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ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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カテゴリ: 遠藤周作

1後楽園
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後楽園 烏城
後楽園 スワン

自粛中にやや習慣化した散歩。

 

昨日は後楽園のパーキングに車をとめて、園内には入らずぐるりを一周しました。

 

時間にして約1時間、ところどころの木陰にベンチもあり、おにぎりでも持っていって一休みするのもいいコース。

 

ウグイスの美しい声やタンチョウヅルのけたたましい鳴き声が聞こえたり、反対側に目を向けると旭川の水面が初夏の陽を反射してさざ波のようにキラキラしているのを眺めたり、川を隔ててすぐ近くに迫っている烏城を写真に収めたり・・・

 

駐車場代100円、歩数約5000歩の充実の散歩道でした。

 

 

 

 

眠れぬ
さて本日は
遠藤周作氏著『眠れぬ夜に読む本』のレビューを。 

人間の心の奥底は考えていた以上に深く、底知れず、混沌としていたことがわかり、またこの心の奥底と、いわゆる外見が荒唐無稽、非科学的に見えるものには密接な関係のあることを知った…。生命はどこから来たのか、難病に苦しむ人へ、人間は死んだらどうなるか、など人類普遍のテーマに興味深く平易に迫る名エッセイ(「BOOK」データベースより)

1986年「週刊宝石」に連載していエッセイ収録した一冊

当時60代だった狐狸庵先生の軽妙洒脱な魅力全開の読み物といったところ。

『沈黙』『深い河』『海と毒薬』などで取り上げられたずしりと重いテーマの書き手とは180度違った著者の面が見られるのも楽しみのひとつ。

短歌の先輩でもあるアンさんお勧めの一冊。

横道に逸れますが、著者のご母堂が当地のご出身、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つというのを何かのエッセイで読んだことがあります。

以来、著者はその遠祖の地である井原市美星町に「血の故郷」と題した石碑を建てているそうです。

美星町は公開天文台があるところとしても有名、一度星空を見にいこうと計画しています。

さて本書について

狐狸庵先生としての身過ぎ世過ぎが多くを占めていますが、今まで北杜夫氏や佐藤愛子氏などのエッセイなどを通してわたしが知っている著者の一面が浮き彫りにされている小品も多く、特にひとり息子であり現フジテレビ社長の龍之介氏の結婚式こぼれ話「仲人は慎重にえらべ」は爆笑モノ(^^)/

またユングの深層心理学や幽体離脱など心の奥底の混沌としたものに対して興味があったらしいことがうかがえる小品がいくつか。

出来事は偶然に生じたのではない。

出来事は次々と我々をかすめて通っていくのだが、それを見逃すか、つかまえるかで大きな違いがある



そういえば、シンクロニシティに関しての文章を読んだような記憶があります。

生育時の家族関係の葛藤、学業不振などによる将来への不安、病気の苦しみなど、あの洒脱なユーモア溢れる文章からは想像できない険しい人生を過ごしてこられたであろう著者のかわいらしい人間性が見られる作品です。

ベッドサイドでどうぞ。

映画館の無料チケットがあるというので友人たちと映画を観にいきました。

2枚の無料チケットで4人。

ひとり分が450円。


「沈黙―サイレンス―」 


マーティン・スコセッシ監督の話題作。


アカデミー賞 撮影賞 ノミネート


敬虔なカトリック教徒であるスコセッシ監督が原作を読んだ後28年という歳月をかけて温めていた念願の企画だったそうです。


主な配役はアンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライヴァー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也など。


江戸初期、キリシタン弾圧下の長崎を舞台の遠藤周作氏の小説『沈黙』の映画化。


17世紀の日本という舞台を再現するのが非常に高くつくため、予算的な面から台湾が撮影地に選ばれたそうです。


とても台湾とは思えない長崎の島や山奥の様子がリアルに再現されています。


本作を遡ること1971年に、日本でも篠田正浩監督によって映画化されていますが、省略部分がかなりあったようです。


本作はほぼ原作を踏襲して裏切らない内容でしたが、いかんせん重くて暗い・・・


エンドロールが流れたあと、ぐったりとなってしまいました。



キリシタン弾圧が行われていた江戸時代初期、ポルトガルでイエズス会の宣教師をしていたロドリゴ神父とガルペ神父のもとに、日本でのキリスト教の布教を使命としていた彼らの師クリストヴァン・フェレイラ神父が日本で棄教したという噂が届いたことをきっかけに真相を知るために2人は日本へ渡ることを決意するところからスタート。


2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に隠れキリシタンが弾圧に苦しみながらも密かに信仰生活を送っている長崎のトモギ村と五島列島に密入国し布教活動をします。


