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ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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カテゴリ: 小池真理子

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底ごもるグレコのこゑに和すやうにひそと弾きゐる秋夜の〈枯葉〉


朝日新聞土曜版beで連載されている小池真理子氏の「月夜の森の梟」。

 

ご夫君・藤田宜永氏に先立たれてからの日々の心情を描かれたエッセイ。

毎週、楽しみに・・・という表現はちょっと似合わないけれど、心で掬いとるように味わいながら読んでいます。

 

実父母や養父母、義父母、そして義姉兄、実弟姉などをつぎつぎに喪った寂しさは味わってきたつもりですが、きっとまだまだ甘い自分。

 

子どもたちに先立たれたりとか長く人生を共にしている夫の死はまだ未経験。

 

でも近い将来それは必ず訪れること必至。

 

夫が先かもしれないし、私が先かもしれない。

 

そんなことを想像しながら毎回このエッセイを読むと、小池氏の深い喪失感に胸を衝かれてしまう。


ご夫妻とも直木賞作家。


都会のバーのカウンターに向かう椅子が似合うようなスタイリッシュな美男美女のお二人。


お二方の小説も何冊か読んでお二人のちょっと甘めなスタンスも知ったつもりになっていたわたし。


お互い作家同士というのは想像だにできないほどに大変そうで、きっと長続きしないだろうな、というのがお二人の結婚発表のときのわたしの感じたこと。


しかしそんな失礼な感じ方もこのエッセイを通して大きく覆った印象。


伴侶に先立たれる、というのは、等しく巡ってくる人生の共通イベントである。

ふたりが同時に死を迎える確率はきわめて低い。宝くじにあたるようなもの、と言った人がいるが、言い得て妙だと思う。

どちらが先かは誰にもわからず、ある程度の年齢になれば、自然の摂理として受け止めるしかなくなるのだろう。

 

俺が死んだあとのお前が想像できる。友達や編集者相手に
俺の思い出話をしながら、おいおい泣いて、そのわりには凄い食欲で、
パクパク饅頭を食ってるんだ・・・だから俺は自分が死んだあとの
お前のことは全然心配してない・・・

先日、ひとりで大きなどら焼きを食べているとき、
 この言葉を思い出し、可笑しくて可笑しくて ひとしきり笑いながら、
 気が付くと嗚咽していた


膨大な蔵書の置き場に困って都会から移住した長野。

自然の樹々や鳥たちに囲まれた終の家でがん再発後の短い余生についてご夫婦で何度も何度も語り合う。


そこには何の隠し事も衒いも装飾もなく、2人の間にただ自然の風が流れる・・・

 


小池氏という類まれな伴侶を得て、藤田氏は最後までお幸せだったのだなぁとしみじみ思ったことでした。

 

 

午後の音楽

小池真理子氏著『午後の音楽』
 

 

父や母、妹との距離感がつかめなかった少女時代。
夫に別の女性がいたとわかったときの喪失感や娘に与えてしまった心の傷。
胸の中にそっととどめておいた様々なことを、いつのまにか打ち明けてしまっていた。
音楽をふたりで奏でるようにメールで言葉を紡ぎ合う。
こんなにも共鳴し合える人に出会ったことの驚きと喜び。
それなのに相手は義弟、妹の夫…。
メールで綴られる新しい形の恋愛長編(「BOOK」データベースより)

 

 

男女のメールのやり取りに終始した物語。



男は女の妹の夫。

 
女は男の妻の姉。

 

小池真理子氏の描く恋愛モノに漂う甘やかな、そして切ない雰囲気満載の内容。

 

すべての文章がメールという形式に甘んじているゆえか、メールでありながら状況説明的な文章が続くのは否めないとしても、ちょっと生理的に受けつけ難かった作品でした。

 

良識ある知的な男と女が最後の一線を踏みとどまったから不倫ではない、といった論理はなりたたないと思えるほどの交流。

 

