VINのらんどくダイアリー

ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

PVアクセスランキング にほんブログ村

カテゴリ: 城山三郎

京都・舞鶴から来岡した義姉を案内して倉敷・大原美術館に行ってきました。   


現在のクラレなどの前身である紡績業を基礎に、財閥を築いた大原家の二代目・大原孫三郎氏がパトロンとして援助していた洋画家・児島虎次郎氏に託して収集した西洋・中近東・中国の美術を展示するために1930年に開館した日本で初めての西洋美術の館、今年はその息子である三代目・大原総一郎氏の生誕100年にあたるそうです。



蔦に囲まれた門を入ると両脇にロダンの彫刻・「洗礼者ヨハネ」と「カレーの市民」の像が目に飛び込んできます。


日本の片田舎にある私的美術館所蔵が奇蹟だといわれているNo1目玉商品・エル・グレコの「受胎告知」は児島虎次郎氏が渡欧中、偶然パリの画廊で売りに出ているのに遭遇したもののあまりの高額に自分では即決できず大原孫三郎氏に相談した結果ゴーサインが出たという経緯。

アマン・ジャンの「髪」の買い付けをスタートに、モネの「睡蓮」やマティスの「画家の娘-マティス嬢の肖像」もそれぞれの画家自身から直接児島氏が購入したそうです。


豊かな資金に飽かして購入した名画の数々!


私の好きなモディリアニの「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」も含まれています。



余談ですがこのような世界的財産ともいえる所蔵品の数々の存在を早くから把握していたアメリカは文化財産保護の意味も含めて倉敷市を空爆の対象から外すという配慮をしたといわれています。



孫三郎氏は女工哀史さながらの工員労働などで得られた巨額の富を名画収集につぎ込む一方、若い頃日本で最初の孤児院を創設した石井十次氏と出会ったことで社会的福祉事業や工員の教育や環境改善、農業改善などの改革に目覚め、生涯を貫いて取り組んだことでもすばらしい評価を与えられている人物です。


というわけで本日は孫三郎氏の常日頃の口癖をそのままタイトルに戴いた作品をご紹介します。


城山三郎氏著『わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯―』

「この男がいたからこそ、倉敷の街は今も美しい。
『社会的良心』と『業績の拡大』二つを両立させた名経営者の生涯」


「下駄と靴と片足ずつ覆いて-その男は二筋の道を同時に歩んだ。
地方の一紡績会社を有数の大企業に伸長させた経営者の道と、社会から得た財はすべて社会に返す、という信念の道。
あの治安維持法の時世に社会思想の研究機関を設立、倉敷に東洋一を目指す総合病院、世界に誇る美の殿堂を建て…。
ひるむことを知らず夢を見続けた男の、人間形成の跡を辿り反抗の生涯を描き出す雄編。経済小説の分野」


本書を読むと孫次郎氏の興した事業の多様さに驚きます。


父親の孝四郎氏が興した倉敷紡績を基礎に、クラレ、中国銀行、中国電力など岡山を代表する企業の他、倉敷商業高校、倉敷中央病院、大原美術館、大原社会問題研究所、大原農業研究所などを設立。



また特筆すべきことは一企業家でありながら、戦前にマルクス主義の研究を行う「大原社会問題研究所」や農民の生活向上のため「大原農業研究所」を設立したことです。


これら研究所は現在もなお「法政大学大原社会問題研究所」、「岡山大学資源生物学研究所」として受け継がれています。


若き頃放蕩の限りを尽くしていた孫三郎氏が前述の石井十次氏との出会いによって社会の虐げられた人々の存在に目を開かされ、孤児院設立に大きな力を発揮した様子が本書前半を割いて語られています。


今でこそ企業のモラルなどが叫ばれている世の中、古い封建制度が力を発揮していた明治から大正期にかけて、徹底的に社会に対して利益還元を貫いた氏は企業人としても人間としても超一流の人であると言えるでしょう。


「資本家と労働者は、幸福を分かち合い、手を携えて成長する同志である」



そして海外視察経の旅に出発する一人息子・総一郎氏への手紙には企業家としての親の心情があふれています。

「貴族的旅行でないように注意のこと。
一社員の旅行であることを忘れぬよう。
カツチリした旅行であり、まじめな態度で、無駄せぬよう、自重自愛を祈る」
「対等の人のみと交際してゐたのではよろしくない。
わがままの出来る交際は注意すること」


