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ご訪問ありがとうございます。 「一日一生」を銘にさまざまな人生を読書というツールを通して味わっていきたいと思っています。 響きこし言葉に貼れるさみどりの付箋そよぎて林となりぬ

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カテゴリ: 梯久美子

先日夫と由布院への一泊旅行に行ってきました。


当地から博多まで新幹線で約1時間半、博多から由布院まで特急で約2時間半の旅。
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由布院と別府は由布岳や鶴見岳を挟んで山のこちら側と向こう側。


観光バスで行けば1時間ほどの距離だそうです。


別府には何度も行ったことがありますが、由布院は初めて。


温泉地としても豊かな湯量で、源泉の数は別府に次いで全国第二位だそうです。
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源泉かけ流しの部屋付き露天風呂


大分県のほぼ中央に位置し、まわりを自然に囲まれていてどの位置からも由布岳が臨めます。


由布院の周辺の観光にはスカーロボ というクラシックバスか辻馬車があり、どちらも約1時間程度で何ヵ所かの観光スポットを案内してくれるというもの。


私たちは辻馬車を選択。

JR由布院駅を出発し、50~60分かけてゆっくりと由布院の町を散策し、佛山寺、宇奈岐日女神社を経て駅に戻るコース。
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9~10人乗りの馬車を馬が曳きます。 


名前は聞き損ねたけど、10歳になる馬。
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ガイドの手綱に従って黙々と自らの仕事をこなす姿がなんだか健気で、坂道をすごい馬力でたてがみを靡かせて駆けあがる様子に他の乗客は歓声をあげていましたが、私は切なさが先立って楽しめませんでした。


一仕事を終えて出発点に戻りごほうびに飼葉をもらって食べていた馬を撫でながらずっと見入っていました。
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さてこのブログを書くときも迷った「由布院」と「湯布院」。


以前TVでその成り立ちやちがいを観たことがあります。


元々は「由布院」だったのが、は昭和30年に由布院町と湯平町が合併して「湯布院」という地名が誕生したそうです。

厳密にいうと、湯平町を含む場合は湯布院、含まない場合は由布院となるという。


例えば、高速道路のゆふいんインターチェンジは「湯布院」、JRのゆふいん駅は「由布院」という表記。



まぎらわしいけど・・・たまたま降り立ったJR駅が「由布院」だったので、これを採用しました(^.^)





さて本日は梯久美子氏著『原民喜―死と愛と孤独の肖像』のレビューです。


「『夏の花』で知られる作家・詩人、原民喜(1905―51)。
死の想念にとらわれた幼少年期。
妻の愛情に包まれて暮らした青年期。被爆を経て孤独の中で作品を紡ぎ、年少の友人・遠藤周作が「何てきれいなんだ」と表した、その死――。
生き難さを抱え、傷ついてもなお純粋さをつらぬいた稀有な生涯を、梯久美子が満を持して書き下ろす、傑作評伝。
『私の文学が今後どのやうに変貌してゆくにしろ、私の自我像に題する言葉は、
死と愛と孤独 恐らくこの三つの言葉になるだらう。』(原民喜「死と愛と孤独」1949年) 」


原爆小説として有名な『夏の花』。


爆心地から1.2kmの生家の厠にいた朝、被爆した原民喜が被爆直後からその目で見た市内の惨状を認めた「原爆被災時のノート」をもとに、11月までの数ヶ月をかけて執筆したもの。


原が最初につけた題は『原子爆弾』でしたが、あまりにもそのものずばりで生々しくこのままでは検閲にかかるということで『夏の花』に改題・・・これらの経緯は細かに本書に記されています。



本書は原が中央線の西荻窪―ー吉祥寺間で鉄道自殺を遂げる1951年3月31日前夜の描写から始まります。


「三田文学」の後輩にあたる鈴木重雄の家にふらりとやってきた原民喜。


何を話すでもなくただ黙ってうまそうに焼酎を飲んで帰ったといいます。


下宿には親族友人に宛てて17通の遺書が遺されていたという・・・。


大久保房男、遠藤周作、兄の守夫、妻の母・永井すみ子、義弟の佐々木基一、丸岡明、鈴木重雄、庄司総一、山本健吉、藤島宇内、佐藤春夫、梶山季之。


例えば佐々木基一に宛てた遺書。

「ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思ひます。
僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。
妻と死別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だったやうな気がします。
岸から離れて行く船の甲板から眺めると、陸地は次第に点のやうになつて行きます。
僕の文学も、僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。
今迄発表した作品は一まとめにして折カバンの中に入れておきました。
もしも万一、僕の選集でも出ることがあれば、山本健吉と二人で編纂して下さい。
そして著書の印税は、原時彦に相続させて下さい。
折カバンと黒いトランク(内味とも)をかたみに受取って下さい。
では御元気で・・・・・・」