肉体的な交わりがあることだけが不倫の定義とは思えない・・・

良識ある・・・と思っているのは当人同士、打ち明け話もここまで来るとルビコン川を渡り切ってしまった感あり。

 

小池流のピアノの流れに乗って共鳴し合う男と女の甘やかな一時をメールというツールを通して美しく描いてはいますが、酔いしれている2人という像が浮かぶばかり。

 

宮本輝氏の『錦繡』に似ている設定でありながら似て非なりというところ。

 

ラストは女が良識ある大人として男から一時的に去る、ということで結ばれていますが、お互いに心の内を打ち明ける相手を間違えてしまった2人という印象で後味の悪い物語でした。

阪神・淡路大震災が起こって来年1月で22年。


少し前、神戸市が市民生活に密接に関わる一般会計事業として、倒壊建物のがれき処理や道路整備など都市機能の復旧に充てるため発行した1996億円の災害復旧債(借金)の返済が今年度末に完了するという記事を読まれた方もいらっしゃると思います。


神戸市によると、一般会計で行った阪神・淡路大震災の災害復旧事業は22種類あり、震災直後から最長99年度まで実施。

総額4834億円が投じられ、災害復旧債のほか、市の一般財源、国や兵庫県の補助が充てられていたそうです。


復旧事業で最も費用がかかったのが、倒壊したビルや家屋などの災害廃棄物処理。


災害復旧債の返済は96年度から始まり、04~06年度がピークで各年度200億円程度を要したそうです。


半壊証明をもらった我が家もほとんどすべての家具&家電が壊れ、それらを期限内に神戸市が無料で引き取りに来てくれた恩恵を受けています。


夫は大阪の本社勤務のため、一時独身寮に入っていたため、残っていた私と当時小学校6年だった次男とふたりで、火事場のバカ力を発揮して住まいのマンション5階から和ダンスや洋ダンス、洗濯機、冷蔵庫を階段つきエントランスを突破して建物の前まで運んだことは忘れられません。


よくあんな力が出たものだ、と思いますが、無料で引き取ってくれるというチャンスを逃してはならない、という一念だったのです。


時は流れて、たまに旅行者として訪れる神戸は見知らぬ街のように復興が進み、そして今年復興のための借金がすべてクリアできる、というニュースに深い感慨を持ちました。


東日本大震災&原発事故、熊本地震・・・そして鳥取地震、これらがすべての被災者にとって終結になる日が早く来ますように、と祈らずにはいられません。


今年で22回目となる神戸ルミナリエ。

阪神・淡路大震災犠牲者の方に鎮魂の意を込めるとともに、都市の復興・再生への夢と希望を託して、1995年の12月に初めて開催されましたが、途中予算の関係で廃止云々が議論されてきましたが、経費を大幅に節減して無事に今年も始まります。

12月2日(金)~12月11日(日)


旧外国人居留地および東遊園地です。






さて本日は小池真理子氏著『望みは何かと訊かれたら』のレビューです。 


「2006年2月、夫と娘と暮らす槙村沙織は、過去を共有する秋津吾郎と曇天のパリで再会する。
1972年、彼女の属するセクトは、市民社会の破壊と再生にむかって突き進んでいた。
革命活動という名の狂った坩堝。
アジトから脱走したわたしを救ってくれた青年との闇の時空は、不思議な静謐と確かな充実に満たされていた。
そして、いま…。
名作『恋』を超えた「愛」の形を描く著者最高傑作」


学生運動が高まっていた1970年代前半からの物語。

実際には1972年に日本中を震撼とさせた連合赤軍によるあさま山荘事件を覚えていらっしゃる方も多いでしょう。

本書ではそのあさま山荘事件を彷彿とさせるような架空の革命ゲバルト集団「革命インター解放戦線」のメンバーが閉ざされた中で狂気へと突き進んでいく様子が描かれています。

