地のない世界といわれていましたが、徐々に職業や意識に男女の境界線が取り払われてきた昨今備前焼窯元にも女性の陶芸家が何人も進出していらっしゃいます。


例えば私も陶古窯の花器を持っていますが、小西陶古という大きな窯元の2代目は有名な女性の方ですし、他にもたくさん活躍していらっしゃいます。



本日ご紹介する作品でも男児を産むことができず夫の窯の跡継ぎ不在を気にする主人公・みほの長女が「かあちゃん、男に出来ることは女でも出来るとおれは思う・・・おれがあとを継ぐわね」と父親の元で陶芸家への道を精進する姿を描いています。



津村節子氏著『土恋』


「食器だけ作って下せえの。おめさんの食器は日本一使い易いけえ。
みほの熱い励ましで夫啓一の覚悟はできた。
台風で窯が壊れたが、もう一ぺんやってみよう。
幾工程もの土作り、蹴りろくろ、薪窯で日用雑器を焼きつづける家族の歴史と愛を力強く描く」



物語は阿賀野川流域にひらけた新潟県安田村庵地に三代続く窯元「保田窯」の長男・啓一に佐渡島から嫁いだみほを主人公にしたフィクションですが、著者のあとがきによれば新潟県旧安田町・庵地地区で焼かれている「庵地焼」を唯一継承した陶芸家一家の苦節の物語です。


焼き物に対する関心が強く日本中の主だった窯を訪ねている著者によると、「庵地焼」ほど土づくりに時間と労力をかけている窯はないそうです。


ひとつひとつ蹴り轆轤で成形し、薪を燃料にした登り窯で焼くという工程は想像を絶する労力と手間がかかっているといいます。


実際の「庵地焼」については、昭和の初期まではいくつかの窯がありましたが、第二次世界大戦を前後に絶え、現在は物語の対象となった旗野窯だけとなり、現在は4代目として実子の三姉妹が受け継いでいらっしゃるそうです。


本書はその4代目の長女が跡継ぎとしての自覚を持ち、3代目の父親について厳しい土修行をし、見習い職人として修行していた若者との将来を感じさせるラストで終わっています。



備前焼にも日常使いの食器はありますが、この物語の舞台となった「庵地焼」は地味で素朴な日常雑器が主だそうです。



この日常雑器の陶工一家が艱難辛苦の末に世に認められる様子を描いていますが、内容的には「土地の土の特質を生かすための根気のいる営みを支えてきた女性たちの苦闘から女性陶芸家が生まれるまでの物語」という著者の意図からは少し外れているような違和感のある読後感でした。



上記の著者の意図がなければ、主人公・みほの夫を支える苦闘の一代記としての読み応えのある作品であると思いますが、これから一本立ちする女性陶芸家のひよこである長女の描き方が何とも中途半端に終わっているように思えました。


できれば父親亡き後ひとり立ちするまでを書ききってほしかったと思います。

昨日は夫の誕生日。

何日か前より久しぶりにかぜを引いたこともあり、怠け心が出ていた私はお祝ディナーを用意するのをやめて夫を誘って近所の居酒屋に行きました。


住まいの近くには大学病院や区役所、水道局など大きな建物があり、従業員目当ての飲食店がかなりあります。


引越し当時探索しては私たちなりに合格点をつけたうちの1つがその居酒屋。


チェーン店とちがい店主が1人で料理され、奥様がその補佐、あと女の子を置いている小さな店ですが、女の子たちがなかなか居つかず苦労されているようでした。


数年前友人たちを交えての会食中2度目の取り皿の追加を頼んだら、何が気にさわったのか当時の従業員の気の強そうな女の子がものすごい形相でお皿を持ってきて音を立てて投げつけるように置かれたことがあります。


それ以来足が遠のいていましたが、味がよい上に安価な魅力に惹かれてしばらくして来店したらその女の子が辞めていたのでほっとしました。


今回は新顔の女性従業員2名、そのうちひとりは70歳をかなり超えたような高齢者、もうひとりは若い中国人、どちらも注文取りも接客もぎこちなくハラハラするようでしたが、以前のヒステリックな従業員の印象があるので、ずっとずっとましだね、と話しながら帰りました。