心を込めて原を理解し支えてくれた妻は結婚十一年目に三十三歳で病死します。


妻と結婚したての頃、「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・」とエッセイ「遥かな旅」に書いていましたが、妻の死から1年たたないうちにはからずも故郷・広島に帰って原爆に遭い、自分の見たものを書き残さないうちは死ねない・・・

「死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」と自らに命じたといいます。


そして『夏の花』を書き、戦後6年近くを孤独の中で生きのびて、自ら死を選んだ原。



彼の自死を知ったあと「驚いたが当然であるような気がする」と受け留めた友人知人が多く、その誠実無垢な人柄は多くの人々に宝のように愛されていたのでした。


埴谷雄高は弔事で次のように述べています。

「あなたは死によって生きていた作家でした」



フランスに留学中だった「三田文学」の後輩・遠藤周作をして言わしめた言葉も彼の人となりを表しています。

「原さん、さようなら。 ぼくは生きます。 しかし貴方の死は何てきれいなんだ。 貴方の生は何てきれいなんだ」


死の2年前、原は発表したエッセイ「死と愛と孤独」の中で次のように書いています。

「私の自画像に題する言葉は、/死と愛と孤独/恐らくこの三つの言葉になるだらう」


不器用で内向的で、世間的な意味では何の役にも立たない人だったけれど、攻撃的だったり、ずるかったり、強い自己主張をしたりというところの全くない人だった原民喜。


生涯出した本は2冊だけで、そのうち1冊は自費出版のようなもの。

『夏の花』という一冊のみが彼の人生で生み出したものだった原。


広島の実家はお金持ちで、東京の大学を8年かかって親がかりで出て、結婚してからも仕送りをもらっていた原。

仕事はといえば、学校の先生を非常勤で少しやっただけという原。

世のため、人のために何かするというより周囲の心ある人々が手を差し延べずにはいられない純で生き方がただたどたどしかった原のそういった生き方そのものが周りの人々に忘れられないものを遺したと著者は結んでいます。


まだまだ書きたいことはありますが、この辺で終ります。

著者渾身の力作、ぜひ手にとってくださればと思います。

12月14日に沖縄の辺野古での土砂投入が始まりましたね。


真青の辺野古の海の、土砂が投じられている一部が褐色に濁っている映像に胸を衝かれています。



新基地建設の是非を問う県民投票が行われるという来年2月24日までも待てないという政府の憑かれたような性急さに怒りを通り越して信じられない思いです。



このような状況で手を拱くしかないという自分はやはり政府側にたって傍観しているにすぎないという思いが強くなります。



こんなときネット上でローラさん初め一部の著名人の電子署名呼びかけが報じられました。


トランプ大統領宛。


すでに14万筆になっているそうです。


1月7日までに請願が10万筆以上集まると、ホワイトハウスは60日以内に何らかの対応や回答を検討しなければならないそうです。




署名は�@firstname �Alastname �Bメールアドレス を入れて�Csignnow のボタンをクリックするだけです。


そのあとメールアドレスに届いた確認メールのリンクConfirm your signature by clicking hereをクリックすれば完了です。



私も夫も署名完了!







さてこれから年末に向けて少し慌しくなりそうな我が家。


いつもの2人の生活が慌しくなります。


なので今回が今年最後のレビュー。



毎回拙いレビューを辛抱強く読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。



梯久美子氏著『世紀のラブレター』


「甘える裕次郎、渇望する鳩山一郎、死を目前に想いを託した特攻兵や名将たち。平民宰相は妻の不貞をかこち、関東軍参謀はその名を連呼した。
「なぜこんなにいい女体なのですか」と迫る茂吉、「覚悟していらっしゃいまし」と凄んだ美貌の歌人。
ゆかしき皇族の相聞歌から、来世の邂逅を願う伴侶の悲哀まで――
明治から平成の百年、近現代史を彩った男女の類まれな、あられもない恋文の力をたどる異色ノンフィクション」