主人公は著者の等身大の槙村沙織。

著者が学生運動に関わった経験を描いた一連の作品の中の集大成ともいえる本書。


それら作品を通して私が感じたことを簡単に記すと・・・

地方(ここでは仙台)のごく標準的な家庭に育った女の子が東京の大学に入り念願の一人暮らし。


なんとなく背伸びしたい年頃の彼女が高みにあった政治というものをあこがれの男子学生を通して知ったことからあれよという間に抜き差しならない状況に陥り、逃げ、匿われ、逃げ、平凡な主婦になり、そして匿われたときの男とめぐり合い、その後の生活がなかったかのような時間を過ごすという物語。


主人公ならず、熱く革命を語っていた主催側の男子学生たちですら政治に対する確固たる意見を持たず、まるで熱病に冒されたような雰囲気に流されていたあの時代。


主人公の行動のきっかけには政治的なものはほとんどなく、すべて男性が関わっていたという事実。


男性ありきの学生運動、セクトのリーダー大場に惹かれ、過激派の組織に加わり、大場に気に入られたいがためのみに気がつけばメンバーの死体遺棄に関わったあたりで、その恐ろしさに気づき脱走、、、公園で偶然手を差しさしのべてくれた大学生・秋津吾郎に匿われての行き当たりばったりの濃密な2人だけの隔離生活。

わたしがあれほど素直に、自意識も自尊心もすべて放り出したところで身を委ね、裸になることができた相手は、生まれてこのかた、彼しかいない・・・。
あの日々は、とてつもなく不健康だった。
不健康だったが、とてもつもなく幸福だった。


徐々に閉塞感を感じ、そこからも飛び出し、結局は親元に助けを求め、まともな生活に立ち返ってまともな常識人の夫を得ての倦んだような日常の中、旅先の美術館で秋津と再会・・・そこから一挙にあの極限状態で味わった甘美な2人だけの濃密な関係に立ち返るというストーリー。


秋津と再会して次のステップに踏み出すまでならまだ青春時代の浅はかな行動を振り返って一途だった幼い自分が愛しくなる、という感覚もわからないではありませんが、著者はその後の秋津とのストーリーにこの物語のもっとも重要な核を持ってきていることをかんがみてなんとも不快感の残る作品となりました。

自己陶酔型の女性を描いて妙ともいえますが。

共感はできないながら「その後」がなければ青春の亡骸のような物語。

青春時代は自我意識が最高潮に膨張するときだというのはだれしも経験があると思いますが、自分本位な自我意識が美貌という胡坐の上に切れることなく続いている女性の危く脆い生き方が描かれていること、反発しながらも惹きこまれた作品ではありました。

修理に出していたPCが思わぬ長く戻ってこなくて、その間iPadで凌いでいましたが、片手打ちでは時間がかかりすぎるので短いコメント以外はできないでいました。

その間に嬉しかったことが2つありました。

1つはNHKのEテレの坂井修一選で私の短歌を採ってもらいたこと、そしてもう1つは毎日新聞歌壇の伊藤一彦選で選んでいただけたことです。


我が家は朝日新聞を購読していますが、朝日歌壇への投稿はハガキに書いて投函しなければならず、面倒臭がりの私はそれが億劫で過去に2回ほど投稿したことはありますが長続きせず、NHKのEテレと毎日新聞はインターネット上で投稿できるというのを最近知って、NHKには3度、毎日新聞には2度投稿しただけだったので、ほぼビギナーズラックのような感じ^_^;


NHKから私の歌が放映されるというお知らせの電話があったのは1ヶ月ほど前。

投稿歌は放映が終るまでくれぐれもネット上に出さないことと注意を受けていたので事前にブログにアップすることは控えていました。


歌友の先輩の方々や先生を通して、過去にブログやネットを通して出した短歌は公の歌壇などに出すことは許されないというのを知って以来、ブログに載せる短歌は将来どこへも出さないと思える歌のみと決めていて、短歌生活を送っている昨今、ちょっと不便といえば不便な。


すでに発表されたものはアップしてもいいということなので、恥ずかしいですが記念に掲載しておきます。


透明の膜を纏ひて死者のこゑ聴きゐるやうに本を読むひと(NHK Eテレ)