「大胆に細心に各方面の人に接し教へられる処に発見するものがあると思ふ・・・
自己の信ずる個性の拡張や訂正も大切であるが、積極的にすべてにブツカツテ、而して発見・発明があるので、苦難苦労のうちより幸福が生れ、光明が与へられるものである。
所謂安全の道は進歩も工夫もないものである」


「外国人の経営的態度、事業に対する精神的・個人的態度等について注意されたし。
調査に付いてどうするか。
進歩的気風を作るには、調査をどううごかせるようにするか、生きた調査はどうするかを考へ、この点についても注意されたし。
社長の倅であるとの取り扱ひをされぬだけの内容を作って帰るやう、何かに心がける事が大切と思ふ」


最後にマルクス経済学者として名を馳せた大内兵衛氏による孫三郎氏評。

「大原孫三郎は、大正・昭和を通じて大阪以西の関西に おいて最大の事業家であったが、彼は、その作りえた富を散じて公共の事業をしたという点では、三井も、三菱も、その他いかなる実業家よりも、なお偉大な結果を生んだ財界人であったといっていいと思います・・・
金を儲けることにおいては大原孫三郎よりも偉大な財界人はたくさんいました。
しかし金を散ずることにおいて高く自己の目標をかかげてそれに成功した人
物として、日本の財界人でこのくらい成功した人はなかったといっていいでしょう」


大原孫三郎氏の行ったことは今も倉敷の地でしっかり実っています。

機会がありましたらぜひ訪れて確かめてください。

ここ数年大麻所持で検挙される人がうなぎ上りに増えていますね。

警察庁によると昨年の検挙率は前年2007年度の約20%増だそうです。

全国の大学が緊急に対策を立てるほど。

ヘロインなどの麻薬系や覚せい剤より依存性が少ないというのをうたい文句にちょっとしたアクセサリー的に気軽に手を出すのでしょうか。

麻薬系のみならず安易に精神安定剤などの医薬品に依存する若者も増えているというニュースを読むと前途が恐ろしくなります。


高齢で死の恐怖と闘っている寝たきりの母はかかりつけの医師からブラセボといってもいいほどの軽い安定剤を処方してもらっていますが、元来の不安定な精神的症状が高じてどんどん薬の量が増えています。

若い頃の母はそんなことは考えられないほど理性が勝っていましたが、今はヘルパーさんや看護師さん、私の顔を見れば薬を要求するのでその対応に疲れ果ててしまう毎日です。


心身の依存の恐さをまざまざと見せられています。



昭和16年に一時的に力をつける栄養剤的な感覚で発売されて画期的な売り上げを伸ばしたヒロポンですが、常用すると依存症や幻覚幻聴などの精神病的な症状が出ることがわかり昭和26年に禁止になりました。


市場に出回って安易に購入できたその10年間に工場で長時間労働をする学徒動員の女学生に飴玉などに混ぜて与えられたり、戦場に出向く特攻隊への恐怖克服対策として、また夜間戦闘機の搭乗員に視力向上用としてどんどん配布していたそうです。


手段を選ばない戦いへの模索を想像するだけで恐ろしくなります。



さて本日はその特攻隊第1号に選ばれた関行男大尉を代表とする指揮官たちの軌跡を克明に描いた作品をご紹介したいと思います。


城山三郎氏著『指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく』


先日ご紹介した城山氏の『そうか、もう君はいないのか』が氏の遺作なら、本書は著者在命中に書かれた最後の作品です。


平成13年小説新潮に4回にわたり連載したものを1冊にまとめて刊行するにあたり大幅に加筆したものです。


「戦争を書くのはつらい。
書き残さないのは、もっとつらい・・・
書くべきことはすべて書いた・・・
これがわたしの最後の作品となっても悔いはない」


海軍特別幹部練習生として終戦を迎えた著者はその後経済小説大家として不動の地位を確立しましたが、作家としての原点である自らの戦争体験を後世に書き残すという強い使命感をずっと持ち続けていたそうです。