銭ママからもらった本のうちの一冊。


著者の梯氏のノンフィクションの実力については銭ママと一致した感想。



梯氏の作品はいくつか読んでいますが、ブログには次の3冊をアップしています。


『散るぞ悲しき』『百年の手紙』『愛の顛末』

 
またブログにはポストしていませんが、まだご存命だった島尾ミホ夫人への長期取材を通して上梓された長編『狂うひと』も先ごろ読んだばかり。


また後日アップしたいと思います。



メール全盛時代ともいわれる昨今、手書きの手紙や葉書きはどんどんガラバコス化しているといわれていますが、ここに挙げられている手紙を見ていると、懐かしい時代が蘇ってくるようです。



引越しの度ごとに断捨離に向けて多くのものを処分してきた中にあった写真や手紙。


嫁いだ当時、筆まめだった義母や義姉からしょっちゅうもらっていた手紙がたくさん残っていました。


そのほとんどは嫁である私に来たもので、私もせっせと期待に応えるべく返事を出したことが伺える内容。



そのほとんどを処分してしまいましたが、残した一部を読んでも切なさが蘇ります。




さて本書について・・・


石原裕次郎、小林旭、鳩山一郎、白州次郎、芥川龍之介、植村直己、内田百�閨A木村功、山本五十六、斉藤茂吉、柳原白蓮、金子光晴、橋本龍太郎・・向田邦子、須賀敦子、美空ひばり、森鴎外、夏目漱石、川端康成・・・


中にはラブレターとはいえない内容の手紙もありますが、いずれも心を許した妻に宛てたものが多く、読み手が気恥ずかしくなるほど愚直に愛の言葉をぶつけていたり、不満を投げかけていたり。



驚くのは先の大戦時代を雄雄しく生きたであろう無骨な軍人たちの妻に対するやさしさあふれた無防備な愛の言葉の意外性に驚きを隠せません。



「・・・たった十年かそこらで、日本人は何でもメールですませるようになってしまった。
愛の告白や別れの言葉さえ、今や「書く」ものではなく「打つ」ものである。気軽に書いてすぐに送ることができるのはメールの利点だが、報告書のたぐいならいざ知らず、紙の手触りも個性の伝わる肉筆の文字もない”電子恋文”では、なんとも味気ない。
おまけに、恋がが終わればクリック一つ、キー一押しで虚空の彼方へ消えてしまう。
気恥ずかしくなるほど正直で、それゆえに胸を打つ。
その人が生きた時代や人生がにじみ出る−そんな恋文を、われわれ日本人は、つい最近まで書いていた。
恋愛も言葉も、吹けば飛びそうに軽くなってしまった時代だからこそ、さまざまな日本人が一文字一文字思いを刻んだ恋文を、もう一度、読み返してみたい」


あとがきの著者の言葉です。



最後に感動的なラブレターをご紹介して終ろうと思いましたが、これもおもしろいかもしれないと思い直して、ご紹介するのは斉藤茂吉の若き女性へのラブレター。



斉藤茂吉といえば斉藤茂太&北杜夫の父親であり、青山脳病院の院長、伊藤左千夫の門下生にしてアララギ派を牽引した大歌人。


短歌をされている方なら誰でもご存知の大御所です。



妻・輝子の実家・斉藤家の婿養子となり病院を継いだ経緯があり、活発な輝子に頭が上がらなかったという有名な逸話もあります。


その輝子の不始末が原因で12年間別居したときのできごと。


師であった正岡子規忌歌会で傷心の茂吉の前に現れた美しい女性。


ふさ子24歳。

茂吉52歳。


「ふさ子さん!
ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。
何ともいへない、いい女体なのですか」



茂吉の恋は茂吉の死後10年たってふさ子が80通にのぼる手紙を雑誌に発表するまで秘められていたそうです。
恐るべし茂吉&ふさ子!