しかし長崎奉行・井上筑後守の執拗な捜索に村人とともに囚われの身となったロドリゴ神父は踏絵に屈せず処刑される村人たちの姿を目の当たりにして苦悩します。


「なぜ神は苦悩する人間の前に姿を現さず、沈黙を貫くのか」


原作と映画における命題です。





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遠藤周作氏著『沈黙』


「島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編」


第2回(1966年) 谷崎潤一郎賞受賞作。


世界20カ国以上で13か国語に翻訳され、グレアム・グリーンに「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言わしめたという名作、戦後日本文学の代表作としていまもなお多くの読者に読まれています。


本書のモチーフになっているのは、島原の乱の後に日本にやってきたポルトガル人司祭の殉難と棄教。


主人公であるロドリゴは1643年に筑前に上陸したキャラ司祭という実在した人物をモデルにしているそうです。


キャラ司祭の棄教とフェレイラ神父の棄教という2つの史実を柱に構築した物語。


本書は前半、後半に分かれています。


前半部分にあるロドリゴ司祭の手紙には、日本への布教を決意した理由と日本での困難な布教活動、そしてキチジローというキリシタンの裏切りで官憲に囚われの身になるまで、後半では踏絵などのすさまじい尋問などが描かれています。


その中で描かれている師・フェレイラ神父との再会が見どころです。


拷問に耐えかねて棄教したフェレイラ神父によって棄教を説得されるロドリゴ。


自分のために拷問されるキリシタン農民の苦しみと信仰の板ばさみになるロドリゴの死にも値する苦しみが胸に迫ります。


本書のさまざまな場面で神に呼びかけるロドリゴの言葉は信仰を持たない私のキリスト者への疑問でもあります。


「あなたはなぜ沈黙しているのか」

「なぜあなたは人々の苦しみを置きざりにしたまま沈黙を続けられるのか」

敬虔なキリスト者でもあった遠藤周作氏ご自身の問いでもあったのでしょう。


遠藤氏はのちに「神は訴えに対して直接的には返事をしないが、だからといってそれは氷のような沈黙をかたくなに守り続けていることではなく、目に見えぬ"働き"という形で答えているのである」と述べていらっしゃいます。
敬虔なキリスト者以外には承服できるものではないかもしれません。


本書と映画を通して、キリシタンへの迫害のすさまじさには目を覆いたくなりました。

時の権力者のみならず、一般民衆のキリシタンに対する無知な憎しみにも驚くばかりです。


このような狂気が江戸時代初期の話とは言い切れないものが現代社会にもあるということが悲しいばかりです。

わが家では結婚当初から夫も私も何かしら本を読むのを3度の食事と同じような毎日の習慣として今日に至っています。


2人とも寝る前や待ち時間での読書以外、日中はどんなに時間があっても読まないのが共通していますが、分野は全く相容れることはありません。


夫婦でそれぞれ自分の楽しみが精一杯だったので子育ての間子どもたちに読書を強要したことがないせいか、3人の子どもたちは私たちほどには読書好きということなく大きくなったように思います。


私自身が高校生のとき衝撃を受けた『デミアン』、そして母になって感銘を受けた『ユンボギの日記』を子どもたちそれぞれにプレゼントしたのが唯一の無理強い的な行為でしたが、3人とも果たして読んだのか記憶がないくらいです。


それでも子どもたちが長じた今、長女とは時には本の情報を交換する楽しみも増えました。


またつい最近東京で一人暮らしの次男の所に初めて泊まったとき、彼が意外に本好きだということを発見しました。


一緒に暮らしていた中高生のときはテレビやゲーム、漫画に明け暮れて叱責の原因になっていたのにサラリーマンになった現在、なんとテレビなしの生活、物入れから次々出してくる本が古今東西の幅広分野に驚きました。


勧められるままに数冊持って帰ったうちの一冊が次の本です。


遠藤周作氏著『海と毒薬』


このブログでも過去に『イエスの生涯』とともに著者の簡単な経歴をご紹介していますので、よかったら見てくださいね。
      
 http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/239


さて本書『海と毒薬』は第33回芥川賞受賞作『白い人』を発表後の1958年の作品で、第5回新潮社文学賞&第12回毎日出版文化賞受賞作品で、今もなお不朽の名作として多くの人々に読み継がれています。


「戦争末期の恐るべき出来事――九州の大学付属病院における米軍捕虜の生体解剖事件を小説化、著者の念頭から絶えて離れることのない問い「日本人とはいかなる人間か」を追究する。
解剖に参加した者は単なる異常者だったのか? 
どんな倫理的真空がこのような残虐行為に駆りたてたのか? 神なき日本人の“罪の意識”の不在の無気味さを描き、今なお背筋を凍らせる問題作」


本書は実際に九州帝国大学医学部で起こった事件に材をあおいではいますが、生体解剖が行われたという現実の行為以外、登場人物もそこに至る過程も想像上の作話である、と遠藤氏は記していらっしゃいます。