検診を終へたる夫のこゑ届き祈りは瞬時に感謝となりぬ(毎日新聞)


年に何度かがんのその後検診をしている夫ですが、結果を聞くまでのドキドキに慣れることがありません。

というのも今までやっと安心、と気を緩めたときに必ず次の大きな試練が待っている状況だったので、気を許してはいけないと自分に言い聞かせて弦を担いでいる感じ。

いつかは幸運にピリオドが来ることは承知してはいますが、いま少し、と願っています。






さて本日は小池真理子氏著『沈黙のひと』をご紹介したいと思います。


「両親の離婚によってほとんど関わりあうことなく生きてきた父が、難病を患った末に亡くなった。
衿子は遺品のワープロを持ち帰るが、そこには口を利くこともできなくなっていた父の心の叫び―後妻家族との相克、衿子へのあふれる想い、そして秘めたる恋が綴られていた。
吉川英治文学賞受賞、魂を揺さぶる傑作」


著者についての私の印象は恋愛小説の名手というくらいしかなく、恋愛小説をあまり読まない私は過去にほんの2、3冊を流し読みしただけですが、図書館の棚にあった本書を何気なく手にしたのが運命の出合い・・・とまではいいませんが、心に深く染み入る内容で、これは手元に置いておきたいと思い、読後amazonで購入しました。


著者・小池真理子氏は本書執筆の動機を文藝春秋のウェブ上で語っていらっしゃるので、興味がある方は読んでいただけたらと思います。



タイトルの「沈黙のひと」というのはパーキンソン病によって体が不自由になり、言葉も思うようにしゃべれない、 伝えたいことがあるのに伝えることができないもどかしさがいつしかあきらめの気持ちとなりダルマのように沈黙の人となってしまった、そんな父親を指しています。


私の周りにもパーキンソン病を発症して半年の歳若い友人がいるのでとても他人事と思えず読了。

彼女はまだほんの初期で発見され、動作にほとんど限定するようなものは見当たりませんが、これから徐々に起こるであろう不自由を思うと言葉が見つかりません。


さて本書に戻って・・・

本書は父親が亡くなった10日後に父親の遺品を整理するために訪れた施設での異母姉妹とのやり取りの場面からスタートします。


言葉を発することも歩くことも指先を使って何かをすることもできない父の遺品に見つかった性具とアダルトビデオ。

死に向かってただ息をしていただけのような父親の中に性への渇望があったことに、主人公である娘の「わたし」は深く深く救われます。


父親の死を契機に自分の知り得なかった父親の足跡を辿るために遺品のワープロのハードデスクから父親の生前の交友関係や手紙などを再現する過程で、自分がいかに父親に愛されていたかを知ります。


父の人生と私の人生は、これまで交わったことがなかったのではないか。
私の線と父の線は、一度も交錯しなかったのではないか。
その二本の線は、しかし、なだらかな放物線を描きながら、父の人生が終わりに向かう途中、思いがけずふわりと近づき合ったのだ・・・
いい気なものだ、と自分でも思う。
父がまだ元気だったころ、仕事が忙しいこと、自分と母を捨てた男は拒絶すべきだという信念を理由に、私はめったに父とかかわろうとしなかった・・・
私は長い長い間、親のことをまともには考えなかった。



上述の回想場面は私の中で深い共感を呼び、取り返しのつかない父母との関係を戻そうにも致命的な手遅れを感じて呆然としてしまいました。


私も著者と同じ・・・両親とは人並みに温かい交流もありましたが、若い自分は人生を背負った親を丸ごと知ろうという気もなく、というより知りたいとも思わず、ありきたりの交流でお茶を濁していたような気がします。


本書を通して「家族」とは、「肉親」とは、「夫婦」とはなんだろうと振り返りを余儀なくさせられました。


また生きながらにしてしゃべることも食べることもできず、徐々に徐々に心身の自由を奪われていく病と向き合わなければならない、そして命が尽きるまでいき続けなければならない残酷な生についても深く考えさせられる物語でした。