2月19日は二十四節気の「雨水」のはじまり。

この日から「啓蟄」までの期間をいいます。

地上にもいよいよ陽気が発生し、雪や氷はとけて雨や水になる季節。


春の小さな鼓動を感じることできる季。

ふきのとう、梅、ねこやなぎ、サンシュユなどの小さなつぼみが寒さに立ち向かっている様子が健気です。


この「雨水」に雛を飾るとよい伴侶に恵まれるという言い伝え。

そして雛をしまうのは「啓蟄」の日。

ちなみに今年の「啓蟄」は3月5日だそうです。


孫のアスカに幸あれと我が家でもお雛様を飾りました^_^







さて本日は梯久美子氏著『愛の顛末』のご紹介です。

「こんなにも、書くことと愛することに生きた!
小林多喜二、三浦綾子、梶井基次郎…
運命の出会い・悲恋・ストーカー的妄執・死の床での愛。
明治・大正・昭和に生きた文学者12人の知られざる愛の物語を辿った、珠玉のノンフィクション」


日経新聞に連載していた「愛の顛末」を一冊にまとめたもの。




[目次]
小林多喜二―恋と闘争
近松秋江―「情痴」の人
三浦綾子―「氷点」と夫婦のきずな
中島敦―ぬくもりを求めて
原民喜―「死と愛と孤独」の自画像
鈴木しづ子―性と生のうたびと
梶井基次郎―夭折作家の恋
中城ふみ子―恋と死のうた
寺田寅彦―三人の妻
八木重吉―素朴なこころ
宮柊二―戦場からの手紙
吉野せい―相克と和解


著者は日本本土決戦を阻止するためだけに最後の砦となった「硫黄島」で指揮を執った栗林中将の生涯を描いて第37回大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞された『散るぞ悲しき』を上梓されたノンフィクション作家として有名です。

 
命を賭して戦う以外の道がなかった人々と遺された家族を描いて涙なくしては読めないほどの内容の濃いノンフィクション作品としていまでも忘れられない一冊となっています。


著者は上記の作品においてと同様に本書でも対象となる各人の作品や手紙といった資料を綿密に調べておられるのはいうまでもなく、それぞれの作家の方々の足跡を1つ1つ丹念に辿るという作業を通してそれぞれの人となりに迫るという手法で幾多のノンフィクションを上梓されています。


[目次]をざっと追っただけで興味を曳かれる作家たち。


無私の愛といえば崇高ですが、中にはストーカーまがいの妄想的な愛、自分のなかだけで膨らんでいった愛など多種多様。


中でも近松秋江は女性に対する常軌を逸した執着を描いた作品を遺して有名ですが、私生活においても実際の女性に対して妄執を持ち続けたことが窺われます。


また『氷点』を作家生活のスタートとしてキリスト者の目線で多くの作品を描いた三浦綾子の愛ある生涯にも迫っています。

彼女の生き様はご自身の著書『道ありき』に描かれたとおりですが、2人の男性への愛を真摯に貫き通された生涯に胸を打たれます。


生涯妻子を愛した中島敦、恋多き女性として名を馳せていた宇野千代を巡って夫・尾崎士郎と対峙した梶井基次郎、また宮柊二の戦場から妻に宛てた愛の手紙も心に沁みます。

戦争が終ったあとはお互いに処分することを約束した手紙、柊二との約束を破り妻が密かに取っておいた手紙の数々はのちに歌人・宮柊二の記録として世に出ています。


ほかに限られた命と決められたなかで短歌と愛に淫した中城ふみ子や、小林多喜二と恋人の田口タキのことなど、いつの世もさまざまな愛に支えられて人は前向きに生きることができる、というのを教えられる秀作です。

ぜひどうぞ!

先月末、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会で参議院議員・山本太郎氏が天皇陛下に直接手紙を渡された行為が今議会で俎上に挙げられています。 573d8a2b.jpg


ご本人は「陛下に福島第一原発事故をめぐる健康被害および事故の収束で働く原発作業員の労働環境の劣悪さについて知ってもらいたかった」と述べ、議員が陛下に手紙を渡すことが禁止とは聞いていないし、自分の行動は議員による皇室の政治利用にはあたらないとコメントされています。


巷の賛否両論

「主権回復式典の天皇出席や五輪招致への皇族派遣など、安倍政権自体が皇室を大規模に政治利用してきた中、山本氏だけをたたくのは公平ではない。
山本氏も国民が選んだ国会議員であり、『不敬』だから辞めろと言うのは、民主主義の否定だ」と述べられた北海道大学教授・山口二郎氏。

同じような意見では「政治利用というならば、主権回復の日の式典に天皇陛下を出席させたりIOC総会で皇族に話をさせたりした安倍政権の方がよほど大きな問題だと感じる」と明治学院大学教授・原武史氏。