誕生日は大過なく過ぎた感謝の日でした。




さて本日は津村節子氏著『遍路みち』をご紹介したいと思います。


津村氏といえば夫君・吉村昭氏とともにおしどり作家として有名ですね。


学習院女子短期大学時代から少女雑誌向けに小説を書き、文学仲間として知り合った吉村氏と結婚後も少女小説で生活を支えられていました。


3度の直木賞候補につぎ、2度目の芥川賞候補作『玩具』で見事芥川賞を受賞、一方今でこそ知らぬ人のない大家となられた夫君である故・吉村氏は4回も芥川賞候補になりながら受賞が果たせず、受賞されたのは奥様という経緯がありました。



2005年舌癌に罹患、その後膵臓癌にも侵され2006年7月31日に自ら点滴の管とカテーテルポートを引き抜き、看病していた長女に「死ぬよ」と告げて息を引き取られた吉村氏の死に様はあまりに衝撃的で私たちに大きな波紋を投げかけました。



「楽しいことも嬉しいこともあったはずなのに……悔いのみを抱いて生きてゆく遍路みち。
夫・吉村昭氏の死から3年あまり、生き残ったものの悲しみを描く小説集」


本書は吉村氏が亡くなる前後に書かれた4篇の短編と、ほか1篇が収録されています。



私は吉村昭フリークを自認するほど吉村氏の作品に傾倒し続けている1ファンですが、エッセイを通して覗える家族の中での氏や奥様の人柄の素朴さ、そして小説家としての吉村氏のスタンスに深い尊敬の念を抱いています。


文芸評論家の磯田光一氏に「彼ほど史実にこだわる作家は今後現れないだろう」と言わしめたように史実に基づいた作品を執筆するにあたっての念には念を入れた調査の厳しさは編集者の間で今でも語り継がれるほど。


というようなわけでこのブログでも夫君の著書は数多くご紹介していますが、奥様の津村氏に関しては今調べたところ代表作『玩具』以下女性を主人公の数々の作品はすべて読んでいるにもかかわらず『幸福の条件』のみのアップでした。

『幸福の条件』のレビューはこちら



さて本書の短篇5篇のうち表題作を含む3篇はすべて主人公に「育子」という名を借りての著者の実体験を夫君の死を軸として描いています。


「洗面所のコップの中の2本の歯ブラシを見ると、1本も虫歯のないことを自慢していたことを思い出した。
夫の母親が、おまえは口もとがいいね、と言っていたという話をからかいながら口にすると、かれはふざけて口角を少し上げて笑ってみせた。
育子はその笑顔を思い出して嗚咽した」


50年にもおよぶ長い結婚生活のうちには楽しいこともあったはずなのに、最期の1週間を自らが作家という職業故に締め切りに追われて充分な会話や介護をすることなくベッド脇の机で差し迫った仕事をしたため、生死の境にいる夫に寄り添えなかった痛恨が重くこころに渦巻いている様子が文章の間から伝わってきて胸に響きます。



「育子、眼を覚ますといない」

最期を迎える少し前書かれた故人の日記の1行が育子の胸に突き刺さり、どんなに後悔しても戻らない悔悟に苦しみます。


「仕事があるのだから毎日来なくてもいいと口では言っていたが、夜中に目覚めた時、一人で長い長い夜何を考えていたのだろう。
仕事など持つ女を妻にしたため孤独な死を遂げたのだ。
細いペンで書かれたその文字は、今も錐(きり)の先のように胸に突き刺さってさいなむ」



自分が「育子」の立場になったら同じ思いから終生抜け出せないだろうと想像すると著者の悲しみが伝わってきます。


時とともに愛する人を喪った喪失感は薄らぐといいますが、夫が自分の死ぬ時を定めようとしていたときを見過ごしたという取り返しのつかないという罪の意識は死後3年たっても消えることなく著者の中に根を下ろしている様子がわかります。


それでも自身や周囲の人々のさまざまな試みにより、あるときは死者と寄り添い、あるときは新たな現実と向き合うということを繰り返しつつ決して消えることのないものをやわらかく内包しながら進む様子が、本書執筆という行為を通して感じられます。