 「親のことは振り返らない人生を生きてきたものですから、最後の何年かを立ち会って、父が遺したものを目にして、ほんとに作家としてひとりの娘として思うこと感じることがまさに洪水のようにあふれてきたんです。
自分でも収拾がつかないような感情の群れみたいなものをなにか形にしないと自分自身が救われないというところまで行ってしまいました」

 ワープロで書かれた手紙の下書き、会社員時代の手帳、父親が遺した「文字」や「言葉」を傍らに置き読み返した。

 「泣いたこともあります。
父の85年の歳月が一挙に私の中に再現されるわけです。
それを受け取って自分や母と照らし合わせたり、あるいは人が生きて死んでいくとはこういうことかということも含めて、ものすごく深淵な穴を覗き込んでいる感じになってしまったからなんです」


吉川英冶文学賞受賞の発表があった3月4日は奇しくも85年の生を全うされたお父さまの命日だったそうです。

自宅を出て1分ほど走ったところでパトカーに呼び止められました。


何事かわからずとりあえず路肩に止めて・・・すぐに夫がシートベルトを着けていないと気づきましたが時すでに遅し


運転していた夫はパトカーに拉致されて指紋まで採られて減点1^_^;


罰金はないそうですが、何十年と減点もなく優良運転だったのにと夫は悔しそう。



夫を待つ間手持ち無沙汰だったので、パトカーに拉致されている様子を撮った写メを娘に送ると「いつもシートベルトの装着が遅いのでいつかは・・と思っていたの!」との返信メール。



解放された夫は私が直前に不用意に話しかけたからつい忘れたと私を責めていましたが、何度か装着を促したこともある私は心の中で「いい薬!」と呟いたことでした。





さて今回は小池真理子氏著『水底の光』をアップしたいと思います。


「パレ・ロワイヤルの灯、眠りについた東京タワー、掌で揺らめく花背の蛍、高原の霧に溶けてゆく花火、冬の観覧車、車窓に浮かぶ街の灯…。
イルミネーションに照らされて女たちの恋が浮かび上がる。
恋の闇のなかで、もがきながらも、一筋の光を見いだして前に進もうとする女性たちの喪失と再生の物語」



ある日の図書館、気になる本があまりにも不漁で仕方なしに借りた本、恋愛の切なさ、苦しさ、歓びなどとは今も昔もかけ離れすぎているので恋愛小説は苦手とする私にしては珍しく数日で読了。


スタイリッシュな都会の恋愛模様の描き手としてすぐ名前が浮かぶ著者ならではの6篇の男女の恋模様が描かれた短編集。


著者の初期のミステリ要素の濃いオカルティックな作品よりはまだ好みというか。



どの小品もさまざまな「光」-パリのレストランの灯や東京タワーの灯、花火、観覧車からの夜景、ホタルの光などーを背景に、充足しない愛の物語に陰影をつけているところ、やはり男女の機微を描く名手だなあと思いました。



状況に違いこそあれ6篇すべてが不倫の恋であり迷い込んだ迷路でもがき苦しむ主人公が描かれています。



その中でただ一作、「闇に瞬く」に登場する主人公の義姉は主人公の兄であり義姉の夫を自殺で亡くしたあと、既婚中愛していた恋人と巡り合い幸せを予感させる恋愛の最中なのに消え入りそうなホタルの光を背景にした物語全体の色調はやはり暗く、沈むような感覚を感じさせる作品となっています。



そして最後の「ミーシャ」は等身大の著者を濃く投影した作品であると著者ご自身があとがきでも触れていらっしゃる作品。

「その別れは唐突であるが故に濃密である。
いきなり下されたシャッターの向こう側には、ふたりが育んできたものが行き場を失って、溢れんばかりに取り残される。
そしてそれは歳月を経ても色褪せることなく、変わらぬ姿でそこに生き続けるのである」


愛猫の死をきっかけに若い男性との不倫の愛に終止符を打つ様子を描いたものですが、上述の「別れ」とは愛猫との別れなのか、はたまた男性との別れなのかという憶測を超えて愛するものとの別れが及ぼす普遍的な感情であろうと思われて・・・う~ん、作家って表現がうまいなあと感服!