大東亜戦争末期、戦力が衰退の一途を辿る中、神風特別攻撃隊指揮官第1号に選ばれフィリピン・バタフ沖に散った関行男大尉と、敗戦を知らされないまま天皇陛下の終戦の詔勅放送後に最後の特攻隊員として沖縄へ出撃した中津留達雄大尉の2人の指揮官の生い立ちとその後の人生、そして遺された家族たちの失意と悲しみの軌跡を軸に愚かな戦争の実態を怒りを抑えた筆致で描ききっています。


長男、1人っ子、妻帯者という侵してはならない兵士たちまでも巻き込むという捨て鉢とも思える戦術の負け戦。


宇佐航空隊で修練を積み、共に23歳という若さで勝ちはないと知りながら散っていった2人の特攻指揮官の死を想うとき、その理不尽さに強い憤りが渦巻きます。 


特に最後の特攻となった中津留大尉は新妻と愛児に心を残しながらも上官の宇垣航空艦隊司令長官との道づれ玉粋を強要されるという目を覆いたくなる痛ましさです。



国に命を捧げた指揮官たちの生きた証をたずねる旅の途上、中津留達雄大尉の故郷である津久見の蜜柑畠への山道の墓の前に立った著者は先の戦争が残した愚かさに無念さが胸いっぱいにあふれます。

「二十歳前後までの人生の幸福とは、花びらのように可愛く、また、はかない。
花びらのような幸福は、花びらより早く散り、枯枝の悲しみだけが永く永く残る。
それが、戦争というものではなかろうか――と。
予科練など少年兵が、花も蕾のまま散って行くのに対し、関、中津留らは、軍隊という窮屈な枠の中で、それぞれ個性的な指揮官としての人生へと踏み出し、また、花開く幸福を知ったにもかかわらず、花びらより早く散って行った。
その男たちの無念さを思うと、こちらはいまも無心に花を仰ぐ気持ちになれないでいる」


九州宇佐航空隊からパール・ハーバーへの第一弾を投下した高橋赫一少佐35歳のエピソードにも胸が詰まります。

ハワイ攻撃途上で生まれた次男が肺炎で危篤状態になったとき、航空隊にあるサルゾールという特効薬を分けてもらうよう促す医師に対して高橋少佐は断ります。

「あれは陛下の将兵のための物、1本たりとも私するわけにはいきません」

次に輸血を促す医師に向かって「私の体のすべては陛下に捧げたもの、血を抜くことで次の日の働きに差し支えができては、申訳ありません」と。



軍人の模範とされた乃木希典大将は司令官として絶対の権力を持っていたにもかかわらずあえて息子を最も危険とされていた戦場へ送り出し若き命を散らせてしまいますが、それこそが国や陛下に対するすばらしい行為と崇められていた時代だったのですね。


国を守るという純粋な意気に燃えて海軍に志願、特別幹部練習生となったあと終戦で任を解かれて帰省した著者は嵐の爪跡の中で新たな思いにかられます。

「勝つか死ぬかしか無いと思っていたのに、負けて生きるということがあったのかと、不思議な気がし、次にはほっとする思いになった」


取り返しのつかないことはたくさんありますが、戦争はその最たるものではないでしょうか。

永久に絶対に戦争をしてはならないとということを次世代に伝えなければなりません。

夫の2度目のがんが見つかって厳しい治療のあとさきにはいろんな覚悟が気持ちの中で乱れていましたが、それも無事に5年を迎えることができる年になりました。


当初私自身も少し前に免疫系の病気を発症して苦労していた時期でもあったので先の見えない暗闇を味わいましたが、そうもしておれないと自分を励ましてまずは食事の内容を見なおすことからはじめました。


当初は食事療法の王道である「正食」に近づけるべく玄米菜食海草小魚という内容でがんばっていましたが、「白米が食べたい」と根を上げた夫によって玄米から半つき、7分つきと変えてついにはピッカピカになりました。

