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ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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カテゴリ: 中村文則

夫を初め3人の子どもたちが揃ってさまざまな分野の音楽大好きな中、いつも音楽音痴と侮られている私ですが、クラシックにしろ、ジャズ、映画音楽、日本の歌謡曲などの中でも自分の感性を刺激する曲がいくつかあります。


その中でもパガニーニのバイオリン曲をピアノ用に編曲したリストの「ラ・カンパネラ」ははるか昔に聴いて以来、一日中でも聴いていたいほど好きな曲の1つとなっています。


リストによる編曲には「パガニーニによる超絶技巧練習曲」と「パガニーニによる大練習曲集」の2種類あり、とても長い前者に比べ後者は短くコンサートなどで演奏されるのはたいてい後者だそうです。


以前娘がMDにさまざまなピアニストによる「ラ・カンパネラ」を収録してくれたのを宝物にしていましたが、引越しのどさくさで失ってしまったのが痛恨の極み。


なのでYou tubeでキーシンやユンディ・リ、ルービンシュタイン、辻井伸行、フジコ・ヘミングなどをじっくりと聴き比べては楽しんでいます。


フジコ・ヘミングについては1999年にNHKのドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放映されて以来日本で起こった「フジコ旋風」は今もなお続いています。


大反響を受けて同年に発売されたデビューCD「奇跡のカンパネラ」は発売後3ヶ月で30万枚が売れるという日本のクラシック界では異例の大ヒットとなりましたね。


その後何度か再放送されたドキュメンタリーやテレビ出演を観られた方も多いと思いますが、私も5月にNHK・BSで放映された「わんにゃん茶館」に出演されていたフジコ氏を偶然目にしました。


スウェーデン人を父に、日本人を母に持つ彼女の生い立ちや長い間の無国籍、奇跡の再起を果たすまでの波乱万丈の人生、音楽人生途上での失聴など、彼女の語るに重い物語は有名ですが、テレビを通して見た彼女は人間不信という固い殻を被り、犬猫にのみ心を許しているというふうでした。


60歳過ぎて一躍注目されたことについての感想を司会者に聞かれた彼女の言葉がとても印象的でした。

「笑っちゃうわね・・・その前もそのあとも変わらない私なのに」

言葉は正確ではないかもしれませんが、有名になり周りにもてはやされる自分を含めて日本人の狂乱振りを何歩も退いて冷静に観察している・・というような印象でした。


「この地球上に私の居場所はどこにもない・・・
天国に行けば私の居場所はきっとある」

「私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ」

(「あなたにとってピアノとは?」と訊かれて)「猫達を食わせていくための道具ね」

「私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい」

「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」(ラ・カンパネラについて)


これらの情報を知った上で先日彼女のリサイタルに行ってきました。  


私自身はどんな演奏家の「ラ・カンパネラ」もそれなりに大好きなのでとても楽しみにしていました。


キーシンもユンディ・リも大御所・ルービンシュタインもそれぞれ個性的な鐘を鳴らしていましたが、彼女の「ラ・カンパネラ」は一度聴けば彼女とわかる独特のもので、ほかと比べてとてもテンポが緩やかな感じがかえって人間味を醸し出しているようでした。


彼女の技術的なテクニックを云々する耳と言葉を持ちませんが、少なくともテクニックに優れた演奏家の醸し出す無味乾燥な演奏と一線を画しているのではないでしょうか。


私たち日本人の聴衆にとって彼女の演奏は波乱万丈の人生という付加価値を包めての感動ともいえるという感を更に強くする生演奏でした。


私は小さなミスタッチや音のバラつきを聞き取る耳を持ち合わせませんが、そういうことを超越した心打つ演奏というものがあるのではないでしょうか。


日本の着物をアレンジしたコンサート衣装を身に纏った彼女の世当たり下手なはにかんだようなぎこちない笑顔がとても印象的でした。




さて前フリが長くなりましたので本日のレビューは簡単に。


中村文則氏著『掏摸』

2002年 『銃』で第34回新潮新人賞
2004年『遮光』で第26回野間文藝新人賞
2005年『土の中の子供』で第133回芥川賞
2010年 『掏摸』で第4回大江健三郎賞受賞


著者の作品では芥川賞受賞作『土の中の子供』のレビューを書いていますのでよかったら読んでください。 →  


「東京を仕事場にする天才スリ師。
ある日、彼は『最悪』の男と再会する。
男の名は木崎 かつて一度だけ、仕事をともにした闇社会に生きる男。
『これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前が死ぬ。逃げれば、あの子供が死ぬ……』
運命とはなにか。
他人の人生を支配するとはどういうことなのか。
そして、社会から外れた人々の想い、その切なる祈りとは 。
芥川賞作家がジャンルの壁を越えて描き切った、著者最高傑作にして称賛の声続出の話題作! 」