梅雨から引きずっている不調がこの暑さでも続いていてなるべく外出も控えていますが、7月8月9月と身辺がかなり慌しく、いつもは空白の多いカレンダーが書き込みでぎっしりという状態が続いています。


娘たちが所用で帰省していたのを皮切りにお盆に先駆けて孫とお嫁さんがもうすぐ帰省、お盆には仕事を終えた長男が後を追って来る予定。


更に9月末には住み替えのための引越しがあったりと何とも気忙しい夏。


今指折り数えてみたら結婚以来12回の引越し、たいてい一足先に新任地に着任していた夫抜きですべて私がまかなってきましたが、今回は持病のために使い物にならない私を慮ってあちこちの友人知人が手伝いを申し出てくださっているので感謝感謝です!


これが最後の住み替えと宣言していますが、気楽に住処を替える私たちを知る周囲は一様に「あの軽薄夫婦のやることときたら!」という言葉を呑み込んで「ほんとかな?」とからかい気味^_^;


でも煩雑な引越しはもうコリゴリ!ほんとうにこれが最後です!・・・と宣言したものの最後は介護施設への引越しは免れない可能性が大ですけど^_^;




さて本日は小池真理子氏著『恋』をご紹介します。


「誰もが落ちる恋には違いない。
でもあれは、ほんとうの恋だった――。小池文学の頂点を極めた直木賞受賞作。
1972年冬。全国を震撼させた浅間山荘事件の蔭で、一人の女が引き起こした発砲事件。当時学生だった布美子は、大学助教授・片瀬と妻の雛子との奔放な結びつきに惹かれ、倒錯した関係に陥っていく。
が、一人の青年の出現によって生じた軋みが三人の微妙な均衡に悲劇をもたらした……。全編を覆う官能と虚無感。その奥底に漂う静謐な熱情を綴り、小池文学の頂点を極めた直木賞受賞作」



1978年エッセイ『知的悪女のすすめ~翔びたいあなたへ』でデビュー
1989年『妻の女友達』で日本推理作家協会賞
1996年『恋』で直木賞
1998年『欲望』で島清恋愛文学賞
2006年『虹の彼方』で柴田錬三郎賞
2012年『無花果の森』で芸術選奨文部科学大臣賞をそれぞれ受賞



1972年、全共闘時代末期を呈した連合赤軍が起こした浅間山荘事件と時を同じくして起こった軽井沢でのある発砲殺人事件に関わった加害者と被害者の、そこに至るまでの過程をあるルポライターの目を通して描いたものが本書です。


文庫帯の「著者入魂のバロック的犯罪サスペンス」というコピーが扇情的ですが、「バロック的犯罪サスペンス」というキャッチコピーはミスマッチという感じ。



著者は伴奏のように浅間山荘事件や学生運動を挿入させてデカダンスな雰囲気を醸し出しているようですが、主人公である殺人犯・布美子自身は同棲していた男がM大全共闘所属だったというだけの政治的な意識の低い女性、おまけに彼女が起こした事件が同時期に起こったというだけの設定というのが何とも陳腐な感じを受けました。


簡単に記すと、田舎から出てきた平凡な女子学生がアルバイトを通して知った上流社会の淫蕩なひと組の魅力的な夫婦の生活の非凡且つ豪奢な一端に触れ、魅せられた結果、ある青年の登場によってやがて犯罪の加害者という形で終局を迎えるという物語。



特異な内容で読者を挽きつける要素は盛りだくさんで、現に私も久しぶりに一気読みしましたが、黒子であるルポライターとの主人公の会話やその布美子の口を通して語られる夫婦との交友の日々の会話において露呈する布美子の低俗さや陳腐さ、深みのなさが物語設定を台無しにしているのではと思うほど目につきました。