その間ひえやあわ、麦などの雑穀を加えたり、胚芽米にしたりの時期もありましたが、どれも長続きせず中断の連続。


それと並行して魚以外の肉、乳製品をやめていましたが、これも意志の弱さといい加減さが相まってだんだんうやむやになって今日に至っています。

今では外出時にラーメンを食べたり、時には焼肉をしたり


「食事療法で治す病気」などというタイトルが目につくと今でも少しうろたえますが、1食1食をおいしく食べられるほうがいいや、と開き直っています。


5年前に課した厳しい食事療法は破綻してしまいましたが、同時に話し合った合言葉「笑って過ごそう」は今も細々とながら続いています。


元来吉本大好きだったのに磨きがかかって、今ではTVはお笑い1本筋、旬のお笑い芸人ならすべてフルネームでお任せという自信があるほど。


小さな小競り合いはよくありますが、5年以前と変わったことといえば、お互い、というより短気でわがままを自認する夫に関していえば悪感情の無駄な長引かせをしなくなったことです。


命の期限を突きつけられたことで得られたことといえば、2人で過ごすなら少しは工夫しながら楽しく過ごす方法を考えるきっかけになったことでしょうか。



今日は城山三郎氏の遺作『そうか、もう君はいないのか』をご紹介します。

1957年『輸出』で第4回文学界新人賞
1959年『総会屋錦城』で第40回直木賞
1974年広田弘毅がモデルの『落日燃ゆ』で吉川永治文学賞&毎日出版文化賞
1996年『もう、きみには頼まない――石坂泰三の世界』で第44回菊池寛賞受賞
2002年浜口雄幸と井上準之助を描いた『男子の本懐』
など実在の人物をモデルにしたノンフィクション風の小説多数

2007年間質性肺炎のため亡くなられたあと発見されたのが本書です。


「最愛の伴侶の死を目前にして、そんな悲しみの極みに、遺された者はなにができるのか。私は容子の手を握って、その時が少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった・・・
あっという間の別れ、という感じが強い。
癌と分かってから四ヶ月、入院してから二ヶ月と少し・・・
もちろん、容子の死を受け入れるしかない、とは思うものの、彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる。容子がいなくなってしまった状態に、私はうまくなれることができない。
ふと容子に話しかけようとして、われに返り、『そうか、もう君はいないのか』と、なおも容子に話しかけようとする」


特攻隊から復員した学生だった頃の奇跡的な出会い、高校生だった容子さんを「天から舞い降りた妖精」という言葉で表すほどの気持ちを生涯持ち続けた城山氏の夫としての優しさやかわいさがいたるところから読み取れます。


長い結婚生活の様々な山坂を容子さんは持ち前の明るさで前向きに進んでくれたと感謝される城山氏。


城山氏の文章から立ち上がってくる容子さんは時間や日常の雑多な細かいことにはこだわらないおおらか人柄、無類の買い物好きで勉強は苦手・・・どれをとっても受け皿の夫によっては許しがたい欠点ともなる要素を城山氏はほほえましく、愛すべきこととして温かく見つめる夫でした。


本書からは容子さんというよりそんな城山氏の温かい人柄が伝わってきて胸を打たれます。


城山氏亡き後の整理中、妻が逝ったその日の著者の手帳に記されていた「冴え返る 青いシグナル 妻は逝く」を発見した次女の井上紀子さんの「父が遺してくれたもの」と題する後半の随筆もまた夫唱婦随のすてきな夫婦の姿を浮き彫りにするものでした。


「亡くなる前日、夜間の付添いを珍しく頑なに、私ではなく父に頼んだのも、自分の最期を察し、自らの幕は二人だけのセレモニーの中で下ろしたかったからだろう。
母の死後、数日経って、父は独言のように、『看取ることができて幸せだった』とぽつりと言った…
しかし、以後の七年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない。
想像以上の心の傷。
その大きさ、深さにこちらの方が戸惑った。
連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。
子や孫は慰めにはなっても代わりにはなれない。
ポッカリ空いたその穴を埋めることは決してできなかった」


城山氏の遺稿となったこの作品は完成品というより、死後出版者の方々が苦労して構成したという感じが伝わってきますが、なめらかさよりその訥々とした構成が逆に城山氏の心の状態をよく表わしているようでした。


なくして初めてどんなに大切かを思い知るのは人間の常ですが、そのことに心して日々を大切に感謝して過ごしたいと思わせてくれた作品でした。

   ※ 油絵夫作
 

桜があっという間に散り、いっせいに新緑が芽吹くこの季節は大地の下の生命のエネルギーが強く感じられます。

このすさまじいまでの息吹に少々息切れしてダウン、しばらくブログを更新していませんでしたが、読書は滞ることなく毎晩続けていたので、ブログ積本がたくさん溜まってしまいました。