徹底的に個の存在を消して他者との関わりを一切遮断し、東京という都会でひたすら掏摸を生活の基盤に置いている若い男の物語。


プロの掏摸師の細部にわたる業や心理状態、掏摸を行う現場の手に汗を握るような臨場感の描き方はさすがですが、『土の中の子供』同様に全体的に救いのない暗い色調の作品となっているところ、読者の間でも好みが分かれるのではないでしょうか。


孤独な主人公が唯一交わることとなったのが自分と似た境遇の不幸な少年と、自分の運命を支配する悪の化身とも言える「木崎」という男。


この2人との交流を軸に、掏摸という生業を持ちながらもどこか普通の人間であることを保っていた主人公が抗うことのできない運命に翻弄され自分に課していた一線を越えざるを得ない様子が詳細に描かれていて、無力感ただよう作品となっています。

「もし神がいるとしたら、この世界を最も味わっているのは神だ」

「世界は理不尽に溢れている」


これがこの作品の要約ではないでしょうか。

ここ数年、普通の会話でもよく使われるようになった「トラウマ」という言葉を最初に学術書に登場させたのはフロイトだそうです。

人間にとって物理的な外傷が後遺症となるように、過去の強烈な心理的な傷がその後も精神的な障害をもたらすことを著書の精神分析入門で発表、精神的外傷を意味する用語として「トラウマ」を用いました。


語源はギリシャ語で単なる「傷」を意味するそうですが、現在心理学の学術用語として
「心的外傷」または「精神的外傷」と訳されています。


阪神大震以後よく目にするようになったPTSD(心的外傷後ストレス症候群)は震災などの強烈な体験を通して受けた心の傷-トラウマ―によって発病した病気を表わします。


震災ばかりでなく、新聞紙上には虐待やいじめの記事が氾濫していて目を覆いたくなるほど。


特に肉親による幼児虐待は留まるところをしらないほど増え続けていて悲惨です。



本日ご紹介するのはそんな幼児期に受けた酷い虐待からのトラウマによりPTSDにがんじがらめになっている主人公の青年を描いた『土の中の子供』中村文則氏著です。


「『私は土の中で生まれた。
親はいない。
暴力だけがあった』

虐待の記憶の向こうに再生の芽を探る新世代文学。
重厚で、新鮮な本格的文学と激賞された27歳、驚異の新人の芥川賞受賞作」


2002年、「銃」で新潮新人賞&芥川賞候補
2004年、「遮光」で野間文芸新人賞
2005年、本書「土の中の子供」で第133回芥川賞受賞


親の顔も覚えない幼いうちに親に捨てられ、引き取られた養父母からの日常的な虐待の末、土に埋められるという壮絶な恐怖と隣り合わせの幼児期を過ごした「私」が主人公。


その顔も知らぬ父の所在が明らかになるところから物語が立ち上がり、その父との対面を拒否するところで終わります。

唯一信頼していた施設長のヤマネさんに父に会うことを勧められた「私」は答えます。

「僕は、土の中から生まれたんですよ。
だから親は居ません。
今の僕には、もう、関係ないんです」


暴力に対するシェルターでこころを幾重にも武装してもなお武装しきれないものが長じて他者に対する暴力として出てくることは心理学上知られたことですが、この物語の主人公は心の内側でそっと処理するにあまりある過酷なトラウマから、他者に対して自ら暴力を誘い込んだり、自分の落ちていく姿を重ねてものを落下させることに執着するという異常な行動をコントロールできない27歳のタクシードライバーとして描かれています。


全編を通して息苦しいほどの閉塞感のある物語というのが私の正直な感想です。

途中で放棄しようと思いましたが、最後を見届けるために粗い読み方で何とか読了しました。


自分を破壊するという欲求から見ず知らずの他者を利用して誘導する「暴力」やタクシー強盗による予期せぬ「暴力」まで、これほどまで「暴力」へのこだわりや絶望感を描ききった先には何があるのかというのが私が見届けたかったことでしたが、微かな希望と再生を感じさせる着地で終わったのは、ほっとしたというより読者に阿った予定調和的な安易なにおいを感じてしまいました。


それから、もう1人の登場人物、主人公の同棲相手の白湯子。

恋人に逃げられ赤ちゃんを死産したことから不感症になりアルコールに逃げるという虚無的な生活を送っているという設定ですが、「白湯子」というネーミングからして特殊性を強調したようでとても不自然な不幸設定が私にはなかなか受け入れ難いものでした。


著者があとがきで述べているように、「僕の本質的な部分を如実に示しているように思えた」というこの小説は何らかの形で著者の生きてきた過程を色濃く反映していることには間違いないようです。


「僕は小説というものに、随分と救われてきた。
世界の成り立ちや人間を深く掘り下げようとし、突き詰めて開示するような物語、そういったものに出会っていなければ、僕の人生は違ったものになっていたと思う。
僕にとって小説はかけがえのないものであり続け、また、生きる糧であり続けた」


楽しく書いたとはとても想像できないこの物語ですが、著者にとっては書きたいというエネルギーの結晶だったのでしょうか。


何とも落ち込む物語でした。

次は明るいものを読まなくっちゃ。

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