布美子の設定がもっと深みのあるものだったら、夫婦が彼女を彼らの日常に取り込んだ理由も納得できたのに・・・そういった面で惜しい作品でした。



連日の猛暑、体が対応するだけでも大変な毎日になりましたね。


ついこの間までは東日本の状況から節電するぞ!という意気込みだったのに早くも腰砕け、一昨日からエアコン始動しています。


5月の連休明け、恒例のゴーヤ植えの準備でホームセンターに行ったところ昨年まではたくさんの種類のゴーヤの苗が所狭しと並んでいてどれを選ぶか迷ったほどだったのに今年は選ぶどころか、2本の苗しかありませんでした。


私と同じ目的で買いにこられていた人々も戸惑っている様子。


お店の人に聞いたところずっと入荷待ちだとか。


節電が重要テーマの東京周辺の住民が緑のカーテンで少しでも節電を、ということで都会でゴーヤの苗の買占めブームが起こっているそうです。


その後何度かホームセンターに足を運びましたが入荷する様子もないので今年は2本の苗で勝負していますが、すでに緑のカーテンの役目としてはなかなかのものです。



エアコンの効いた室内から眺めるなんて不届き千万という感じですが、緑が目に優しく癒されています。




さて今日は小池真理子氏著『無伴奏』です。



「その果てに待つものを知らず、私はあなたを求めた――。
多感な響子は偶然に出会った渉に強く惹かれるが、相手の不可解な態度に翻弄される。
渉に影のように寄り添う友人の祐之介と、その恋人エマ。
彼らの共有する秘密の匂いが響子を苛み、不安を孕んで漂う四角形のような関係は、遂に悲劇へと疾走しはじめる。
濃密な性の気配、甘美なまでの死の予感。
『恋』『欲望』へと連なる傑作ロマン」



舞台は学園紛争やデモ盛んな1960年代の杜の都・仙台。


若かりし頃の著者と等身大の17歳の主人公・野間響子と東北大の学生・堂本渉21歳の危うい恋の物語。



危機感のない凡庸な日常から何の根拠も持たずただひたすら脱皮したいとあせっていた日々は、言い換えれば今にも折れそうな繊細な精神とともに薄っぺらな反体制=自己の証のような軽薄さを合わせ持つ青春時代の特権といえるのではないでしょうか。



年齢は著者より少し年長ですが、作品の時代背景は自分の青春時代と同色で、お互い過ごした場所は異なりますが甘酸っぱい懐かしさを誘う作品でした。



青春とは何とキザで鼻持ちならない自己表現の場だったのだろうというのがこの作品を通しての思いですが、反面そういった青春の危うさが今の自分には抱きしめたいほど愛おしく感じられて切なくなりました。



作品の内容から逸脱してしまいましたが、現実に仙台市にあったというバロック音楽の喫茶店「無伴奏」を舞台に運命的に出会った男女4人のそれぞれのカップルの行く末が主人公・響子の目を通して語られていくのですが、当時としては衝撃的な愛の形と結末が思い切った筆致で描かれていて私たち読者にとって小池真理子氏の予定調和的な予感が外れない作品となっています。



著者の作品は非日常のオカルティックなものが主流を占めていると思いますが、本書は純粋な恋愛小説です。



ある編集者との打ち合わせで彼が自分と同時代に仙台に住んでいたことを知り、当時の町並みや学園紛争の話、学生たちの通っていた喫茶店の名前、当時流行っていた本や音楽について盛り上がった一夜が著者の本作執筆の強い動機になったという本書、書いている間中楽しくてずっと書き続けていたいと思った思い入れの深い作品であったと「あとがき」に著者ご自身が書いていらっしゃいます。



余談ですがこの後『恋』、『欲望』と続く小池真理子氏の三部作が出来上がり、前者の『恋』で1995年に直木賞、後者の『欲望』で1998年に島清恋愛文学賞を受賞されました。

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