体調をくずしたり、忙しかったり、またはバイオリズムが低下して意欲が湧かないときの読書はたいてい短編か漫画ですが、今回もひたすら短編と漫画に明け暮れていました。


ということで今日は城山三郎氏による短編集『打たれ強く生きる』をご紹介します。

本書は日経流通新聞に1983年に連載されていたビジネスマン向けのエッセーをまとめたものですが、3枚ほどの簡素なものでとても読みやすくなっています。

城山氏は昨年3月に79歳で亡くなられました。

各界の著名人からの追悼文の中に「またひとつの良識の火が消えた」とあったのがとても印象に残っています。


『静かに行く者は 健やかに行く 健やかに行く者は 遠くまで行く』

氏の最も好きな言葉だったそうです。


作品の多くを読んだわけではありませんが、1部の作品や随筆を通して知る著者の人柄は静かな闘志を秘めた気骨の人であったと認識しています。


17歳のとき海軍特別幹部練習生として終戦を迎えた著者は大学卒業後大学教員を経て
1957年『輸出』で文学界新人賞
1959年『総会屋錦城』で直木賞
1974年元内閣総理大臣広田弘毅をモデルにした『落日燃ゆ』で吉川英次文学賞&毎日出版文化賞
1996年『もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界』で第44回菊池寛賞
2002年朝日賞をそれぞれ受賞していらっしゃいます。


経済界などで活躍した実在の人物をモデルに虚実織り交ぜたノンフィクションに近い小説を得意とされているため男性読者が多いのもうなずけます。

浜口雄幸と井上準之助を描いた『男子の本懐』、本田宗一郎をモデルの『勇者は語らず』、
通産官僚佐橋滋がモデルの『官僚たちの夏』、横井英樹がモデルの『乗取り』、私の郷土岡山
が生んだ名士大原孫三郎がモデルの『わしの目は十年先が見える―大原孫三郎の生涯』、
ダイエー創始者中内功がモデルの『価格破壊』、森コンチェルン創業者森矗昶がモデルの『男
たちの好日』、渋沢栄一がモデルの『雄気堂々』など、政界や経済界の大物を扱ったこれら
の小説を通して著者の世の中に対するまっすぐな視点を見ることができます。


最愛の容子夫人を亡くしてから綴った随筆『そうか、もう君は居ないのか』が遺稿となりました。


本書に登場する1980年代の経済界の重鎮の素朴な人柄が、著書との交流を通して何気なく描かれていて時にはほほえましく、時には身近に感じられて、城山氏の人間に対する感性といったものが垣間見える読み物となっています。


企業における新しい英雄にふさわしい人物として ―――

★第一に、人間痛であること。
 人間に興味を持ち、じっくり観察できる人。
 そのためには感受性をみがき、他人の言うことをよく聞くひとでなければならない。

★第二に、忍耐強いひと。
 英雄の役割をつとめるためにも、とにかく耐えねばならないからである。

★第三に、淡々たる人柄であること。
 新しい企業の英雄は、状況が変わったり、機能を果たせば、たちまち不要となる。
 そのとき、さっと退ける人間でなくては、他人を退かせることもできなくなる。

やるときにはやるが、自らの栄達や権勢にとらわれない。
それが新しい英雄である ―――


また、私も大ファンだった故桂枝雀氏の言葉「ぼちぼちがいちばんや」に言及して

「いい言葉だと思った。
サラリーマンなら定年をすぎたいまのわたしが、このごろいちばん痛切に感じていることを、その言葉はぴったり表現していた。
人生あわてても仕方がない・・・
人生それほどたいしたものではない。
ごく素直に、ぼちぼちと歩けばいい。
また、ぼちぼちだからこそ、歩き続けられるのではないか」

こんな貴重な言葉を遺した枝雀氏は残念なことに人生中途で自らぼちぼちを止めてしまいましたが、城山氏が示唆されているように私も細い道を、ぼちぼち、というよりとぼとぼ歩いていこうと思っています。

↑このページのトップヘ