九州帝国大学医学部出身の軍医見習士官が発案し、西部軍参謀の許可を得て恩師である第一外科部長に依頼、昭和20年の5月から6月にかけて、米軍捕虜(捕獲B28搭乗員)8名が、生きたまま九州帝国大学医学部で解剖されたという恐るべき事件。


後日談として発案した軍医見習士官は戦中に死亡し、戦後第一外科部長は逮捕されるものの独房内で自殺、他の関係者23名は横浜軍事法廷で5名が絞首刑、そのほかも有罪判決を受けましたが朝鮮戦争勃発による再審と、講和条約発効時の恩赦で大幅に減刑され、昭和33年までに全員が釈放されたと記されています。


評論家佐伯彰一氏は本書の解説の中でつぎのように語っていらっしゃいます。

「日本人とはいかなる人間か、作家遠藤周作の念頭から絶えて離れることのない問いはこれである・・・
本書もまた、この問いが彼をして試みさせた、困難な力業の一つである・・・
ここで作者は、事件を一つの問いに、さらに意味にまで深めようとしている。
取り上げられた事件は、センセーショナルな残酷物語だが、これはじつは、一つの倫理的、さらには宗教的な寓話の試みなのである」


一、第一捕虜に対しては血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調査す。

二、第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査す。

三、第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査す。



平和な現在の日本では目にしただけで戦慄するほどのこの試み、いかに多くの人が死ぬ時代とはいえ人はこれほどの狂気に走れるのかということに驚きを禁じえませんが、目を世界に転じてみれば神風特攻隊を生んだ日本のみならず、世界中で形こそ違え、同じような試みがあったし、現在もあるだろうと想像することは難くありません。


本書は著者を濃く投影した主人公「私」が気胸治療を求めて受診した医師勝呂の過去を偶然知るという導入部からスタートしますが、その後はその生体解剖に参加せざるをえなかった勝呂医師と、性格や考え方において対極をなす戸田医師の戸惑いや恐れ、容認などの長い物語へと続いています。


「宗教なき日本人の良心とは?」という問いから生み出された本書ですが、作品を通して著者が伝えたかったもう1つのテーマも見過ごすことのできないものではないでしょうか。


山崎豊子氏のロングセラー『白い巨塔』などで話題になった教授を頂点とする権力抗争が患者不在、または患者を犠牲にしながらその当時も、そして今もなお脈々と続いているという点です。


絶対的な権力を持つ教授の前で医局員たちに「従順」以外の選択肢はないという示唆がこの物語には散りばめられています。

軍の圧力によって生体解剖を受諾した教授もまた死に物狂いで地位を守ろうとした結果の所業だったのでしょう。


いずれにしてもこの作品は「人道とは」や「医の倫理とは」、「良心とは」という大きなテーマを内包したまま終わっています。


著者遠藤氏は本書の第二部を完成することを長年の課題とされたようですが、その試みは果たされないまま生を閉じられました。

本書の主人公勝呂医師が再び登場する『悲しい歌』がそれと指摘する方もいらっしゃいますが、著者の意図は果たしてどうだったのか知るすべもありません。


評論家山本健吉氏は「運命とは黒い海であり、自分を破片のように押し流すもの。
そして人間の意志や良心を麻痺させてしまうような状況を毒薬と名づけたのだろう」とタイトルについて語っていらっしゃるのが印象的でした。


余談ですが、本書は1987年熊井啓監督のもと、勝呂:奥田瑛二 戸田:渡辺謙 という配役で映画化、第37回ベルリン国際映画祭・銀熊賞審査員グランプリ部門を受賞しています。

直木賞作家の熊谷達也さんが月刊誌「小説すばる」に発表した小説に、アフガニスタンなどの紛争地取材で活躍するフォトジャーナリスト長倉洋海さんの著書から表現などを無断で使用していたという記事が出ていました。


同誌昨年12月号に掲載された「聖戦士の谷」について、長倉さんから「自著に依拠して表現を無断使用している個所が複数あり、見逃せない」などと抗議を受け、編集部で精査した結果、著作権侵害に当たる可能性が高いと判断、連載打ち切りを決めたそうです。



熊谷氏といえば直木賞受賞作家、生まれ故郷東北地方の風土に根ざした題材で多くの読者を魅了する作品を次々上梓している旬の作家です。



受賞作『邂逅の森』を代表とするマタギ三部作や、幻のニホンオオカミの物語など、充実した筆力で精力的に執筆していらっしゃいます。



このブログでも『邂逅の森』と『相剋の森』をアップしています。
    
              http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/181

マタギの生き方に喚起された私はその後同じマタギに材を置く志茂田景樹氏の『黄色い牙』を思い出して再読したのですが、熊谷氏の小説の構成、登場人物があまりにも志茂田氏のそれと似通っていることに驚きを隠せませんでした。

              http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/200

両者は30年の開きを経て上梓された作品ですが、志茂田氏の『黄色い牙』を読まれた熊谷氏が多大な影響を受けられたのではないか、と想像しています。

作家の著作権侵害に関する事件は時々報じられますが、知らず知らずのうちに心酔する作家の文章を模倣してしまうということもあるとは思いますが、今回のことはその枠を大きく外れていたようですね。