著者は書くことによりいくらか気持ちの整理がついたとあとがきに記しておられますが、遺された人はそれぞれの方法を手探りで手繰りながらも生き続けなければならないという事実が胸にしっかり入りました。


死者への悔悟とともに生きるには、という自分も向かわなければならない道へのしるべとなる作品でした。


銅とスズとの合金が立ってゐる。    
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立ってゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで。


十和田湖畔の御前ケ浜に立つ高村光太郎氏の「おとめ像」を見たのは昨年6月、奥入瀬渓谷をドライブして湖畔のホテルに泊まったときでした。


1953年に当時の青森県知事であり太宰治の兄である津島文治氏が十和田国立公園15周年を記念して光太郎氏に委嘱したものです。


高村光太郎氏70歳のときの作でこれが最後の作品といわれています。


上記の詩は像の傍らの石碑に書かれている「十和田湖畔の裸像に与う」というタイトルで光太郎の像に対する思いを詠んだ詩です。


愛妻・智恵子を模したともそうでないともいわれていますが、作品に智恵子の面影を掘り込んだことは事実でしょう。



生涯をかけた智恵子への思いは出会いから27年ののち1938年死去後30年にわたって書かれた『智恵子抄』を通して広く知られています。


智恵子の病名は現在の統合失調症、直接の死因は粟粒性肺結核であったといわれています。


そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山嶺でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう


智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である


五月晴の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ




1998年芸術選奨文部大臣賞受賞作・津村節子氏著『智恵子飛ぶ』


「いちずな愛の哀しさ。交錯する愛の形。芸術家夫婦の懊悩。新たな智恵子像を浮彫にした傑作長篇小説」



書き出すまでの厖大な資料調べ、長い取材期間を振り返って著者は次のように語っていらっしゃいます。

「私はこれまで何度か、高村光太郎と智恵子について書いてきたが、さまざまなことが積み重なって智恵子の精神が壊れてゆく経緯にわからない部分があった。
智恵子の生涯を長編小説として書く決心がついたのは、私なりの納得が出来たからである・・・
小説の冒頭は、自転車を乗り廻し、袴の襞をギャザースカートのように縫い直す活溌で人の意表を衝く行動をやってのける女子大時代からさかのぼり、聡明で勝気だった幼少時代から、輝かしい未来を約束されているが如き青春時代に多くを費したのは、後半との対比を意図したのである」


幼少時代からの抜きんでた才で周囲から眩しい視線を浴びることに慣れていた智恵子の日本女子大入学当時の逸話を冒頭に、綿密な資料調べや取材に則った細やかな文章で女子大時代からの智恵子の足跡に肉薄していてとても読み応えがある作品となっています。


自信に裏打ちされた自己完成への探究心はやがて自分の中で肥大した偉大な光太郎への一途な愛となり、まっすぐ向かっていく様子はその当時の女性としては珍しい部類に入ると思いますが、幼い頃より自分の望みは必ず通さずにはおかないという自我の強さと持ち前の行動力を眩しいほどの魅力として受けとめた光太郎自身が骨抜きになる様子が描かれていて作品としては力作ですが、何事にもエキセントリックな智恵子と光太郎という2人の人物像がどうにも肌に合わなくて、終始批判的な気持ちで読了してしまいました。



著者は智恵子発狂の原因を作品の中で次のように解釈しています。

「自分を全面的に理解してくれる智恵子の愛と尊敬を生命の糧として仕事に打ち込み、その歓びに高揚していた光太郎は、智恵子の心の奥に押し籠められた焦燥と失意には気づかなかった。
光太郎は、汚れ果てた自分の目の前に現れた純粋無垢な智恵子を審判官とあがめ、自分の為に生れた女性として理想化し讃え続けてきたが、生身の智恵子は、光太郎の描く智恵子に自分を合わせることに疲れてしまったのであった」


おさまりどころのよい解釈ではありますが、閉鎖的な故郷から脱出して都会で羽ばたくという強い欲求を満たしながらも、故郷の空を激しく求めるという相反するせめぎ合いや、光太郎の理想の女性でありたいと熱望しながら、自分を羽ばたかせたいという強い欲求の狭間に狂気が生まれる素因があったのではないでしょうか。


それにしても粘着質の光太郎の愛の深さには脱帽です。

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