漫画家の小林よしのり氏は「この件で山本議員に厳罰とか、辞職などという処分が下されるのなら、日本もいよいよ恐ろしい右傾化が進んでいると思わざるを得ない」と述べていらっしゃいます。

方や否定的な意見はというと

「憲法上、天皇は政治的な権能を有さず、政治的な対応を求めることは憲法の規定にそぐわない行動だ。
憲法を知らない者の行う行動だと言わざるを得ないと。
憲法上の天皇の地位というのは、国政に関する機能を有さない」と発言された共産党委員長・志位和夫氏を筆頭に、高崎経済大学教授・八木秀次氏の「明らかな政治利用だ。
天皇陛下の政治的中立ということをまったく理解していない。
国会議員としての資質が問われる」など

両議論の核は天皇を政治的に利用している行為か否かという点に絞られているようです。


ジャーナリストの石井孝明氏は明治時代に足尾銅山鉱毒被害の救済運動を背負って死刑を覚悟で明治天皇に直訴状を渡そうとされた元代議士・田中正造氏と比較して・・・

「田中正造は、社会秩序を乱すことを恥とする強い倫理観を持ち、命をかける覚悟を持って主権者たる明治天皇に直訴したが、山本太郎は日本国憲法下における政治的に中立な天皇の制約を犯すことで民主主義の制度を犯し、天皇陛下に対する礼も失している・・・
田中正造と比較にならない醜悪な活動家の勝手な騒擾、目立ちたいという矮小で身勝手な願望、卑劣な行為、甘えがある、遊びと言ってもいい行為である」と厳しく断罪していらっしゃいます。


田中正造氏は私の中では偉人として尊敬する方、直前に衆議院議員の職を辞し公人から個人に戻り文字通り命を賭しての直訴と比べることは時代情勢を鑑みても難しいように思いますが、現代においても天皇に直接手渡しするという行為自体軽率だという意見はその通りだと思います。


国民に接する機会の多い天皇、その度に内容いかんにかかわらず手紙その他を手渡しされたらどこで線引きすればいいか・・・やはり受け取らないとするスタンスが確かではないでしょうか。

しかし不敬罪に当たるほどの行為だろうか?という疑問が拭えないのも事実です。


今では公人として様々な場で原発に関する意見を述べることができる立場におられる山本氏。

こういったバッシングにめげず、これからもあらゆる機会を捉えて発信し続けてほしいと願っています。




さて本日はその田中正造氏の直訴状を冒頭に取り上げた作品をご紹介したいと思います。

梯久美子氏著『百年の手紙――日本人が遺したことば』


「田中正造、寺田寅彦、宮柊二、端野いせ、吉田茂、中島敦、横光利一、山田五十鈴、室生犀星、管野すが…。
恋人、妻・夫、子どもへの愛、戦地からの伝言、権力に抗った理由、「遺書」、そして友人への弔辞…。
激動の時代を生きぬいた有名無名の人びとの、素朴で熱い想いが凝縮された百通の手紙をめぐる、珠玉のエッセイ」


著者がとてもよい仕事をされたなあと思えるすばらしい作品になっています。


少し前、ラヴレターに特化した手紙集を解説された渡辺淳一氏による作品『ラヴレターの研究』を読んで後味が悪かったので、この手紙集で浄化されたという感じです。


本書は2011年~2012年にかけて東京新聞と中日新聞に連載されていた「百年の手紙」がもととなっています。


連載が始まったのが東日本大震災から4ヶ月後の時期であったために、震災後の状況が、特に第一章の内容に色濃く反映されていると著者はあとがきで記していらっしゃいます。


電子メールの普及で手紙を書くという行為が徐々に過去の遺物となっている昨今ですが、当たり前のことながら手紙の持つ力に心が震えます。


ある種の手紙を除いて、書き手の心情を吐露している手紙自体はもっともプライベートなものだと思いますが時代を反映してそれぞれの趨勢に添わざるを得なかった苦難の様子がうかがわれて貴重な心の証となっています。


1901年に田中正造によて明治天皇に宛てて書かれた直訴状を皮切りに、1953年に書かれた室生犀星の堀辰雄への弔辞で終わる本書。


百通の中ではあまりにも心の琴線に触れる手紙が多く選択に戸惑うばかりですが、この場では少しだけご紹介して、後はぜひとも手にとって読んでいただきたいと思います。


上記の山本太郎氏とはからずも比較された田中正造の「天皇直訴」事件は教科書にも載るほど有名な事件ですが、この直訴文はのちに大逆事件で死刑になる幸徳秋水が田中正造の意を受けて起草し、さらに正造が加筆訂正したものだといいます。