『黄色い牙』vs『邂逅の森』に関しては志茂田氏による抗議もなく直木賞受賞作品として世に出ていることから何の問題もないと思いますが、この記事を読んで思い出したのでした。



さて、今日はまたまた古い本から遠藤周作氏『イエスの生涯』をご紹介したいと思います。


著者がカトリック信者だった母方の伯母の影響で11歳でカトリックの洗礼を受けて以来の敬虔な信者であったことは広く知られた事実です。


1955年発表の芥川受賞作品『白い人』を代表として、『黄色い人』『沈黙』『海と毒薬』、『深い河』などキリスト教を主題にした多くの作品を執筆していらっしゃいます。


両親の離婚、度重なる受験の失敗、浪人時代に得た結核などの影響はよくも悪しくも著者の人生に大きな影響を与えました。


これら内面の葛藤をユーモアにかえ、狐狸庵山人という雅号でひたすらぐうたら道を推進するユーモアエッセイは私の大のお気に入りでもあります。


神戸つながりで親しい佐藤愛子氏との掛け合いなど、遠藤氏のユーモアに心癒されている読者も多いのではないでしょうか。


また生涯を通じて苦しめられた肺疾患を通して、弱い患者の立場から医療や医師に対して是正すべき数々の点を言及、先頭に立って展開した「心あたたかな医療」運動は著者亡き後も心ある人々に受け継がれているようです。


しかし、著者の生涯のテーマは一貫してキリスト教でした。


キリスト教を唯一の宗教とする欧米のキリスト教に対する考え方になじめず、一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究し続けた著者の「イエス像」は宗教関係者の間でもよく賛否両論の対象となっています。



本書に登場するイエスは、救い主メシアでも英雄でもなく、徹底的に無力で奇蹟を起こす力とてなく、悲しむ者病める者の傍らにただ寄り添う青年、人々の嘲りの中で弟子たちにすら見捨てられて死んでいった青年として描かれています。


本書の中ほどまで費やして描いたイエスの死までの半生は神の子としてのイエスではなく人間イエスとして、繰り返し繰り返し無力のイエスを描いています。


青年イエスの洗者ヨハネとの宣言の比較もイエスの真実を表すものとして何度も出てきます。


善き果を結ばざる者に対する神の裁き、怒り、罰を暗示する烈しい威嚇を含むヨハネの宣言に対するイエスのそれは福音である、と著者は説きます。


「幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり
幸いなるかな 泣く人 彼等は慰めらるべければなり」



「重荷を負うている すべての人よ
来なさい わたしのもとに
休ませてあげる そのあなたを」



自分を熱狂的に支持した民衆がいったんイエスが奇蹟を起こせないことを知ったあとは幻滅とともに憎しみを抱くということをも知っていたイエスは悲しみの中ですべてを引き受けて十字架を背負います。


「汝達は徴(しるし)と奇蹟を見ざれば信ぜず」

「人間たちはどうして徴を求めるのだろう」

「見ずして信ずる人こそ幸いなのに…」



著者はこのように従来のイエスの奇蹟描写を排除し、現実には奇蹟を起こせないイエス、ひとりの無力な人間としてのイエスを徹底的に描いています。


これらの点がカトリック教会の教導権の教えを否定するような言説として非難を浴びていることも事実です。


「奇蹟」が重要部分をなすキリスト教ですが、私を含め「奇蹟」あるゆえ違和感を覚えている人も多いと思いますが、著者のイエス像は私にあたたかい「寄り添う宗教」のイメージを与えてくれました。


キリスト教徒ではない一読者の私はこの著者の描く嘲りの中で死んでいった無力の青年イエスの方により強く惹かれます。


病苦などよりはるかに深い、すべての人に見捨てられるという苦しみの根源を知っているイエスが貧しき人々に寄り添い共に苦しむ姿を描くことで「奇蹟」よりもはるかに深い「愛」の存在を読むことができるのです。


弱く卑怯な世俗的人間であることを露呈していたイエスの弟子たちがイエスの死後、内部的な変貌をとげて弟子から使徒に変わっていく姿を描きながら、その変貌の謎を求めて自身に問いかけています。


自分たちの卑劣な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応えた師イエスの真の姿こそが弟子たちを変貌させた源であろうというのが著者の推論です。


著者の推論にはいろいろな異論もあるようですが、「事実ではないが真実である」と書かれた著者のこのイエス像によって私は身近なイエスを感じることができたのでした。

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