銅山の操業停止を求めたこの直訴は反響を呼び世論が一時的に盛り上がったそうですが、日本が工業国として発展するためには操業を続けるほかないとの政府や国民の選択により実りませんでした。

文字通り命を削って書いた直訴文を読むと涙を抑えることができません。

田中正造はこれら権力に屈することなく終生地域社会を守り、自然とともに生きる姿勢を貫いたといいます。

「真の文明ハ山を荒さす川を荒さず村を破らず人を殺さゝるべし」

平成の今、田中正造が生きて首相であってくれたらと思わずにいられません。


また大逆事件で女性としてただ1人死刑となった菅野すがが、同志であり恋人であった幸徳秋水のために朝日新聞記者・杉村楚人冠に宛てて獄中から出した手紙からは激動の時代の狂おしい波に呑まれなければならなかった宿命を感じて胸が苦しくなるほどでした。

「幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話ヲ切ニ願フ」

一見すると白紙の半紙、だが光にかざすと針で開けたと思われる無数の小さな穴があり、文字になっているのです。

「幸徳までが重罪に問われる危険を感じ取った管野の、何とか彼の命を助けようとする必死の思いが、細かく穿たれた点の一つひとつから伝わってくる。
しかし、管野の願いもむなしく、幸徳は死刑となった」と著者のコメントに結ばれています。

余談ですが、杉村楚人冠は私の姉の夫のそのまた姉の嫁ぎ先の義父にあたる方、何かの文章などで名前に触れることがあると遠縁とはいえ親しみが湧きます。



驚きを持って読んだものに敗戦直後昭和天皇・皇后からそれぞれ別々に当時11歳だった現天皇に宛てて書かれた手紙があります。

長くなりますが挙げます。

「国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生とあまりにちがったことをいふことになるので ひかへて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ/ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである/ 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである/ 明治天皇の時には 山縣 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです/ 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」

この手紙の最後の署名は<父より>となっていたそうです。


次に香淳皇后の手紙を続けます。

「ごきげんやう 日々 きびしい暑さですが おさはりもなく お元気におすごしのこと 
おめでたく およろこびします 長い間 おたづねしませんでした この度は天皇陛下のおみ声をおうかがひになつたことゝ思ひますが 皆 国民一同 涙をながして伺ひ 恐れ入つたことゝ思ひます
おもうさま 日々 大そうご心配遊しましたが 残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救はれたのです
二重橋には毎日 大勢の人が お礼やら おわびやら 涙をながしては 大きな声で申し上げています
こちらは毎日 B29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B29は残念ながらりっぱです
お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりませんしつきりなしです
ではくれぐれもお大事に さよなら」

お二方のあまりの率直さに胸を打たれます。



またソ連軍に監禁されていた中島茂が家族に届けてほしいとの祈りを込めて通行人に託した「通行ノ日本人ノ方ヘ。血ノ涙デオ願シマス」という手紙も胸に迫ります。

高い牢窓から道路に向かって投げたマッチ箱の中に隠した運命を託した手紙。

奇跡的に家族のもとに届いた手紙の内容は次のようです。

「子供達よ。 お父さんは必ず帰る。
お母さんを中心に、しつかりせよ。 お父さんは守つてゐる。 魂はお前達を守つてゐる・・・
子供よ、五年でも十年でも待つてゐよ。
必ずお父さんは帰るよ」

著者は「中島の妻は、遺書となったこの手紙を、乳飲み子のおむつの中に油紙に包んで隠し、日本に持ち帰ったという」と結んでいます。


戦争を挟んだ時代の前後の戦地からの手紙の数々を読むと、どのように苛酷な運命であろうと受け入れざるを得ない人間の諦念の底の義憤というものが身に迫ってきます。


これは戦争だけに限らず来る死刑執行の足音を待つ死刑囚、死病に侵された人などに共通することと思いますが、彼らの手紙を通して運命を甘受する人間の強さというものを感じます。


ほかにもご紹介したい手紙が山ほどですが紙面の都合上この辺で終わりにします。

ぜひ読んでいただきたい作品のひとつです。

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